present by 梧臨海 00 手紙  拝啓 親愛なるイザベル様  風巻《しまき》が痛いこの季節、御身体の調子を崩されてはおりませんでしょうか。まだ長く続く朝夕の冷え込みは、無理をなさると確実に体調を蝕みます。どうか、ご自愛下さいませ。 さて、寄せる年月とは早いもので、つい先日、お嬢様も15歳になられました。人間の──それも女性は、非常に繊細で扱いにくい年頃と聞いていましたが、お嬢様に限ってはそのようなこともなく、先週も旦那様と仲良く温泉へ出かけられたぐらい、お二人の仲は睦まじく、本当の親子であるかのようです。 懸念されていた魔族の血も、教会へ足繁く通うようになってからは嵐が過ぎ去った後の空のように落ち着き、お嬢様の魔族化は杞憂であったと旦那様と共に胸を撫で下ろした次第です。 しかし、私にとって気懸かりなのは、実は魔族化よりもお二人のその関係にあります。無論、仲良きことはとても喜ばしいのですが、そろそろお嬢様も生涯の伴侶となるべき人を探し始めても良い時期だと思うのですが、浮いた話一つなく、旦那様もお嬢様には甘いところがありますから、あまり突き放すようなことは致しません。これでは、文武両道、気立てもよく、貴族のご令嬢と比べても引けを取らないお嬢様なのに、伴侶や婚期を逃してしまうように思え、気が気でなりません。 女の幸せは結婚で決まる──と、人間界の書物で読んだことがありますが、イザベル様が仰られた「人間の娘として幸せに暮らせるように」とは、やはり、幸せな結婚を示唆していらっしゃるのでしょう。どうか、良い知恵をお貸し下されば幸いです。  ただ、王国には最近、流れ者の賞金稼ぎなどが出入りするようになって参りました。なんでも魔法石の大鉱脈が見つかったとか。近く、王国軍としてもその場所へ調査団を派遣することが決定したようです。現在の冷戦状態もいつまで続くか分かりませんし、くれぐれも交戦地域付近に近寄りませぬ様、お気をつけ下さい。  敬具  王国暦1445年 1月19日 執事《バトラー》キューブより 01 確執 「これでよし、と」  足に羊皮紙を括り付けられた鳩が今、天高く舞い上がっていく。 冬の真っ只中というのに穏やかな風が凪ぐ良日であった。麻袋色の焦げた肌を持った少年は、卵形に輝く紫水晶《アメジスト》の瞳を細めて、羽が舞い散る空を見上げる。 雲ひとつない晴天。遠くには蒼い空と白く煙った山のストライプがうっすらと覗く。そんな冬らしからぬ気候に、少年執事──キューブ──は、スーツの襟元を正しながら嫌な予感を覚えて首を振った。そして、窓の桟を握り締めて、目の前に広がる王国を見渡す。 レンガ造りの街並みは、石畳の小道に沿って緩やかと続き、その先で一際大きな街道と交差する。商店と露店が軒を連ねる街道の中心には、女神を象った噴水が堪えることなく清水を湧き出させており、若い娘達が憩いの声を上げていた。 「大丈夫。街も城も静かで穏やかな、毎日見ている王国に変わりないじゃないか。何も不安になることない」  まるで自分自身へ言い聞かせるように小さく呟いた言の葉は、穏やかな空気と共に王国の冬空へ消えていった。少年はその先にふと故郷を思い出して、一人苦笑いを返す。 「まったく……今日の僕はどうかしている。自ら望んで故郷から逃げ出したっていうのに、これじゃあホームシックにかかった子供みたいじゃないか」  自嘲気味に笑う少年には、その台詞もよく似合っていた。一見では十代半ばに窺える容姿も、その落ち着いた雰囲気は大人の余裕を表している。伊達に執事を任されているわけではないようだ。 しかし、流石の彼もこれから起こる不測の事態には目を丸くせざるを得なかった。 「お父さんなんか、大ッ嫌い!」  それは美しい声だった。凛とした強さと、それでいて少女の持つ儚さや弱さを感じる声。透き通ったソプラノは、大人びた気品を感じさせながらも、紅く熟した林檎のように艶やかで異性の本能を掻きたてられる。雨水に濡れたカラナシの大樹に、もし精霊が宿るならきっとこんな声に違いない。 しかし、そんな美しい声も今日という日だけは勝手が違った。ただの一言……だが、その悲しみに暮れた涙声は、父親を非難する意味合い以上に、深い嘆きを含んだ精一杯の抵抗のように感じられた。 それが、少年執事には信じられなかったのだ。  なにせ、先刻飛ばした手紙に認めたほど、当家の親子仲は睦まじいはずなのである。ところが届いた声に含まれる険は確かなもので、程なくして、白地に薔薇をあしらった稽古着に身を固めた娘が、街外れへ向かって疾走していく姿が目に映ったのだから。 「これは、一体……」  しばらく、放心したように後姿を眺めることしか出来なかった彼も、時間が経過するごとに現在の認識が確実になってくる。 「と、とにかく! 旦那様に会ってみないと」  ようやく正常な判断を取り戻した少年は、ふと傘下に広がる街路を見渡して蟀谷《こめかみ》を押さえて蹲った。道行く人は物珍しそうに立ち止まり、既に家の周りには垣根が出来始めている。 「弱りました。これでは在らぬ噂が立ってもおかしくありませんよ」  町民に気付かれないように、窓の影へと身を潜めた執事は、ため息を吐きながら外の喧騒に耳を欹《そばだ》てた。 町内でも評判の仲良き父娘──その娘が泣きながら父親を罵って飛び出してきたとあれば、よからぬ詮索や吹聴があって当然だろう。既に悪意のあるなしに関わらず、噂は尾鰭がついて外気に充満していた。 「……なんでも、クラリスちゃんが泣きながら家《うち》を飛び出していったらしいじゃないか」 「そうらしいのよ。噂によるとクラリスちゃんの手にはお父さんの剣が握られていたそうよ」 「勇者様の剣かい? そりゃぁ値打ちモノだろうねぇ」 「それよりも、ワシは嬢ちゃんの走り去る姿のほうが気になったわい」 「そうそう、息は切れ切れで頬は紅潮。あの勇者様の娘がだよ? 普段の稽古で体力的には伸び盛りの彼女があんなに苦しそうにしてるなんて──」 「なに、なにィ? もしかしてェ、仲良しすぎて、親子でヤッちゃったとかァ? キャーーッ!」 「阿呆ッ! 仮にも勇者様だぞ。そんなことする分けねえだろうが。俺は──恋なんじゃないかって思ってる」 「ハァ?! あんた勇者様の娘が身分違いの恋に落ちて駆け落ちしようとしてるなんて言うんじゃないでしょうね。しかも相手は自分で? バッカじゃないの、あんたと結婚するぐらいなら、まだこの家に住んでる執事と結婚するってほうがよっぽど真実味《リアリティ》あるわよ……」  少年執事の予想通り、噂は既に洪水のように溢れ出てとどまることを知らない。なぜ、人間というものはこんなにも根も葉もない噂が好きなのだろうかと、少年執事は桟の下で大息することしか出来なかった。 「おいおい、そりゃねえだろう。この家の執事っていやぁ、黒人種《カラー》の奴隷だろ? しかも、魔族の呪いでずっと成長が止まったままっていうじゃねえか。そんな気味の悪い奴に大事な娘をさらわれてみろ。勇者様の剣が閃いちまうぜ!」  馬鹿らしい戯言はいつまでも続く。キューブは昼間から呑んだくれている男の笑い声を背に階段を駆け下りていく。これ以上、在りもしない噂で主君を辱められるのは我慢ならない。 廊下を駆け抜け、口論の震源地となった扉を勢いよく開ける。 「旦那様! 付近は当家の悪い噂で持ち切りです! 一体、何があったのか、皆様に一から説明を……って、うわぁっ!!」 居間の扉は開け放たれた衝撃に耐え切れず、粉々に砕け散ったところだった。だが、キューブが驚いたのは、そんな部分的なことではなかった。例えるのなら、ハリボテ小屋でくしゃみをしたら、四方の壁全てがバタンと音を立てて倒れてしまったようなものだ。 彼が午前定時の掃除を終わらせたときに見事に輝いていた調度品は、跡形もなく床に散乱し、磨き上げ艶を取り戻したテーブルは、今や床を突き破ってあらぬ方向へ立ち上がり、砂埃の洗礼を受けていた。全ての窓硝子は吹き飛び、カーテンは信じていた人に裏切られたかのように自己の存在を否定する。壁には大きな無数の傷が刻まれ、小突くだけで崩落の危険を孕んでいた。最も、崩れ落ちるのは絶対に壁だけでは済まされないだろうが。 「ど、どうなっているんですか!? これは……旦那様!?」 「あぁ……あぁ、キューブ。私は今、はっきりと死の淵というものを見てきたよ」  執事の声にようやく反応した当家の主は、口から抜け掛かっていた魂を取り戻し、身体に降りかかった埃を叩《はた》きながら、深い安堵のため息を吐いて、唯一原形を留めているソファに再び腰を下ろした。 「勇者様が何を冗談を」  床に散乱した破片を集めながら、溜め息混じりに呟く少年の視線の先には、四十前の紳士が佇む。一見、キューブよりも執事然としたこの者こそ、王国内では知らぬ者なし──救国の勇者ヨシュア、その人であった。だが、 「キューブ。何度もいうが、私は勇者なんかじゃない」  ヨシュアは少年執事が勇者と呼ぶ度に、殊更呼び方を修正してみせた。 当初はその意味を図りかねて何度となく同じ質問を繰り返した少年も、今では一人前の執事となり、主の命こそ己の全てだと理解していた。今更詮索などありえない。 「申し訳ありません。旦那様」 「いや、いい。だが、クラリスの魔力は日を重ねるにつれて肥大化し、今では人の限界も超えてしまったようだ」  他の誰が聞いても、それは親が我が子を誇る呟きに聞こえたろう。しかし、長年連れ添った執事は、敏感に主人の不安を感じ取っていた。 「まさか……」 「その『まさか』のようだ。魔族化の兆候が落ち着いてからは、私も油断していたが……やはり、血統とは住む場所を変えたぐらいでは消せないステータスなのかも知れない」  ソファに沈み込んで腕を組んだ勇者の表情は晴れない。それどころか、苦虫を噛み潰したときのように、苦渋に歪んでいた。 「そんな……それではイザベル様の願いは、所詮叶わぬ夢だといわれるのですか? お嬢様は一生、魔族の血が再燃することに怯えながら暮らしていかなければならないのですか?」  キューブの真摯な問いかけに、ヨシュアは目を伏せ、首を横に振った。 「違うんだよ、キューブ。勿論、クラリスが本当の出生を知れば、深い悲しみがその心を苛《さいな》むだろう。だが、魔族の血を気にかけている……いや、怯えているといったほうが正しいか……それは実のところ、本人ではなく周囲の人間だ」 「──!」  思わず少年執事が吐き出そうとしていた呼吸を飲み込んでしまう程、それは起こりうる最悪な未来を示唆している。キューブは慌てて首を振り、そんな最悪なシナリオを脳裏から振り落とした。 「だからこれ以上、魔族化を進行させるわけにはいかない。なのに、あの娘《こ》ときたら、最近見つかった魔法石鉱脈の調査団に志願したらしい」 「そんな! 自殺行為です! 魔力の奔流に中《あ》てられでもしたら──」 「そういうわけで、私もつい声を荒げてしまってね。この有様というわけだ」  ようやく繋がった事象を確認した執事は、主人に向かってしっかりと頷いてみせた。 「分かりました。お嬢様を連れ戻してきます」  言うか否や屋敷を飛び出していく執事には、既に余計なものは目に入らなかった。観客《ギャラリー》の幾人かが声を掛けてきたが、下らない噂に構っている暇はない。 万が一にも、城門の外に出られたら、非力な少年執事にはどうすることも出来なくなってしまう。 「お嬢様〜! どうか、早まらないで下さいーッ!!」  街中を駆け抜けていくキューブの悲鳴は、また一ついらぬ噂を生み、その駆けていく姿を後ろから眺めた勇者は、やれやれと首を横に振るだけだった。 02 大戦  この大陸には、知能を持った二つの種族が存在する。 一つは我ら人族と呼ばれる者たち。我らは、火を使い、道具を作ることで、科学という名の文明を発達させた。 もう一つは魔族と呼ばれる者たち。彼らは、自然に潜む森羅万象を取り込むことで、魔法という名の文明を発達させた。 しかし、我らは決して、互いに力を取り合うことはなかった。 かたや、自然を利用し進化を求め、かたや、自然の内で調和を求め、とあれば、考え方も生活も文化もまったく異質のものだったからだ。 そこで生まれた小さな軋轢《あつれき》は、長い年月を経て次第に大きく募り、いつしか二つの勢力は、お互いを忌み嫌うようになっていった。 人族と魔族は、度々領界線や遺恨から戦争を繰り返し、小さな戦争は、やがて大きな戦争へと発展した。 王国暦15世紀初頭。我らの大戦は苛烈を極めていた。 人は作り出した武器を振るい、魔は練り出した魔法で応戦する。両勢力は一歩も退かず、国は疲弊していった。 そんな折、人族の中に勇敢な女騎士が現れた。 彼女は数人の仲間と共に敵陣へと忍び込み、魔族の王へ一騎打ちを申し込んだのだ。 魔族の王もその勇気に応え、二人の戦いは三日三晩続いたと云われる。 壮絶な戦いの末に二人は相、力尽き、王を倒された魔族たちは、森深くまで軍を退き、また、人族にもそれを追う力は残されておらず、結局、先の大戦は両者痛み分けで幕を下ろした。 だが、忘れてはいけない。人族も魔族も、決して両者を許してはいない。これはいつかまた、大いなる戦いが我々を戦火に巻き込むことの明示なのである。                        先の大戦を経験した識者の言葉       プリンセス・メーカー・4 〜小さな勇者達の物語〜   Princess Maker 4  a Little Braves Story   03 好敵手《ライバル》  街外れを伝う大河の畔《ほとり》。なだらかな丘陵を縫うように流れる川は、まるで溢れ出す深い悲しみを代弁するかのように轟々と音を立てていた。 河岸の大岩には一人の少女が膝を抱え、その水の流れを眺めている。透き通るような色白な肌に、少し大きめの古木褐色《オールドブラウン》の瞳。可愛らしさと美しさが半分ずつ分け与えられた整った顔立ちに、双子馬尾《ツインテール》の美しい金髪が風に靡くその姿は、異性を恋に落とすには十分過ぎる美貌といえた。 だが、その表情は物憂げで、晴れない。 それもそのはず。少女はたった今、大好きだった父親と大喧嘩の末、家を飛び出してきたのだから。 「お父さんのバカ。いつまでも私を子供扱いするんだから」 少女の名はクラリス。先の大戦で功績を挙げた一人、勇者ヨシュアを父に持つ未来の勇者候補の筆頭である。それは、単純に親の七光りというわけではない。収穫祭に行われる武道大会の未成年部門《UNDER18》では、若干14歳で優勝を手にするという王国始まって以来の快挙を成し遂げている。決して身体に恵まれたわけではないが、その華奢な腕から繰り出される太刀筋は、鞭のようにしなやかで、なにより正確に相手の隙を貫くことができた。同期の少年剣士達に比べて、力の使い方が断然に巧いのである。少年達は生半可に力があるため、その力を制御し一定に保つのは難しく、動きに斑《ムラ》ができてしまう。反面、彼女は繊細な力加減を以って、切っ先に一分のズレさえ与えない。一切のバランスを崩さずに戦えるということは、攻守において最も重要なことであり、既に決闘の極意を会得している少女が、勇者候補の筆頭と呼ばれるのになんら不思議はない。 しかし、天賦《てんぷ》の才は、必ずしも誰もが認め、誉め称えるものではない。実際、ライバルにあたる武官の子女らは、それを妬んで、未だ戦地に赴いたことのないクラリスを偽勇者《ブレイブフェイク》と罵ったり、陰口を叩いていたりする。 だからこそ、少女は自立した力を示したかったのだろう。 「大体、救護班の護衛なんて、大した危険もないのに」  実際、彼女の選択は慎重そのものだった。 彼女が選び取った依頼は、武勲を上げられる討伐や鎮圧といった華やかな依頼ではなく、『先に冒険者が発見した魔法石の鉱脈らしきものを調査するために、この度派遣される調査団を支える救護班の護衛』であった。 一度は、冒険者が踏み入れた地を、王国自ら調査するために組まれた調査団には、勿論屈強な傭兵や兵士が同行している。しかし、万が一を考えてそれらをバックアップできるように救護班が調査団よりも後方で待機している。その救護班の護衛をして欲しいという依頼であるから、云わば後衛の護衛ということになる。それは、最悪の事態になったときにようやく意味を成す部署であることから、危険は極めて低い安全な依頼と言えるだろう。 そして、少女を一番安心させたのは、調査団長に見知った名前を発見したからだ。 依頼文下には、トルバーズ卿のサインが画かれている。 現王国には数少ない騎士《ナイト》の称号を持つ一人だ。先の大戦にて多くの騎士達が命を落としたことで、やはり多くの氏族が潰えることになった。そのため、王国に現存している騎士の家は貴重な存在であると共に、大戦を生き残った勇猛な騎士であることから、王国の市民に勇気を与える存在でもある。 「どうした? やけに御機嫌斜めじゃないか」  突然聞こえてきた声に、クラリスはハッとなって辺りを見回した。 「普段の能天気なまでの笑みはどうしたんだ、クラリス?」 「リーゼ?! いつからそこに?」  声を追って視線を彷徨《さまよ》わせると、河畔《かはん》の際に座す大岩の陰から、腰に修練用の剣を佩《は》いた少女が現れていた。  少女は水氷色《アイスブルー》の瞳を不敵に細めながら、腰に差した剣を一閃のもとに薙ぎ払った。腰まで届こうかという銀糸の混じった明茶色《ライトブラウン》の髪が、勢いに乗って虚空に舞う。水面《みなも》の弾いた陽光を浴びた髪は、まるで彼女が持つ意思の強さを物語っているかのように凛とした輝きを増していた。 「貴様が来る前から、私は日課の修練をしていた。その程度の気配も探ることが出来ないとは、天才と煽《おだて》てられ天狗になったか?」 「え?! ち、違ッ! 私、そんなんじゃ──!!」 「問答無用! その腐った性根、叩き直してくれるッ!」  慌てて訂正しようとするも、クラリスを罵った少女は、言葉を発する暇さえ与えない速度で、一太刀の間合いに飛び込んできた。 「破《ハ》ァッ!」  気合一閃。刃のない修練剣とはいえ、逡巡《しゅんじゅん》なく振るわれた切っ先は鋭い。無防備に一撃を受ければ、少女の細腕など難なくへし折られてしまうだろう。 しかし、不意打ちとはいえ、仮にも勇者の娘。クラリスは左手を軸に反転し、その場を飛び退《すさ》る。空間を切り裂かれ行き場を失った空気が、轟と押し寄せてくるが、そんな咄嗟に目を覆いたくなるような風圧すらも、彼女は距離を離す手段に利用しただけだ。 既に体勢は持ち直し、いつでも抜ける構えだ。 「ふっ。相変わらず、恐ろしいほど正確な体捌きだ」 「リーゼもさらに剣速を上げたのね。もう一瞬躊躇《ためら》っていたら、躱せなかった」  各々にお互いの技量を讃え、空気が張り詰める次の瞬間こそ決着の合図──かに思えたが、二人はどちらともなく緊張を解き、同時に破顔していた。 そう、こんなギリギリの鍔迫り合いも、お互いの強さを知っているからこそできる戦いだった。それは、陰口を叩いたり罵ったりする武官の子らとは訳が違う。クラリスが依頼を決める最後の後押しとなったのが、親友であり好敵手《ライバル》でもある、リーゼ・トルバーズの存在だったのだ。 04 理由 「なるほど。まさかヨシュア殿が反対なさるとは思ってもみなかった」  クラリスから事の次第を聞き、リーゼもまた難しい顔をしてみせた。 確かに比較的安全な依頼とはいえ、王国の城壁を越えればそこはまだ未開の地。愛娘を思えば、目の届かない場所へ送り出すというのは、父親として気が気でないのは分かる。だが、幾多の戦いを潜り抜けてきた歴戦の騎士が指揮を取ることを考えれば、この上ない経験を手に入れることができるはずだ。そして、クラリスはなんといっても勇者の娘なのである。今後の王国の期待を考えれば、出来る限り早めに実戦を経験させておかなければならないこと位、ヨシュアも分かっているはずだ。そんな確信に満ちた作戦が失敗に終わったものだから、二人は頭を抱えずにはいられなかった。 「何故、固辞されているのかは聞いたのか?」  先ほどまでクラリスが座していた大岩に、今度は二人並んで腰を下ろす。リーゼは半ば溜め息を吐きながら胸を逸らし、クラリスは反対に俯き加減で頬杖を付いている。 「ダメ。何を言っても『絶対に駄目だ』の一点張り。話しにならないもの」 「何故かな。武道大会の出場は喜んでくれたのだろう?」  こくりと頷く少女を横目で見て、今度ははっきりと溜め息を吐き出すリーゼ。 「武道大会も刃なしとはいえ、例年負傷者が出るほど熾烈な戦いだというのに。何故、武道大会は認めて、実戦の遠征には全否定なのか……考えれば考えるほど分からなくなる」 大岩の上に身を投げ出し、青空を見上げる騎士見習いの少女。作法にも煩い家柄であるから、彼女の婆やがこの場にいたらどれほど嘆き悲しむか知れない。もっとも、出会った当初のリーゼは騎士の掟に縛られた堅物少女であり、彼女を現在のように柔らかくしたのは、他でもないクラリスなのであるが。 「ふむ……話しは変わるが、クラリスは何故この依頼を受けたんだ?」 「それは前に言った通り、お父さんに心配をかけないで実戦を積みたかったから……」 「いや、そうではなく、つまり──どうして実戦を積みたいのか聞きたい。やはり、あやつらに馬鹿にされるのが悔しいのか?」  リーゼの指すあやつらとは、陰湿な武官の子らのことだろう。しかし、クラリスはその問いに対して首を横に振ってみせる。 「ううん。確かに馬鹿にされるのは悔しいけど、そうじゃないわ。私は、誰にも負けないぐらい強くなりたい。約束を守りたいから」  瞳を閉じて、リーゼの問い掛けを反芻したクラリスは、深い決意と共に言葉を吐き出していた。 「ねぇ、リーゼ知ってた? 魔族が使う魔法の中には、術者が死なない限り永遠に続く、呪法という魔法があるって」 「いや、初耳だ。私はクラリスと違って魔法に対しての造詣はからきしだからな」  生粋の騎士の下に生まれた彼女には、魔法のイロハさえ無駄な学問ということだろう。そもそも魔法とはつまり魔族の学問であり、人族が探求するべきものではないと王国内のほとんどの人間がそう思っている。 よって、王国にも魔法を学ぶ場所はあるが、一部のごく少数の人間が相対する魔族たちがよく使う汎用的な魔法の対処法を学んでいるだけの小さな舎《まなびや》に過ぎない。 「私は、その呪いを解呪するために強くなりたい……少し長くなるけど、私の昔話聞いてくれる?」  クラリスの真剣な表情を見て、リーゼもまた神妙な顔つきで頷く。 「信じられないかも知れないけど、幼い頃の私はとても泣き虫だったわ。今よりもずっと身体が弱くて、すぐに喘息を起こして動けなくなってしまうぐらい。だから、近所の子たちともあまり遊んだことがなくて、そんなことでよく苛められていたわ。他にもお母さんがいないことで苛められたり、勇者の娘のなのに強くないって苛められたり……悔しくても、私は全然勝てなかった。ううん。女の子が男の子に勝つなんて無理だって、心の底で諦めていたもの。だから、私は毎日、毎日泣きながら家に飛び込んでいたわ。そう、あの日までは、そんな辛い毎日がずっと続くと思ってた」 05 原点 「うぇっ……ひっく」 「あれあれっお嬢様。綺麗なお顔をグシャグシャになさって、一体、どうなさったんです?」 「キューブぅ……えっく」  幼い私が泣きながら屋敷の扉を開けると、そこにはいつも微笑みを絶やさない執事が出迎えてくれたわ。紺碧の海よりも、もっと深くて綺麗な紺青色の髪を波立たせ、卵形の大きな瞳がとてもチャーミングな褐色肌の男の子は、私が生まれ程なくしてやってきたという、たった一人の我が家の執事だったの。 「さぁさぁ、リビングにお嬢様の大好きな甘いお菓子とホットミルクの用意が出来ておりますから、一緒にティータイムと致しましょう」  キューブは、私のことなら何でもお見通しな男の子。生まれてからずっと私の面倒を見てきてくれた彼には、涙を止めることなんて御安い御用。そのたった一言だけで、私の泣き声を消し去ってしまう。 「旦那様、お嬢様がお帰りになられましたが、ご一緒にお茶はいかがですか?」 「あぁ、そうだな。頂こう。リビングでいいかな? 先に行っていてくれ。こちらも間もなくきりがつきそうだ」 「畏まりました」  私の手を引きながら、途中書斎の前でお父さんに声を掛けることも忘れない。まだ14、5の少年というのに、その行動は生涯務めた老執事のように無駄がなく、悠然と立ち振る舞われていた。 「どうぞ、お嬢様」  そうこうしているうちにリビングに佇む大テーブルの前に着いた私は、キューブに引かれた椅子に腰を下ろす。 「旦那様がいらっしゃる頃には美味しいマフィンが焼きあがりますから、もう少しだけお待ち下さいね」  木製のマグカップを置きながら、ウインク一つしてキッチンへと消えていくキューブ。 そして、幼い私は何するでもなく目の前にあるマグカップの中をじっと見つめてしまう。マグカップに注がれたホットミルクから燻《くゆ》る湯気は、口の部分でゆらゆらと渦を巻き、それはまるで逃げ出せない運命の輪の中で足掻いている自分自身を見詰めているようで、私は悔しさと悲しさでいっぱいになってしまった。 「お待たせ。おや、クラリス? また泣いているのかい?」 「泣いて……ないもん」  リビングに届いた声に私は慌てて瞼を拭い、入口の方へ振り返る。 「そうかい? その割りには、お目々がウサギさんのようになっているよ?」  通りすがりに私の金髪を撫でる温かくて優しい手。俯いた視線を上げて見る後姿は、ピンと背筋が伸ばされた中背で繊細な身体つき。漆黒色の切り揃えられた短髪に象牙色《アイボリー》の礼服を纏う姿は、歴戦の勇者というよりも今が旬の文筆家といった表現のほうが正しいかも知れない。 「あぁ、丁度良かった。さぁ、キューブ特製のマフィンが焼き上がりましたよ。どうぞ、召し上がれ」  竈《かまど》から取り出された鉄板の上には、キツネ色に焼けたマフィンが甘い芳香を立ち上らせていて、幼い私の意識を逸らすには十分だった。ぐーぅと不躾にお腹が鳴って、向かいに座ったお父さんから笑い声が漏れる。 「なんだ、お腹が空き過ぎて泣いていたのかい? クラリスは食いしん坊だな」 「クスクス……まぁまぁ、旦那様。生き物は皆、お腹が減るように出来ているんですから。はい、じゃぁ、お嬢様には一番大きなこのマフィンを差し上げますね」 「違うもん。泣いてないもん!」  私は二人に抗議した。けれど、それは抗議なんかじゃなかった。もう私の頭の中は、恥ずかしくて、悲しくて、もどかしくて──色んな感情と記憶が鬩《せめ》ぎあって、何も考えられないぐらいぐしゃぐしゃになってしまっていて、吐き出される言葉を選ぶゆとりなんてなかったもの。 「キューブが悪いんだもん! キューブが居るから苛められるんだもん!」  今でも、ときどき夢に見るわ。お父さんの強張った表情と、キューブの恐れを含んだ悲しい……何もかも諦めたような表情。 分かっていた。幼い私でも部屋中の空気が凍りついたように感じられた瞬間……これ以上言葉を発してはいけないことぐらい。でも、それでも、私の口は止まらなかった。だって今、口を止めてしまえば、部屋に留まった氷の刃たちは、きっともっと深く、私を傷付けにくるって本能的に覚《さと》ってしまったから。 「キューブが変なんだもん。大きくならないんだもん。みんな言うんだよ、ずっと同じ格好してて気持ち悪いって」 「ッ!」 「クラリス! 止めなさい」  いつもの私なら、お父さんのその一言で止まっていたわ。でも、この日だけはダメだった。我慢の手綱は、もうさっき手放してしまったから。 「どうしてパパが怖いお顔するの? 変なのはキューブだもん。お髭も生えないし、背も伸びない。ずーっと同《おんな》じ格好なんだよ。みんなは、きっと魔族の子どもだって──ッ!」  リビングに響き渡る乾いた音と同時に、私は言葉を失った。 目の前には、今まで見たことのない厳しい表情で手を翳しているお父さん。そして、左頬にじんわりと広がっていくのは、熱。 私は、何が起きたのか理解できなくて、無意識に熱い頬に手を添えて驚いた。 痛い。 でも、それは触った頬じゃない。痛いのは胸。それも、もっともっと胸の奥が、じんじんと音を立てるぐらいに腫れ上がってしまうよう。喉も乾燥して、空気を取り入れることさえ苦しくて涙が込み上げてくる。 でも、私は泣けなかった。それは、目の前で一粒の涙を零した執事の姿を捉えてしまったから。その雫は、私が見る初めてのキューブが流した涙だったから。 それでも、辛さに歪んだ顔を無理に押し込めて私を見つめるのは、必死に執事の仮面を取り付けようとする少年の姿で── 「申し訳ありません、お嬢様。お嬢様の苦痛は、私の苦痛。どうか、お気の済むまで不埒な私に罰をお与え下さい。私は、本来ならこの場所に居ることも憚《はばか》られる魔族に呪われた者なのですから」  跪き、全権を私に委ねるキューブ。けれども、私は彼の言葉が気になってしまって、そのときだけは怒りも悲しみも忘れて、問い返すことがやっとだった。 「呪われた……者?」 「はい。私は先の大戦で魔族と対峙したときに、呪法という呪いの魔法をかけられてしまったのです。それは永遠に年齢《とし》を取らぬかわりに、あるとき突然心臓が動かなくなるという呪いの魔法でした」 「え……」  幼い私の思考はその一言で止まってしまったわ。 あまりにも淡々と事実を告げるキューブは、怖いくらいに冷静で、同時に言葉を続けている姿が、身震いするほど恐ろしかった。 「その魔族はとても残忍なヤツでした。いつ死ぬかも知れない恐怖を与えることで、絶望に歪んだ顔を見て、とても愉快に笑うようなヤツでした。そして、悔しかったら俺を倒してみろと。倒せば自然に呪いは解けるだろうと挑発してきたのです」 「キューブ、もういい」  今思い出してもこのときだけ、キューブはお父さんの制止にも耳を貸さなかった。幼い私をしっかりと見つめ、今に続く運命の話を止めようとはしなかったわ。 それは、仕える者にとって一番大切な、嘘偽りのない信頼を築くためなんだと思う。 「私は無我夢中に戦いを挑みました。けれど、最初からそれはヤツが楽しむ為の余興に過ぎなかったのです。私は、全く歯が立ちませんでした……」 「それじゃ、キューブは……」 「今日死ぬかも知れませんし、もっと長生きできるかも知れません。全てはヤツの気紛れ次第で、今日まで生かされているだけなのです」  結末まで述べてからもう一度私に「どうか、私に罰を」と力無く微笑むキューブ。 いつも微笑んで私を迎えてくれる執事は、とても小さく感じた。 いつ動かなくなるかも知れない身体で、でもそれを悟られないように人一倍仕事に励み、毎日を恐怖と戦っている執事の強さに、堪えていた涙が零れた。 「キューブの……バカ。どうしてッ……どうしてホントのこと教えてくれなかったの」 「返す言葉もございません……」  本当に悪いのは何も知らぬまま罵ってしまった私の方なのに、それでもキューブは文句一つ言わず私の前で跪いたまま動かない。 「じゃあ、早くその魔族を倒さなきゃ」  そこでキューブは静かに首を振ります。 「アイツはとても強大です。生半可な力では到底倒すことはできないでしょう。それに、自暴自棄になっていたこんな私を、旦那様はこの屋敷の執事として温かく迎えて下さったのです。私は、一生を懸けてその恩に報いたい。ただそれだけです」  彼は一瞬の大切さを知っていた。だからこそ、私やお父さんの為になるように毎日を精一杯に生きているんだ、と。 そして、私はようやく気付いたの。 私がどれほど愛されて育っていたのか。そして、私はどれほどその愛に応えず生きてきたのか。 弱かったのは、私の心だったの。行動する前に怖気づいて、動かなくなってしまう弱い心。そのことを知らないフリして、できないって何もかもを嘆いていた。全てを世界のせいにしていた。 そうじゃない。 できないことに挑戦して、失敗して──それでも少しずつできるようになっていくんだって。なりたい自分に向かっていくんだって。 今度は私が愛を返す番。 「キューブ……わたし……わたしが、キューブを守ってあげる。だから……だから、絶対死んじゃ……ダメ……ダメなんだからぁッ!」  私はありったけの勇気を振り絞って叫んだわ。 声は無様に震えていたけど……でもね、そのとき私の見えている世界はずっとずっと広く輝きだしていったのよ。 愛する人を守るため、強くなるんだ──