りとらいか〜ず                梧臨海  第一章 殻を護るため味《み》を殺ぎ落とす者 chime0  だれかが無言で私の前に立ちはだかる。  こんな日はいつも決まって曇りのち雨。まるで私の心境を代弁してくれているような空へ感じる複雑な心境。  明日は勝つ。いつも自分を奮い立たせる魔法の言葉。  明日は晴れる。  そう信じていた明日、入梅《つゆいり》した事実が重く私に圧し掛かった。  雨が続いたとき私は躓いた。  それはみるみる大きな障壁となった。  私はその時、気付いてしまった。  縁起が因縁へと変わったことに。  勝てない存在に。  気付いてはいけなかった。  私は普通の女の子になってしまった。  許せなくてその日だけ泣いた。限られた時間までに一生の涙を枯らすために。 chime1  暗幕で閉め切られた体育倉庫に男子生徒の荒い息が反響する。 「あかんー。もぉ辛抱できへん」 「あぅ……もうちょっとだからッ」  深緑色のジャージを纏った体格の良い男子生徒は、関西系イントネーションの悲鳴で上に乗っている同じくジャージ姿の小柄な生徒に、事の重大さを訴えた。  しかし、小柄な生徒の切ない声色は未だ届かない気持ちに首を振り、彼の訴えを退ける。  体格のいい男子生徒は汗だくで、気を抜けば一気に砕けそうになる腰を必死で支えている。反対に上に乗っている小柄な生徒は柔らかく甘えたな声であと一歩届かない、もどかしい気持ちを必死に伸ばした。 「あと……もうちょっと、って……どれ……くらいや?」 「あぅぅ……揺らさないでぇ。あと、ホントにちょっとだからッ」  荒い息を隠そうともせずに肩で息をしている男子生徒の上で、小柄な生徒のしなやかに伸ばされた腕が緊張に震える。 「あぅぅ、ダメだよぉ。苳島君、もうちょっとだけ奥にッ!」 「せや、かて……これ以上はあかん。これ以上は切れるー!」  少年の膝も既に笑いが止まらない状態で、これ以上進むも戻るも叶えられそうにない。 「お願い・・奥に・・奥に・・・お願いだからぁ!」  小柄な生徒が最後の願いを訴える。切に、それは涙声を押し殺した悲鳴にも聞こえる。そんな指先まで張りつめた不安定な力は既にほとんど制御できておらず、肩から小指の爪先までが小刻みに震えて中空をさ迷った。  しかし、人間誰しも我慢も忍耐も限界というものがある。  そして、簡単に乗り越えられるものでもないのが現実だ。 「あかんー!堪忍やー」 「あぁぁッ、ダメッ! 最後……最後なのにぃ!」  上に乗った生徒から何度目かのお願いが聞き届けられる前に、関西弁豊かな男子生徒の限界線が、とうとう切れた。  引き攣る腰、砕ける膝、突っ伏す体躯。情けない悲鳴と共に彼の全身は崩れ落ちていく。 小柄な生徒の半身が最後の最後とばかり、懸命に虚空に放たれた。 「ふッ……あ!」  それは偶然だった。  体格の良い男子生徒が前傾した所為で小柄な生徒の指先が届いたのだ。刹那、歓喜に打ち震える小柄な生徒。 「わ、ぁぁぁああああああっっっ!!!」  しかし、それがこの事態を更に悪くすることを彼《・》は気付かなかった。  前傾した男子生徒から崩れ落ちる拍子に、小柄な君は支柱に激突し、あれだけ望んでいたものが上から凶器となって降り注ぐことに。  同時に体育倉庫から響き渡る轟音。  なんだなんだと騒ぎを聞き付けた生徒たちが中を覗けば、倉庫内はもうもうと土煙が立ち上っており、中身の散乱した体育祭用準備品が入っていたダンボールと、疲労で動けなくなった男子生徒と、柱に頭を打ち付け小物たちから追い討ちを受けて気を失ってしまっている小柄な生徒の存在が見て取れるだけだった。  *  少女たちは一点を見つめる。  その姿は一様に真剣そのもの。  背筋はピッと伸ばされて、少しだけ引かれた顎。後ろで組まれた腕は全身の緊張を時に和らげ、時に張りつめさせる。  少女たちは歌う。  一人の少女の額に玉の汗が浮かび、目尻を、頬を伝って雫が零れる。  ショートボブの後《おく》れ髪《がみ》が、息継ぎに合わせて首や頬に絡み付く。しかし、少女はそれを払おうともせずに言葉に乗せた音色を紡いでいる。  他の少女よりも安定したアルトボイス。美しい音色を引き立たせる難しいパートを、少女は率先するように確かな音感で歌い上げている。  深まっていく秋風の香りを隔絶した凹凸《おうとつ》の壁に囲まれた、この小さな教室は、のぼせるほどの熱気に包まれていて、少女たちは一様に頬を上気させている。  そうして、小休止を挟みながら30分ほど歌っただろうか。彼女たち市立那後中学校《いちりつなごちゅうがっこう》──通称、那後中《なごちゅう》合唱部は、今日の練習を終えた。  部長の挨拶と共に各々帰り支度をする少女たち。  ショートボブの少女が、張りついた後れ髪を払うと果実のようなリンスの香りが漂う。同時に乱れた呼吸を整えると、少しだけ自己主張を始めた胸の膨らみも呼吸に合わせて緩やかに上下するのが分かる。背丈はそれほど高くないものの、しなやかな筋肉と少女特有の柔らかい脂肪が合わさった体躯は、溌剌《はつらつ》とした子犬を連想させる。  少女の名前は、杉並《すぎなみ》 千尋《ちとせ》。今年の春より那後中に通う中学一年生である。目下の悩みは、半年が経った今でも大半のクラスメートが彼女の本名を「ちひろ」と勘違いしていることという、ささやかな悩みが可愛らしくもあった。  彼女たち合唱部は今、文化祭発表会へ向けて追い込みの真っ最中であった。  なにせ、ここ緋須那《ひずな》市民にとって文化祭の時期は特別である。  緋須那祭と呼ばれる市を上げての祭事に合わせ、市立中学校本校の緋須那中学校と、分校の那後中学校による文化祭無料開放。いわば祭事の会場提供を二校の中学校が引き受けることになっているのだ。  その間、市民は勿論のこと観光客も自由に文化祭を楽しむことが出来る。正に街を上げての大祭である。  歴史を辿ると緋須那祭とは山神へ実りを感謝する祭りだったが、今では冬季のスキー場の息災を願い、観光客を迎えるための準備を知らせる恒例行事となっていた。  残り一ヶ月を切った今が最も忙しい季節。  二校の生徒たちは競い合うように準備と練習に没頭している。  その中でショートボブの少女千尋は、人一倍練習に没頭し、今ではソロのコーラスとアルトパートのメインを任されるほどになっていた。一年生には異様の出世に風当たりも強かったが、その努力と力量は次第に正当に評価され、彼女自身それを鼻にかけることもせず、歌うことに真剣な姿は他の部員たちの瞳に頑張《がんば》りや屋と映り、独りよがりにならない慎みを持ち合わせた信頼できる仲間と考えられるようになっていった。  ようやく終わった練習にお腹の底からため息をついて、ピアノの前まで歩み寄る千尋。隣には鍵盤上の譜面を見つめる一人の少女の姿。  大きな縁無し眼鏡と、ゆったりとした髪を肩の後ろでお下げに纏める大きな空色のリボンが印象的だ。  リボンの少女は「ん〜っと」やら「え〜っと」などと一人呟きながら、彼女なりに真剣に譜面を見直しているようだ。隣まで近寄った千尋にもまったく気付いていない。  名前は、御潟《みかた》 洋奈《ひろな》。千尋のクラスメートである。その容姿に真面目な優等生タイプを想像しがちだが、千尋よりも一回り小柄な体躯と舌足らずな喋り方、そして、その甘えたがりな性格から「危なっかしい後輩」という方が的を射た表現であろう。 「ヒロー、帰らないの?」  愛称を呼んでも振り返らないクラスメートの肩を叩く千尋。  特別に大きな声を出したわけでも、力を入れたわけでもない。  後ろから軽く「お疲れ様」の意を込めて添えただけだ。  しかし。  逆に千尋が驚いてしまうほど、洋奈は引付けを起こして手に持っていた譜面を取り落としてしまった。振り返った視線が千尋を捉えると、彼女は安堵のため息と共に安心した表情になる。 「ひゃぁぁぁ……ビックリしたぁ。もぉー、ちーちゃんの意地悪〜!」 「あのねぇ、驚いたのはこっちよ。ヒロが、ぼーーーーっと考え事してるから悪いんじゃない」  洋奈が散らばった譜面を拾いながら「ぶぅー」と抗議の表情を作ったのに対して、その手伝いをしながら「ちーちゃん」こと千尋も呆れ顔で反論する。 「えぇー? 洋奈、そんなに、ぼーーーーっとしてたぁ?」  素直な疑問符を浮かべる仕草。こんなところが危なっかしい後輩という形容を如実に示している。三流詐欺師にひっかかるのはこれぐらい幸せな性格の持ち主なのだろう。そんな天然幸せ少女に一抹の不安と心配と、更に一つ大息してから、鼻先に指を突きつけて一語一句噛みしめられるように注意する千尋。 「げ、ん、に、私のこと、全然気付かなかったじゃない!」 「あ、そうか……てへへ」  納得の後に誤魔化し笑い。悪びれた様子もない。むしろ今、自分に忠告が与えられえたことすら気付いていないのではないだろうか。とはいえ、千尋としても本気で怒って責めているわけではない。洋奈の天然幸せっぷりは昨日今日に始まったことではないし、それに彼女を本気で怒ることが今の自分に出来ないことを、千尋はなんとなく理解していた。だからいつも「仕方ないんだから」と笑って許すのだ。  二人が知り合ったのは那後中に入学して同じクラスメートとなり、同じ合唱部へ入部したという共通点である。さしてそれ以外に繋がりがあるものではなかった。やはり、初めのうちは、小学校時代の友達との交流が強く、小さな派閥みたいなものが出来てしまう。そんな中、二人は同じ時間を共有することが当然多くなり、次第にお互いを認識して打ち解けてきている。  しかし、だからといって半年という短くも長くもある時間の中で、お互いをどれだけ理解できたかと問われても困ってしまうだろうし、それを知人やクラスメート、はたまた友達という線引きをするにも難しく考えてしまうこともあるだろう。今の千尋が正にそれで、今さら「私たちって友達だよね?」と聞くのも恥ずかしいというのが彼女の心境であった。  千尋は散らばった譜面を整理して洋奈に手渡し、 「それじゃぁ、一緒に帰ろうか?」 隅においておいた鞄を手に取る。しかし、またしても洋奈の返事がない。今度は悪戯のつもりだろうか。もういい加減にしなさいよ、と軽く叱るつもりで千尋は振り返る。少しだけ怒った表情で。  刹那、立ち上がっていた洋奈の身体がぐらりと傾いた。それはちょうど、千尋に向かって覆い被さるように倒れこんでくる。 「わ、ちょっと!」  慌てて抱きとめる千尋の胸に倒れこんできた顔がすっぽりと収まり、全身が制服越しに密着する。それは思ったよりも女の子を感じさせる体躯で、案外千尋よりもグラマラスであるように感じられた。そんな部分的に発達している少女なら余計に、いくら一回り体格が小さいとはいえ全身の力を抜いてしまわれたら支え続けるのは辛い。 「コラっ……重いわよ、ヒロ! 離れなさいってば」  堪らず千尋は悲鳴を上げた。  しかし、倒れこんだ洋奈は一向に身体を離そうとしない。そればかりか、顔を上げることもせずに千尋の胸に顔を押し付けたままだ。  洋奈の吐息が制服の上から千尋の胸を擽《くすぐ》る。 「ちょ、ちょっと、ヒロ! や、やめ……」  吐息の熱が千尋の思考に雑音《ノイズ》を走らせる。高熱にうなされたときのように、胸に広がった熱は、首の後ろを伝って脳へ痺れと霞がかる感覚を駆け上らせる。それが、どういうものなのかはっきり自覚する前に、千尋は、ぼやける脳を懸命に振り解し、洋奈を押し返そうと力を込めた。が、傾きかけた足は床から支点がずれており、その結果、支え損なった全身は洋奈を伴って宙に舞った。  刹那。  床を轟かせて洋奈に押し倒されてしまう千尋。  咄嗟に受身を取ったので頭を打つことは避けられたが、腰と腕を強《したた》かに打ち付けた。 「痛ぁ。こらっ、ヒロ! 悪戯が過ぎる!」  少し度の過ぎた悪戯に腹立たしさと気まずさを感じれば、上に乗っている恐らくは無傷であろう洋奈に文句の一つも言いたくなる。しかし、千尋はその視線の先に歪んだ洋奈の顔を見た瞬間、言葉を飲みこんでいた。 (嘘……どうして?)  思考が止まる。  ついさっきまで普段通りだったはずの洋奈から、気道を鳴らす苦しそうな呼吸音が聞こえ、頬は朱に染まり、全身に力も入らない様子でぐったりとしている。  千尋の呼びかけにも反応しない。  誰がどう見ても正常な状態ではなかった。まさか悪戯を誤魔化す演技だとしたなら銀幕デビューもそう遠くないに違いない。  千尋は喉の奥から溢れそうになる悲鳴を押し殺した。 (そうだよ、悲鳴を上げる前に考えなきゃ)  麻痺していた思考が迅速に動き始める。歳の離れた二人の兄妹を持つ千尋は、こういうときこそ冷静になる必要があると身を持って知っていた。そして、必要なのは「待つ」ことよりも、出来ることを「行動」に移すことであることを。それは自身が後悔しないためにもっとも重要であることだから。  そこまで思考が働けば、答えは既にでていた。 「ちょっと待ってて! すぐに保健室に連れていってあげるから!」  千尋は洋奈を背負うと一目散に駆け出していった。  *  洋奈を背負ったまま保健室の扉を開けると、那後中校医の土井《どい》 寿美《としみ》が、ちょうど扉の前に立っていた。  齢四十を越えた面倒見の良いおばちゃんで、口が固く悩みや相談事を打ち明けることが出来る先生として、生徒はもとより教師や保護者からも厚い信頼を寄せられている那後中の名物先生である。 「おや、どうしたんだい?」 「あ、あの部室で急に倒れて」  土井は慌てた様子もなく洋奈を診療台に移す。  その雰囲気一つで不安を取り除けるというのは名医の証拠だろう。  洋奈の制服を手際良く脱がせて、ブラウスの上から熱を持った各部に水枕を当てる。そんな見惚れてしまうような無駄のない作業が終わる頃には、千尋の不安は、ほとんどなくなっていた。 「熱射病ね。大方、合唱部でしょう? アンタたちは」  これでよしと言わんばかりに土井は頷いて見せて、隣から丸いパイプ椅子を片手でよこした。千尋はお礼を言ってそれをベッド横に下ろし、腰掛ける。  ベッドに眠る少女はまだ少し苦しそうだ。本当にこれだけでいいのか少し不安になった彼女は、校医に目で問いかける。 「あんな輻射熱の溜まり場で二〜三時間も練習していたら、アンタもこうなる。いくら初めての文化祭だからって力み過ぎは身体を壊すよ? あぁ、この子なら心配要らない。すぐに処置したからね、じきに目を覚ますさ」  十年以上もこの学校の校医を務めていれば、生徒たちの動向や言いたいことなど大抵お見通しなのだろう。土井は口の端を上げて笑った。まるで、男性のような粗暴さを感じる仕草であったが、年季の入ったおばちゃん校医にはよく似合っている。  しばらくすると洋奈の呼吸はすぅすぅと安定した音色に変わる。それを確認すると土井は「もう大丈夫だな」と席を立った。 「あの・・・ありがとうございました」 「なぁに。これがアタシの仕事だしね。しかし、この時期はどうも忙しくって敵わないよ。さっきも体育祭の準備で頭打った一年坊が運ばれてきたところでね。こんなのが一ヶ月も続くと年寄りにはキツイものさ」  眠る洋奈の代わりにお礼を述べる千尋へ、土井は笑って言葉を返す。  しかし、そこまで言って思い出したように「じゃぁ、一つだけ頼もうか」と校医は鍵を差し出した。 「アタシはそろそろ帰るから、その子の目が覚めたら鍵を閉めて職員室に戻しておいてくれるかい? なぁに、隣の坊はもうすぐ迎えがくるだろうから気にしなくていい。もし、先にその子が目覚めたら鍵を置いて先に帰ってくれていいからさ」 「はい、分かりました」  言葉の調子から、洋奈が起きるまで引きとめておく必要もないと感じた千尋は、快くその依頼を受けることにする。歯切れの良い回答に土井は「お疲れさん」と笑顔を浮かべて保健室を後にした。  そして。  部屋に残り、濡らしたタオルを代えてやりながら20分ぐらい経過しただろうか。ベッドで眠る少女が、小さな呻き声を上げて薄目を開く。 「ヒロ! 気がついた?」 「あ、れぇ? ここは……?」 「保健室よ。部室で倒れたの。覚えてる?」  上体を起こそうとする病人を支えつつ、隣の棚に置いておいた縁無し眼鏡を手渡してやる。視界の戻った洋奈の視点が千尋の安堵した瞳に結ばれて、小さく首を振った。それを見て、千尋は今までのことをかい摘んで説明してやった。 「そっか。ゴメンナサイ。洋奈、ちーちゃんに凄く迷惑かけちゃったね」  泣きそうな顔になる洋奈に、千尋は優しく微笑んで「気にしないでいいから」と首を振り、続けて、 「それに、私たち友達でしょう? 助け合ったりするのは当然だよ」 ちょっとだけ真剣な表情で言葉を紡いだ。  それは一抹の不安が心の奥底にあったからだろうか。  しかし、そんな言葉を聞いた瞬間、洋奈はさらに泣きそうな顔でベッドから身を乗り出すと千尋にぎゅっと抱きついた。戸惑う千尋に洋奈は続ける。 「違うもん! 洋奈とちーちゃんは親友だもん」  その言葉は呆れるほどに真摯《しんし》で、千尋はどうして自分はこんなにも臆病なのだろうと激しく後悔してしまった。それから己を懺悔するように洋奈を優しく抱きしめる。 「そうだね。親友だよ。だから、とても心配したんだから……」  怖くなんてない。  恥ずかしいことなんてない。  千尋は自分でも分からないぐらい前にかけた心の鍵を開けた。刹那に広がるのは素直な言葉の数々。その中から一つだけ、一番伝えたい言葉だけを選んで親友に告げる。 「本当に……心配だったんだから」  頷く洋奈。  自然に目尻に涙が浮かんだ。  日常のごく当たり前な心のふれあい。  それでも、千尋にとっての今日は、かけがえのない日になることは確かだった。  *  体調の落ち着いた洋奈が、制服を直して間もなく、隣の仕切りから小さな呻き声が聞こえた。 (そういえば、同じ一年の男の子がいるって言ってたっけ)  校医から託された鍵をスカートのポケットから取り出したところで、責任感の強い千尋は、少し迷った。  洋奈が先に目覚めた場合、鍵を置いて帰ればいいとは言われたものの、隣の少年も目覚める様子だ。話しに聞いていた付き添いもまだ来ていないのに誰もいないとなると彼は、戸惑うのではないか、と。  千尋はそっと仕切りの隙間から隣を覗いてみた。  隣のベッドに蠢く影。どうやらまだ完全に覚醒はしていないようだった。シーツを纏った下には、小柄な生徒が横たわっている。しかし、その姿は千尋の瞳を奪うのに充分過ぎた。  まず目に止まったのは、その小さな体躯。シーツに隠れながらも分かるその華奢な骨格は、小学生低学年といっても通じるほど。第二次成長が始まってないかのような幼い容姿は、儚く散る桜の花にも通じた。  更に、顕著なのは、その年ゆかぬ可愛らしい丸顔だ。染み一つない白い肌。うっすらと赤みの差した頬。顎や鼻の下にも女の子のような短い産毛が生え揃うに留まっている。対称的に、開いた窓からそよぐ風にさらさらと靡く漆黒のセミロングヘアは艶やかに潤い、ほのかに甘いミルクの香りを漂わせた。  悩ましげな吐息を漏らす唇は、鮮やかな淡桃色《ベビーピンク》のルージュを引いたように映え、呼吸と共に蠢いている。  そして、極めつけはその仕草。寝返りを打つと、まるで抱きかかえたヌイグルミにキスするかの如くシーツへ顔を埋《うず》める生徒。  その姿は少年というより、幼い妹を連想させる愛らしい容姿であった。 (へぇ……こんな可愛い男子がいるんだ)  それが千尋の率直な第一印象である。しかし、その後ろから覗いていた洋奈は、それとは別格の何かを感じていた。  そのとき。  少年の瞳がうっすらと開かれる。  その瞳は優しそうな、甘えたそうな、少しだけ垂れ目がちの大きな瞳。寝惚け眼をこする仕草は、全てを安心しきった目覚めの姿であった。  そんな愛らし過ぎる仕草に千尋は我を忘れて魅入ってしまっていた。  思考の止まった少女に対して、少年はようやく定まった焦点で自分を見つめる瞳に気付く。  少年は純真無垢な瞳をパチクリと瞬いた。まるでウサギが人を見つめるときのような純粋な好奇心と驚きを含んだ表情。  しかし、脳に酸素が回り始めれば今がどれほど奇妙な状況であるか、少年にだって理解できる。少年はシーツを手繰り寄せながら引き攣るような悲鳴を上げていた。 「ひゃッ!」  まるで女の子のような悲鳴に我に返る千尋。 「えっ!? あ、ごめんなさい。驚いた?」 「う、ううん。ちょっと、ビックリしただけ」  慌てて衝立《ついたて》を開き少年の前に進み出る彼女たちの制服姿を見て、病床の少年は、安堵とも不安ともとれない複雑な表情を浮かべた。そんな奇妙な出会いに気まずくなり、慌てて千尋が弁明を始める。 「あの……ごめんね。その、私たちさっきまで隣にいたんだけど、そろそろ帰るから挨拶だけでもしようかと思って、それで」 (それで・・・?)  何と言えば良いのだろう。  いくらなんでも初対面の少年へ素直に「可愛いくて見惚《みと》れていた」と言えば他意がなくても誤解されるのは間違いない。それが冗談で済めば万万歳だが、果たして影からじっと見つめていたアブナイ人間に通じる答えとは到底思えない。  怪しさ爆発の少女は更に慌てながら、取り繕うように自己紹介に逃れた。 「あ、私は杉並 千尋。この子はクラスメートの御潟 洋奈。一年生だよ。君は?」  しかし、名前を尋ねられた途端に少年は身を固くし、表情を曇らせた。その様子を見て洋奈の脳裏に微かなひらめきが起こる。眼鏡の奥で少女の瞳が真剣な光を放ち、無意識のうちに息を飲みこんでいた。  知らない人間に怯える飼いウサギのように少年は曇らせた表情を俯かせて、上目遣いに小さく答える。 「ボクは……大和《やまと》 一海《かずみ》」  その瞬間、洋奈のひらめきは確証に変わった。千尋が更に話しを盛り立てようと構えたそばから、一海と名乗った少年の間に割って入る。 「ねぇ! ちーちゃん、今日の宿題で分かんないところが結構あるのー。早く行かないと時間がなくなっちゃう!」  俯く少年の手に保健室の鍵を押し付け、戸惑う千尋を半ば強引に引きずっていく洋奈。そんな普段の彼女からは想像も出来ない力に抗うことも出来ず、辛うじて一海に挨拶を交わす千尋。  少年も慌てて挨拶を返し、小さくなっていく二人に小さく手を振る。  しかし、二人が視界から消えて辺りに誰もいなくなると一海は小さく呟いた。 「慣れっこだよね、一海。だって一海は」  一陣の強い風が白のカーテンをはためかせ一海の姿を隠蔽する。  まるで、聞いてはいけない言葉をかき消すかのように。  * 「ねぇ、ヒロどうしたの?」  校門をくぐり抜け、しばらく歩いてから速度を緩めた洋奈に千尋は素直にそう尋ねた。彼女に掴まれた腕は少し赤くなっている。意地悪でこんなことをする娘ではない。 「うん……ごめんなさい。腕痛かったよね? ちーちゃん」 「え? ううん、そんなに。でも、驚いた。洋奈って案外力、強いね」  言葉を選んでいる彼女を察した千尋は曖昧に相槌を打つ。二人はしばらく無言のまま歩いた。  誰しも言いたくないことや言い難いことはある。  だから千尋はこのまま別れたとしたら明日には忘れようとも思う。  しかし、今日、洋奈が言ってくれたあの言葉が本当なら──親友なら、包み隠さず話して欲しいという願望も少なからずあった。そうして歩いていくうちに二人が別れる幹線通りの交差点へと差し掛かる。 「宿題なんて嘘言っちゃってゴメンね。でも、もうあの大和くんっていう男子には関わらない方がいいの」 「どうして?」  戸惑いながらも確固たる意志を秘めた言葉に千尋は問い返さずにはいられない。  洋奈の瞳が悲しみに揺らいだように思えた。  そして。 「あの子は、人殺しだもん」  搾り出された一言がかき消える前に、振り返り駆け出す洋奈。点滅している歩行者信号が、赤へと変わり車の波に悲しみの瞳を湛えた少女の姿はかき消される。夕闇の帳に包まれた交差点の一帯がまるで血のように赤暗い色に染まっていた。  次の日、洋奈は風邪で欠席した。  まるでこれ以上は何も聞かないでという警告のように。  それは、昨日の言葉が重い真実であることを告げているようであった。  しかし、あのか弱そうな少年に人が殺せるのものだろうか。千尋は親友の言葉であっても素直に信じることは出来なかった。 chime2 「カズ、起きとるか〜?」  校庭側の扉を開け、保健室に入る少年。一時間ほど前に体育倉庫で突っ伏した体格の良いほうの男子生徒である。彼は両手に冷水を満たしたコップを持ち、一海が眠るであろう衝立の奥へ向かう。  彼の名前は、苳島《ふきじま》 北斗《ほくと》。  首都圏から近いこの土地で関西特有のイントネーションは、案外目立つ。彼は今年の四月に父親の転勤に伴いこの土地に引っ越してきた。初めのうちは大阪の忙《せわ》しさと長閑《のどか》なこの土地の時間とで違和感に戸惑いを隠せなかったが、半年経った今では、言葉のイントネーション以外は慣れて溶け込んでしまっていた。  この土地で友達も出来た。  ゆとりのあるこの土地が仲を取り持ってくれるのだろうか。なにしろクラス中に派閥みたいなものはあるものの、クラス中が友達だといって過言ではないくらいなのだ。表面上で言えば何も問題のない、良い学校、良いクラスだ。  しかし、一部であるがクラスで受け入れられていない生徒がいるのも確かである。北斗がそれに気付いたのはつい最近になってからだったが、隣で寝ている少年もどうやらその一員のようであった。  しかし、皆が嫌っているというわけではなく、一部の僅かな生徒に距離を置かれているという雰囲気である。  北斗にはその理由は見つけられずにいた。  確かに一海は男性としては中性的を通り越して女性的な印象が強く、覇気がなく消極的である。しかし、その分誰にも気を遣い優しく接することのできる人間であり、その性格が距離を置かれる理由になるとは到底考えられなかった。  そして、この土地で初めて出来た友達だからこそ、どんなときでも一海との絆は大切にしたいと思っている。  開いていた仕切りから中を伺うと既にベッドの上で友は目覚めており、安心したように微笑んでいた。 「あッ! 苳島くん、どこ行ってたの?」 「ほい。これが答えや」  その問いに北斗は片方のコップを一海に差し出す。 「わぁ! ありがとう。ちょうど喉乾いてたんだぁ」  一海は嬉しそうに胸の前で手を叩き、差し出されたコップを受け取り口に付けた。 「! 冷たッ……コレ、どうしたの?」 「体育館隣りの冷水器から汲んできたんや。くぁぁっ! やっぱ疲れたときちゅうんは、美味《うま》い水に限るわ」  大きな瞳を見開いた友の予想通りの仕草に満足して、自分用の冷水を一気に呷り、ぷはぁっと息を付く北斗。 「せや、頭の方は大丈夫かいな?」 「うん・・まだちょっと痛むけど、もう平気だよ。それよりも」  一海の表情に浮かぶのは不安と心配。それが、先刻の体育祭準備中に気を失ってしまったことを指していることは火を見るより明らかで、北斗は言葉をかき消すように大きな声で制した。 「だ〜いじょうぶやって。あれで仕事はほとんど終わっとったねん。ちょいちょいと残りの仕事片付けてきただけや。カズはなんも気にせんでええ」 「でも……」 「でももまったもなしや。明日も明後日も仕事はよーさんあるんやで? 貸しやと思っとるなら、俺がへばっとるとき頑張りや」  一海は北斗に捲くし立てられ、しぶしぶ頷く。 「よっしゃ。なら今日のとこはうち家に帰って早よ寝とき、送ったるさかい」  しかし、北斗が肩を貸そうとしても一海は立ち上がる気配を見せない。その表情をよく伺うと少し困っている様子が見て取れる。友として半年も付き合いがあれば、何気ないクセは言葉にせずとも理解できるものだ。  一海がこういう表情をするときは決まって言い難いことがある意志表示ということを、北斗は勿論気付いていた。そして、そういうときに助け舟を出してやらないと決して言えない性格ということも。 「なんや? もしかして立てんのか?」 「えっと……あの……うん。ホントはまだ頭がグラグラしてて」  小さく頷き、恥ずかしそうに消えそうな声で白状する一海。そんな心配をかけさせまいとする友に、北斗は「しゃーねぇなぁ」と頭を掻くと、二回りほど小さい一海をひょいと背負った。 「わわわっ! だ、ダメだよ。苳島くんだって疲れてるでしょ? ボク、一人で帰れるからッ!」  仕草は女の子でも心はちゃんと男の子だ。  一海は恥ずかしさに真っ赤になって北斗の背中の上でばたばたと暴れた。 「アホ、なに照れとんねん。立てもせんのに意地はるなや。それに俺が疲れとるって思っとんなら静かにせい。よけい疲れるやろ」  暴れて背中から滑り落ちそうになる一海をあやすように何度か背負い直す北斗に「でも、恥ずかしいよぅ」と背中から泣きそうな甘えた声がする。だからといって、ここに置いていくわけにもいかない。 「んなら、しばらく目ぇ瞑っとき。寝たふりしときゃ誰も冷やかしたりせぇへんて」  さらに喚く友の細腕を自分の肩へ強引に掛けさせると、流石に一海も根負けしたように静かになった。保健室を施錠してコップと鍵を職員室に返し、学校から出るまでの間、背中の少年は耐えるようにじっとしていたが、大方の生徒はとっくに下校してしまったのだろう。特に知り合いと出会うこともなく帰路に着く。  大地はもう夕闇に支配されて東の空には一番星が輝いていた。一番長くなった影に向かっていくらか歩いたとき、ようやく安心したのか静かだった背中の少年が口を開いた。 「ねぇ……苳島君。変なコト聞いていい?」 「なんや?」  振り返らず聞き返す北斗。 「仮に……ボクが犯罪に巻きこまれて苳島くんがその現場を目撃したら」 「また、えらい突拍子もないなぁ」  一海に振り返ることはないが、その声から北斗が苦笑いしているのは表情の伺えない一海にも充分伝わった。それに安心して一海は続ける。 「友達を続けられる?」  輪をかけて突拍子もない質問に北斗は一瞬絶句してしまったが、背中の少年が冗談でこんなことを言う性格でないことぐらい理解している。これは、彼なりの比喩の含んだ真面目な問いかけなのだ。だからこそ友として真剣に考えて本心を答えなければならない。 「どうやろな……そないなこと考えたことねぇけど、多分友達やめることはねぇんとちゃうか?」 「その犯罪に巻きこまれるかも知れないんだよ?」 「カズ、友達っちゅうのは打算で付き合ってなんぼっちゅうのとはちゃうやろ? 困っとったら打算抜きで助けおうたりするもんやろ、違うか?」  一海の不安そうな声に北斗は少しだけ険しい顔で振り返った。しかし、北斗の予想を裏切り背中の少年はニコニコと微笑んでいた。 「苳島くんならそういうと思ってた」 「てめぇ。からかったんかい!」 「ち、違うよ。本当の質問はここから……それじゃぁね、もっと大切な友達とか、恋人とかにボクのことを隠さず話せる?」 「そいつは、さっきの話しの続きなん?」  一海はコクンと頷く。  友達が犯罪に巻きこまれた場合、そのことを親友や恋人に話せるか。 「オレは、話せんやろな」  北斗は前に向き直り、藍色から闇色に染まり始めた空を見上げて答える。 「うん。そうだよね」  大切な人を危険な目に合わせたくない。それは人間《ひと》として当然な心理だ。それが自分と同等かそれ以下の力しか持っていない人間なら尚更だ。  一海にもよく分かっていた。分かっていたのに落胆した声は抑えきれていない。それは、一番の信頼できる友から己とは異なる別の答えを望んでいたことに他ならなかった。しかし、北斗は背中に寄り添った少年の気配を察したように少しだけ冗談めかして言葉を続ける。 「なんつっても恋人はもってのほかやし、カズ以上大切な親友なんていねぇもんな。そないな話し出来へんわ」  時間にして数秒、北斗の足跡にして四歩分の間。  ボンっと響いた小さな爆発音と共に茹で上がる少年。ゆっくりと歩みを進める親友のリズムに同調していた華奢な少年の心臓が、急にバクバクと高鳴り始める。慌てた言葉の出始めは赤ん坊のように言葉ではなく音階のみが先走り、言いたいことの半分が脳の中から消えていく。 「な、な、なにいってるの! 苳島くんなら他にいっぱい友達いるじゃない」 「だ〜か〜ら、カズより大切な親友なんていねぇってぇの! 迷惑かいな」  最初は力強い声も、最後はふて腐れたような声の呟きになる。振り返ることは出来ない。気恥ずかしさからお互いに顔を見ることなんて出来ない。しかし、今の一海にはもっと違う方法で気持ちを伝えることが出来る。 「う、ううん。ちが……そのゴメンナサイ! 凄く嬉いから! だって、そんなことなんて絶対ナイって思ってたし、苳島くんって誰とも仲良しだし、それから……それからッ」  一海は北斗の肩を通して絡めている腕で力一杯、北斗を抱きしめていた。同時に堰を切ったように溢れ出す言葉は震えていて。  そして、抱きしめられた少年は照れたように星を見上げて、もう一つ言葉を追加した。 「あ、あとな、親友なら名前で呼んだれ。いつまでも苳島くんじゃカッコつかんでぇ、ホンマ」 「うん……ご、ゴメン。北斗くん、ありがとう……ほくとクン」  後ろ首を濡らす雫に少しだけ戸惑いながらも、北斗はもう何も言わず一海の家へと歩いていった。 chime3  洋奈が風邪で休み始めて今日で3日目。  HRまでまだ時間はあるが、今日も登校してくる気配はない。  流石に今日も登校してこないとなると千尋の心にも妙な考えが浮かんでしまう。一昨日、昨日と休んだときは風邪とも顔を合わせづらいという気もしていたが、3日連続ともなると嫌でも彼女の最後の言葉が気に掛かってしまう。 (あの子は人殺しだもん……か)  千尋はその言葉を反芻し、同時に少女のような容姿を思い出す。  大和 一海。  噂で隣のクラスの緋須那祭実行委員であることや、初心《ウブ》で可愛らしい外見からお姉サマ系女子の密かな一番人気であることを知った。  しかし、それ以上の人間性や人生経験についての噂は皆無で計りかねない。  それに人間である以上、嘘や見せかけは誰にでもあるのだ。そんなことを考えているうちにHRは始まっていた。  親友は今日も風邪で欠席だった。  *  放課後、千尋はたまらずに洋奈の家へと電話をかけた。  人殺しという言葉には未だまさかと思いながらも、声を聞けば嫌な妄想を膨らませることもなく済むはずだ。しかし、コールが20回を越えても洋奈は出ない。  そうなると心配は更に募る。  千尋は部活の練習も投げ出して親友の家まで走っていた。マンションの一室、何度か遊びにきたこともある扉の前まで走りきり、乱れた呼吸を整える。  しかし、その視線が扉の新聞受け口を捉えたとき彼女の嫌な予感は極限まで膨れ上がった。  おそらくは3日分であろう。新聞がそのまま放置されたままだったのだ。  張りつめていた理性の線が引き千切られて、千尋はなりふり構わず扉を叩いた。 「ヒローっ、いるんでしょ、ヒロッ!! 返事して!」  ガンガンと分厚い扉がなるが、一向に洋奈が現れる気配はない。 (そんな……嘘でしょ)  千尋は開かない扉を諦めて一階の管理人室まで駆け下りた。 「すみませんー!」 「はいはい、どうされました?」  管理人というよりは作業員といった風貌のまだまだ現役といえるおじいさんが顔を出す。 「あの、402号室のヒロ……御潟さんの扉が開かないんですけど!」  近くに置いてあった管理帳を広げて目を細める管理人の答えは、千尋を驚愕させるのに充分だった。 「ん? 御潟さんですか。ええっと、あぁ、2日前の早朝にお墓参りに行くって出ていかれたと管理帳に記録されていますね」 「!! そ、そんなはずないです。ヒロは風邪ひいて学校休んでるはずなんです!」 「そ、そうは言われましても管理帳には」 「お願いです。私、杉並 千尋っていいます。洋奈さんのクラスメートで親友なんです! あの子が心配なんです。お願いします、402号室の鍵貸して下さい!!」  身を乗り出して懇願する千尋に圧倒され管理人は萎縮してしまったが、なんとか年の功で冷静に対応して見せた。 「わ、わかりました。ただ、部外者の方に鍵をお貸しするわけには参りませんので、私と一緒に行きましょう。それでよろしいですね?」 「はい! すぐにお願いします」  管理人はやれやれと一息ついて奥から鍵を持ってくる。  千尋は遅れる管理人を引っ張るように402号室まで連れてきて、鍵を開けてもらうと一目散に親友の部屋を目指す。  しかし、部屋はどこも消灯されており、洋奈の姿もどこにもない。 「どうです? やはりおられないでしょう?」 「そんな……どうして?」  千尋は混乱する頭でなんとか管理人にお礼を述べ、部屋を飛び出した。走っている間にも人殺しという言葉が脳裏に浮かんでは消える。自然に千尋の行く先は人殺しと呼ばれた少年、一海の元へと向かっていた。 (まだ、この時間ならまだ学校に残っているかも)  ついさっき来た道を全速力で戻っていく千尋。  すでにショートボブの黒髪は乱れて額も項も滝のような汗が伝っている。しかし、彼女は、力を緩めることなく学校まで駆け戻った。  その集中力は彼女の瞳にも宿っている。研ぎ澄まされた視覚は校舎の影をちょうど通り過ぎたシルエットだけで求めている人物であることを断定した。  千尋は親友の安否を気遣い、無我夢中で影を追っていった。  * 「大和! ヒロをどうしたのよッ!」  体育倉庫に一海を追い詰めた格好の千尋は、第一声から倉庫内に響き渡る罵声を浴びせた。  驚いて振り返る少年二人。  一人は千尋の集中力が捉えた少女のような少年、大和一海。もう一人は対称的に体格の良いスポーツマンタイプの少年、苳島北斗である。 「誰や、こいつ?」  名前を呼ばれたのは一海であったが、先に口を開いたのは北斗であった。 「え? あの?」  一方、一海としても昨日保健室で出会っただけの少女だ。名前さえもうろ覚えな少女の形相にすっかり萎縮してしまって、まともに言葉を紡ぐことができないでいた。 「大和! ヒロ……洋奈は何処ッ! どうしたのかって聞いているのよッ!」  言葉を発すると同時に体当たりをするかのように身体を丸めて、目標へ突っ込む。二人にとって予想外の行動に北斗も当事者の一海も身構えることしかできない。千尋は地面と水平に寝かせた腕を突き出し、一海の首に当て壁と挟みこんだ。 「ぐ、ごほっ」  刹那、背中に走る衝撃と締められた気道により不自然な悲鳴が上がる。その事態にようやく我に返った体格の良い少年が、今も尚、一海の首を圧迫し続ける腕を強引に引き剥がした。 「アホンダレ! カズを殺す気かいな!」 「放しなさいよ! 私はコイツと話しがあるのよッ!」 「おい、やめろッ! 頭冷やせや!」  持ち前の力で勢いよく引き剥がした北斗だったが、暴れる少女は拘束する邪魔者にまで牙を剥き、噛み付こうとする。さしものスポーツ少年も羽交い締めの格好へ持ってくるまで必死だった。しかし、動けなくなっても暴れることを止めない少女に戸惑いの表情だ。 「なぁ、カズ、こいつ知っとるんか?」  しかし、首を締められていた少年は壁を背に動かない。 「おい、カズ? 大丈夫かいな!」  羽交い締めにした少女を放すわけにもいかず、慌てて大声を張り上げる北斗にようやく親友は、首を振って起き上がった。 「あー。久しぶりに起きたなァ。うん、やっぱりこちらの世界はいいねェ」  しかし、ゆらりと起き上がった一海は、誰を見つめることなく下に翳した両手の平の握力を確かめるかのように開閉を繰り返し、そんな独り言を口にした。  その声にはいつもの篭りがちな舌足らずさはなく、伸び伸びと堂々としたテノールであり、北斗は親友に起きた何らかの異変を感じとっていた。決して長い付き合いではないが、こんな堂々とした一海をみたのは初めてだったのだ。 「カズ?」  今度こそ、親友の声にゆっくりと振り返る一海。  しかし、今度こそ北斗は一海に起きたなんらかの異変を確信した。  そこに居たのは、儚げで頼りなさそうな少し垂れ目の少年ではなく、この世の大方を知り尽くした鋭い眼光が印象的な少年であったのだから。  その鋭利な瞳がしっかりと北斗を捉える。  いや、違う。眼光の狂喜を湛えた先に捉えられた者は、北斗の腕を振り解こうとしている少女であった。その凶悪な光は獲物を見つけた肉食動物のそれで、一海の姿を借りた何者かは、はっきりと舌なめずりをしてみせた。 「放しなさいッ! 大和ッ、洋奈を返すのッ!返せッ!」  しかし、それに千尋は気付かないのも無理はない。動かない全身の代わりに立て続けに罵声を放ち、動けるものならもう一度首を締めることも厭わないほど必死な瞳の色で親友の安否だけを気遣っているのだから。 「あー。いいですよ、君が大人しくしてくれれば、いつだって返しましょう」  そんな形相に怯みもせず、頭に血が上っている千尋にもはっきり届く声は、一海のものであって、一海のものではない。  聞きなれた優しい音色に隠しきれない嫌味な音が含まれたその言葉は、陰口のように誰の耳にも障る不快な音階であった。  暴れていた少女も動きを止める。代わりに浮き上がってくるのは確かな怒り。 「やっぱり、あなたなのね! ヒロの言ってた通りだったわ! この人殺しめッ!」 「人殺し!?」  北斗が動揺して怯んだ瞬間、千尋はその隙をついて羽交い締めから抜け出す。本来は明朗さを映し出す鏡を赤く怒りの炎で燃やしながら。 「あー。人殺しとは酷いですねェ。少なくとも私《・》は人を殺したことはありませんよ」 「嘘を言わないでッ! だったら、どうして洋奈をさらう必要があるの」 「さて、なぜでしょう?」  一海でない一海は明らかに挑発を目的としたように、ふざけた調子で「知らないね」と身振りで示してみせる。頭に血が上っていた少女は、再度怒りに火が付き、北斗が止める間もなく道化師に飛びかかった。  しかし、それが今の一海にとって最も好ましい展開であると千尋は気付けない。  道化師は演技を止めると鋭利な眼光を無駄なく動かし、怒りの少女の体当たりを寸前で横にいなし、差し込んだ足払いと絶妙な体捌きによって彼女の身体を跳び箱へと叩き落としていた。  思ってもみないことに受身を取れなかったのだろう。呼吸音が不自然に歪み、刹那、酷く咳き込む千尋。  その咳が止まらないうちに一海は少女の制服の下から手を差し入れ、ようやく膨らみが感じられるようになってきた胸を掌で包み、親指の付け根の部分で摩り回すよう動かしていった。 「!!」 「な、なにやってんだッ! カズッ!」  千尋と北斗は同時に息を飲み、声にならない悲鳴と驚愕を含んだ罵声を上げる。 「あー。まったく近頃のコ娘は随分発育が早い。結構なことです」  しかし、感嘆の声を漏らしつつも手の動きは止まらない。我に返った千尋の左手が唸りを上げて無作法者の頬を目掛け、走る。平手は彼女のさまざまな怒りを体現するように震えながら、風を切り裂き一直線に振われた。  それでも、既にかつての場所に目標はない。一海の姿を借りた何かは千尋の肩が開く瞬間を待っていたかのように、身体と顔を彼女へすり寄せると目の前に迫った彼女の右頬へ唇を到達させていた。  少女の思考がその一瞬だけ止まる。  今の一海には充分過ぎる時間だ。  胸をまさぐっていた手を引いて両手で千尋の両肩を抑えつけると、今度は先ほどより仄 かに赤みの差した左頬に。 「いやぁぁぁっ!」  小柄な体躯の何処にこんな力が秘められているのだろうか。普段の様子から想像もできないほど一海は、全身を使って暴れ出す千尋を難なく抑えつけている。  もう一度右頬にキス。  そして、一度止めて辱めている対象へねっとりとした視線を注ぐ。 「ぃやあぁぁッ!」 「ちょ、やめよ、カズ!」  見たこともない世界により思考が何度も停滞する北斗だったが、少女の悲鳴により我に返り、おかしな行動をする親友を引き剥がしにかかる。 「大丈夫ですよ。任せて下さい」 「あかん! この娘《コ》、嫌がっとるやん!」  油断したなら焼け付く熱に麻痺してしまう思考を無理に動かし、不可解な行動をとる一海になんとか抵抗する。 「大丈夫ですよ。これぐらいの女の子は怖がるのが当たり前なのですから」  一海は北斗に怖いぐらいの満面の笑みを見せて、千尋の唇に己の唇をゆっくりと近付けていく。  千尋は顔を背け、目を固く閉じた。  一海はそれを見ると唇を諦め、差し出された項に口付けする。  初めは唇のみで緊張した筋肉を解すように、少し慣れて解れてきたら舌を使って舐め擽って、鎖骨の上から顎の下まで唇で満遍なく愛撫する。  緊張が解れ過ぎてもいけない。時に耳たぶを甘噛みして少しだけ緊張を持たせてやる。それは幼い性戯ではなく、どこからみても百戦錬磨の男の技術《テクニック》に窺えた。  現に、性に目覚め始めたばかりの中学生にも効果は現れていた。  あれだけ拒絶を示すように閉じられた千尋の瞼が開きかけてきている。  開閉が頻繁に起きているからだろう。瞳からはいくつもの涙の粒が零れ落ち、一海の唇はそれを一粒として逃すことなく受け止め、拭っている。 「やだ・・やめっ」  千尋の唇から漏れる声は先ほどのような力を持たなくなってきている。それは、彼女の腕に入っている力を見れば一目瞭然であった。  限りなく心に近い部分のみの弱々しい抵抗。すなわち、まだ幼い身体とはいえ、対する異性を受け入れ始めていることを如実に示していた。  一海は涙で潤った舌で千尋の真っ赤に染まった頬を舐め、そのまま耳に息を吹きかける。  驚きに身を竦ませ瞳をはっきりと開く千尋。その視界には至近距離の一海の瞳しか映ることはない。観念したかのように、顔を背けることは諦めて目を瞑り耐えようとする。  しかし、千尋が予想した唇には一向に温もりは感じられない。彼女が不思議に思って薄目を開いた瞬間だった。  チュッ。  小さな口付けの音と共に額へ温もりを感じる千尋。思ってもみない行動に瞬きをすると微笑を湛えた一海が見つめている。その眼は先ほどまでの鋭利な輝きを潜め、本来の一海へ戻ったように思えた。恥ずかしげに泳いでいた少女の瞳がそんな一海を捉えたとき、トクンと鼓動が高鳴り、美少年は全てを見透かしたように声を出さずに言った。  まるで別れ際の恋人を引きとめるかのように。  どこか切なげな、今すぐ抱きしめなければ儚く消えていってしまいそうな姿に、最後の最後まで掛けられていた彼女の中の鍵が音も立てず開いた。  微かな吐息と共にゆっくりと近付いてくる唇。  もう千尋は抵抗しなかった。肩に込められた力も、腕に入っていた余計な力も入らなくなって、心臓の波打つ音だけがやけにはっきりと聞こえている。  最後に香ったのは甘いミルクの匂い。瞼を下ろすと同時に息を止めてしまった少女にとって、温もりある安心できる空間。刹那的に触れられた柔らかい唇は未知数の行為に対する緊張を解きほぐすには充分で、ゆっくりと息を吐いた唇の隙間から初めて彼女は営みに喘いだ。  *  一海が千尋の制服に手をかけたその時だった。 「こんのぉーケダモノーーーーーッッ!」  突然、彼らの後ろから駆け抜けてきた疾風は、入口に置いてあった金属バットを引っつかみ、一海の肩から背中目掛けて一閃した。  ドゴッという鈍い音と共に一海が倒れる。  そんな異様な光景に北斗も千尋も我に返らずにはいられない。 「! きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」 「うわぁぁぁぁぁぁっっっ!! カズーーーーーーッ!」  千尋はあられもなく乱れた制服姿に悲鳴を。  北斗はヤバイ音と共に気絶した一海に悲鳴を。 「もぉっ、ちーちゃんったらどうしてこんなことになってるのよぉ!」  それらを一番真っ当な台詞で制したのは、千尋の親友で行方不明のはずの御潟 洋奈、その人であった。 「ヒロ! どうして!」 「それは、洋奈の台詞だよぉ! どーして? 大和くんには会わないでって洋奈言ったはずだよ?」 「だって……それは、ヒロが風邪でお休みって聞いてたのに家にいないから……私、心配になって、もしかしたら人殺しって私に告げ口したからヒロが殺されたんじゃないかって思って。だから、だから……」 「そうだったんだ」  思い出すごとに恐怖と安堵が混ざっていったからだろう。千尋は、しばらく言葉を紡ぐと震えと安堵の高騰で声にならなくなってしまった。洋奈はそんな小さくなった少女を母のように優しく撫でてやる。 「ゴメンね、ちーちゃん。学校には説明するのが面倒だったから風邪でお休みしますって伝えたんだけど、洋奈の家は毎年この時期にお墓参りすることになってるの。ずっと遠いから時間掛かっちゃって、やっとさっき戻ってきたの。そしたら管理人のおじいちゃんがちーちゃんのコト教えてくれて、家にも帰ってきてないっていうから、もしかしたら学校かなって思って。大丈夫、ちーちゃん? 何か変なことされなかった?」 「胸触られて、キスされた……」  親友の優しい問いかけに母に諭される子供のように正直に告白する千尋。  刹那、洋奈のこめかみが引き攣った。 「こんのぉ! ド畜生ぉぉっっっ!!」  再度、金属バットを手に取り振り上げる。 「って、待てやぁぁぁぁぁぁっっっ!」  気絶している一海を守るように一人の影が踊り出る。 「ちーちゃん、この人誰?」 「……私も知らない」 (さっきからずーっといたんやけどなぁ)  北斗は少しだけ自分の存在感について考えたが、それどころではないと思い直して言葉をかけた。 「と、とにかくや。今から説明するさかい、そないな物騒なもん構えんといてぇな。それに、お二人さんとも頭に血が上り過ぎや! ちょい冷静にな」 「わぁっ! 関西弁〜? 可愛い〜!」  といったそばからテンションを上げて北斗を輝く瞳で見つめるのは洋奈だ。 「でぇい! オレに話させんかいッ!」  こんな調子で三人がお互いの情報を獲得するのは夜の闇が完全に支配した後のことだった。  *  気絶した一海を保健室まで運び、三人はそのベッドを囲んで簡単な自己紹介と、これまでの経緯を落ち着かない様子で話し合った。それを纏めるのは、大きな縁無し眼鏡をかけた少女、洋奈だ。 「ということは〜、ふっきーはこの子の親友で、ちーちゃんの勘違いに巻き込まれて、豹変した彼を何とかしようとしたけど、絡みが凄くてついつい魅入っちゃったってコトぉ?」 「ヒロっ!」 「んー、大方、当たっとるんやけど、なんかひっかかる言い方やなぁ」  関西弁に親しみを持ったのか、洋奈は、北斗の愛称を勝手に決めつけて後れ髪を結った大きなリボンを揺らしながら、事の次第の理解度を求める。しかし、悪意のない言葉でも本人たちにとっては、触れられたくない事実を真っ向から問いただされることになる。  千尋は真っ赤になって縮こまり、北斗は背筋に冷や汗を垂らしまくった。悪意の無い表情で「違うの?」と尋ねる洋奈へ、俯きながら首を振ることしか出来ない二人。そもそも、千尋にとって北斗は恥ずかしい姿を目撃された男子生徒なわけで、北斗に至っては異変を感じた一海から助け出さなければいけないのに何も出来なかった無力さから、お互いの視線を合わすことさえためら躊躇われているのだ。会話は弾むべくもない。 「も〜、どっちなのよぉ。それとも、まさか、まだ何かあったのぉ?」 「な、何かって何!?」 「ない、ナイ! んなもん、ナイ!」  深読みの質問に顔を上げて狼狽する少女と弁明する少年の瞳がぶつかり合うと、みるみるうちに顔を茹で上げ、途端にあらぬ方向へ視線を逸らす。 「も〜、いい加減にしてよぉ。これじゃ何があったのか全然分かんないよぉ」  洋奈の嘆きももっともだ。彼女らが今、どうしてこの場所にいるのか理由を答えるなら、これからどうするか、ということなのだから。  今尚、ベッドで眠る少年は借物の子犬のように縮こまっている少女にいかがわしいことをしようとしていたのは明白で、その責任を追及するために原告の陳述を、そして、被告の弁明を代行するために弁護人の陳述を求めているのにも関わらず、共に黙秘されては進むはずもない。  流石の洋奈も膠着状態に腹を立て、 「もういい! この子に直接聞くから!」 再度、金属バットを振りかぶる。 「って、なんでやねん!」  これ以上、華奢な少年を撲打されたら大変なことになるのは容易に想像出来た。下手をすれば那後中から婦女暴行未遂犯どころか殺人犯が生まれるということにもなりかねない。  大体、その金属バットはどこから持ち出してきたのか。  兎にも角にも親友として彼を守らなければならないことを認識した北斗は、本場の鋭いツッコミを鳩尾に叩きこみ凶器を片付けさせると、未だ目を伏せている少女に深々と頭を下げた。 「ホンマ、すまん。カズを止められんかったのは俺の所為や。許せぇへんことは分かっとる。けどな、話しだけでもきいてんか?」  半年間の友として、親友として見てきたことを偽りなく北斗は語る。今日の一海はいつもの一海と違ったこと。それは、首を締められ気を失いかけた辺りから急に変化したこと。普段は大人しくて優しく、気を遣いすぎるぐらいのイイ奴ということ。それが、あの時だけは強引で狡猾だったことも、思い付く限りの親友像と比べても特異な例であったことを二人に伝えた。  懸命な姿勢に洋奈は真剣に聞き入り、語り終わる頃には千尋も顔を上げていた。言葉の最後にもう一度謝った北斗に、少しだけ頬を染め「もう、気にしてないから」と答えるその姿は普段通りの彼女に戻りつつある。 「でも、それってどういうことぉ?」 「俺にも分からへん。けど、あん時のカズは言葉遣いもなんか変やった。まるで別人みたいなしゃべりでな」 「眼もこんなに優しそうじゃなくって、確か怖かったような気がするし」  三人はようやく打ち解けて情報を出し合う。  一海に対して思ったこと。感じたこと。分からないこと。そして、しばらく語り合い、そろそろ疑問しか残らない状況になってきた頃、ふと思い出したように千尋が口を開いた。 「そういえば、ヒロ。大和くんが人殺しって、あれってどういうこと?」 「あっ、そっか。二人は小学校が違うから知らないんだよね」  その問いに呟くように答える洋奈。その表情から言い難いことだというのは二人ともすぐに分かった。しかし、聞かずにはいられない。何故ならその中に隠されたヒントがあるかも知れないのだから。 「うん……じゃぁ、話すね」  千尋と北斗の真剣な眼差しに洋奈も覚悟を決めた。もう二人は大和一海という生徒とは無関係の位置にはいない。義務こそないが、知らないで済まされる中途半端な関係でもないと感じたのだ。  当時洋奈の通っていた小学校に大和一海という名の少年がいた。少年は大人しく優し過ぎる性格と父子家庭ということから、少しいじめられっ子という存在だった。しかし、それを守る存在が現れる。名前は、空音《そらね》。同じクラスになった学級委員長で面倒見の良いクラスのヒロイン的存在。一海は彼女と急速に仲良くなり、放課後も一緒に遊ぶことが多くなった。冷やかされることも多かったが、それでも彼女を通してクラスに少しずつ打ち解けていくことができた。そのことを知った一海の父親は感謝の意を込めて、冬休みに彼女を誘い一海と三人でスキーへ行くことにした。  ところが、そこで何らかの事故に巻き込まれ一海の父親は亡くなってしまう。一海は、親戚へ引き取られ、遠い南の島へ引っ越していったが、空音は一海の傷を癒すかのように足繁く通うようになった。しかし、悲運なことに彼女もまた一海の元へ向かう途中のフェリーから転落し亡くなってしまう。そして、度重なる偶然がいつの間にか深く関わった者を死に至らしめる呪われた名前として、大和一海の噂を作りだしたという。 「だから、もしかしたらこの大和くんとは関係ないかも知れない。同姓同名の別の人かも知れないし」 「そうだったんだ。ゴメンね、ヒロ」  眼鏡の少女は噂の可能性を頭の中で否定しつつも、親友を危ない目に遭わせる可能性を危惧し、守ろうとしたのだろう。  千尋はそんな親友の思い遣りに改めて感謝した。 「けど、そないだと手掛かりになりそうなもんはなくなってもうたな」 「そうだね。結局何も分からず終い」  一海の豹変した理由、動機、拍子。何一つ正確なものは掴めずに彼女たちはため息をつく。しかし、そんなため息を破るのは怖いもの知らずの洋奈の言葉だった。 「じゃぁ、洋奈たちが解明しようよ」  単純明快な答え。  分からなければ、これから調べればいい。  当たり前で、直球で、明確な答えに二人は顔を見合わせてしまう。 「ちょっと待ってよ、ヒロ。そんな失礼なこと……」  仮にも友達である北斗の目の前で言うということは、彼にも協力を要請していることになる。人の秘密を嗅ぎ回ることもさることながら、友達を裏切れと言わんばかりの言葉に千尋は行き過ぎと感じたのだ。 「だって、このままでいいの? 洋奈は絶対にイヤ。だって、この子はち〜ちゃんを傷つけてたかも知れないんだよ? それが、今日だけ変だったって理由で何もなかったことになっちゃうの? 洋奈はこの子が謝るまで絶対に許せないもん!」  眼鏡の奥には確かな怒りの色。彼女の親友に対する情の表れだった。どれだけ友を大切に思っているか、それは北斗が一海に抱く感情と比べて遜色ないか、それ以上の強い想いとして感じられた。  滲み出る感情が琴線に触れたのだろうか。  一海が寝返りを打つのと同時に北斗も難しい表情をしつつ頷いた。 「ええよ。協力したるさかい、一つだけ約束してんか?」 「なぁに?」  親友を思い遣る二人の視線がぶつかり、小さな閃光《スパーク》を起こす。妥協を許さないお互いの意地だ。 「カズのことは俺も確かめたい。けど、俺一人じゃ全部見きれへんし、コソコソ嗅ぎ回られるのも好かん。せやから、コイツの友達から始めてやってくれ」  北斗自身、この条件の無茶は重々承知だ。危うく操を奪われそうになった千尋にとって、また親友を大切に思っている洋奈にとって一海は嫌悪の対象でしかないだろう。しかし、北斗にとっても一海は大切な一番の親友なのだ。それに、彼女たちが条件を受け入れ一海と付き合い始めれば、いつか本当の一海の姿を理解してくれると信じていたからこそ、彼は親友に隠されている謎解きに協力しようというのだ。 「そろそろカズも目ぇ覚ましそうやな。とりあえず、返事は明日聞かせて貰うさかい、今日のところはこれぐらいにしとこ。あんまり宿直の先生に迷惑もかけられへんしな」  出された条件に沈黙してしまう二人を見て、北斗は静かに言った。  時計は既に19時を回っている。 「うん。じゃぁ、明日の放課後に」  神妙な空気を取り払うように千尋は席を立ち、洋奈と一緒に保健室を出ていった。扉が閉まると静寂が辺りを包み、丸椅子に腰掛けた北斗は、ベッドに眠る一海に視線を移す。  北斗の記憶に映し出されるのは、あの時の一海と千尋だ。一海の姿を借りた何かは、言葉遣いも、声も、動作も本来の一海とは違った。いや、万が一あの一海こそが本来の一海だったとしたら。  そんなことはない、と頭の中で否定しつつも不安は消せない。体育倉庫の出来事は確かに存在した事実なのだから。そういうことにまだ詳しくない北斗でさえ、一海の慣れが相当なものであったことも分かったのだ。  ものの数分だったのだろうか。あの拒絶をさらりと躱して結果、唇にキスするまでに至った行程。それも無理矢理ではない。少なくとも最後の口付けは北斗の目から見ても千尋が拒んでいるようには見えなかった。 (つまり・・・そうゆうことやな)  それを思い出して、チクリと痛む胸と半身がむくむくと気をもたげる衝動。 (つまり・・・そうゆうことやな)  複雑な心境と感情が入り混じり脳をリセットしようとするが、衝撃的な記憶というものは、そう簡単には消去することもできない。  一海が目覚めるまで数え切れないため息をつく北斗であった。  * (あー。残念ですねェ。あともう少しで久しぶりの子猫ちゃんを可愛がることが出来たのに。まぁ、いいでしょう。機会はまだまだありそうですしね。うっふっふ。一海は、本当に可愛い。どうして、こんなにおじさんの住処が広いのでしょう? うっふっふ。さぁ、早くお呼びなさい。おじさんは喜んで一海の嫌なことを引き受けてあげますよ)  ハーフミラーの壁で区切られた様々な色の世界。  青。赤。黄。橙。白。そして黒。  各色の世界にはそれぞれ形の見えない同色の何かが棲んでいる。小さいものから大きいものまで多種多様に。  彼の色の世界は黒の世界が一番大きかった。少しずつ、他の色の区画を侵食しながらここまで来た。そこには姿こそ分からないが、確かに何かがいる。なぜなら黒色の世界が揺らめくたび、ほとんど黒色に同化された深紅の色が開閉を繰り返していたからだ。  それは、まるで残忍な笑みを浮かべる口のように卑しい存在を示していた。  * 「うりゅ……」 「よぉ、目ぇ覚めたか?」  小さな手の甲で目を擦りながら一海が目覚める。  北斗はその愛らしい仕草からいち早く元に戻っていたことを察知し、安堵しながら答えた。 「あれ、北斗くん? ここは」 「見ての通り保健室や。水いるか?」 「あ、ううん。大丈夫だよ。それよりも、どうしてボク保健室で寝ているんだっけ?」  あまりにも自然に答えられたからか、北斗は一瞬言葉に窮してしまう。その姿を見て一海は不安げに北斗を見つめる。 「北斗くん?」 「な、なんや。覚えてないんか?」  顔を覗きこまれてようやく我に返った北斗は、平静を装って問い返す。肩を窄めて上目遣いにコクリと頷く少年は、こめかみを押さえて記憶の糸を手繰り寄せようとするが、 「確か……北斗くんと体育倉庫に行ったところまでは覚えてるんだけど」 彼の瞳に映っていたはずの事象は綺麗さっぱり忘れられているようだ。それとも、本当は親友に嘘をつくことさえ厭わない少年なのだろうか。  北斗はこのとき親友のことを見極められずにいた。  信じたい。  信じなければならない。  しかし、その想いが強ければ強いほど反対に裏切られることに対する不安も強くなる。  北斗は慎重に事実をはぐらかして告げなかった。  何よりも痛む胸がそれをさせてはくれなかったのだ。 chime4  後日、北斗は、さりげなく一海に自分の友達として千尋と洋奈を紹介することになった。  二人はお互いによく相談したのだろう。瞳に迷いはない。北斗にとってそれは嬉しくもあり、少しだけ羨ましくもあった。  三人は一海を監視するにあたって、いくつかの約束事項を設けた。  先日の一切について彼の耳に届かないように細心の注意を払うことや、この異変について他の誰にも話さないこと、何かしらの異変を感じたときに必ず報告すること。  それは彼らなりに考え抜いた配慮や規律であった。  三人の一海に悟られないように気にかけるという日常が始まる。  しかし、それが簡単に出来るような芸当なら今日から誰でも探偵だ。  特に千尋はそういう駆け引きが苦手らしく、露骨に一海と目が合ってから慌てて目を逸らすなどという怪しい動き以外の何者でもない。  北斗の提案で四人一緒に昼食を摂るようにしたとき。  練習が早く終わり、手伝えることがないかと北斗に尋ねたとき。  偶《たま》の休みに四人揃ってドーナッツを買い食いしたとき。  昼放課後に英語の宿題を手伝ってやったとき。  千尋は赤面した顔の前に手を翳し、幾重にも下手な嘘を重ねた。  幸いにも人一倍、鈍感《ニブ》な《い》一海に気付かれた様子はなかったが。  それは、北斗の考えたくない思考を真っ向から否定するかのように、四人にとって充実して幸せな時間になっていった。  一ヶ月は時計を見る間も惜しむほど、あっという間に駆け抜けていく。  あれからもう一人の一海が目を覚ますことはなかった。  体育祭も大成功に終わったとき、北斗はこのままあの事件が嘘のように消えてしまうように思えた。まるで夢か幻であったかのように。  それでよかった。少なくとも北斗にとって、千尋は、一海に好意を持ち始めているように思えたし、洋奈の怒りも千尋の心境の変化に打ち消されているのは明白だった。このまま四人が本当の友達になれる日も、決して遠くはないと感じられた。  しかし、北斗が思っているほど事態は平定としていなかった。  植え込まれた種が発芽する場所が、なにも一つでないことに。  それはまだ、当人でさえ気付いていなかった。  *  明日に文化祭を控えたその日。実行委員は最後の調整と、明日の連絡事項を確認してからの解散となったため、他の生徒たちよりも少し帰りの時間が遅くなった。  合唱部の最終調整を終えて待っていた千尋は、視聴覚室から解散した委員たちの中から一海を見つけて、室内の彼へ歩み寄った。 「いよいよ、明日ね。一海くん」 「うん。そう・・ですね」  言葉遣いは依然と固いままであったが、紹介された当初は言葉を交わすだけでも縮こまっていたぐらいである。それが今では、はにかんだ笑顔さえ見せることもあるのは、少しずつ感情の紐が解かれていくことにお互いが望んでいる証拠だ。  千尋もその明るい表情に何度か救われた。あの日、確かに襲いかかってきた少年の瞳を思い出してベッドから飛び起きた夜明けでも、北斗から貰った一枚の写真に写る微笑みを見ると、まるで夢の中と現実が切り離されたように安心することが出来た。  真っ暗な嵐に巻き込まれ悲鳴を上げる心が、差し込む温かい光によって穏やかな波を取り戻す。 (一海君は怖くなんてない)  まるで、魔法のように少年を信じることができた。 「あの、杉並さん」 「もぅ。千尋でいいって言ってるのに。私だけ名前で呼ぶのって変よ」  少しだけ不服そうに言う彼女はそれだけ「近い位置だよ」と証明したいのだろう。 「ご、ごめんなさい。でも、下の名前で呼ぶのって抵抗があって。それで、明日の合唱部発表会なんですけど、自信ありますか?」  ごまかすように話しを繋げた一海に、少女は残念に思いながらも話題を共有してくれることが嬉しくて大目に見たようだ。 「もっちろん! 私も洋奈も明日のために今まで頑張ってきたんだから。合唱部の発表会を見に来てくれた人には、絶対に緋須那中学の文化祭のほうが良かったなんて言わせないんだから!」  緋須那祭会場として明日の二校の文化祭は同時開催。嫌でも相手校にライバル意識を燃やしてしまう。 「大丈夫よ。一海くんだって今まで一生懸命頑張ってきたじゃない。もっと自分に自信を持って!」 「そうですよね。きっと成功しますよね?」  彼女の気合に感化されたように、顔を上げて少しだけ力強い声で自分を励ます一海。  千尋は絶対だと言わんばかりに「うんっ」と力強く頷いて微笑む。  その時、教室の後方からこの一ヶ月間を共に戦い抜いてきた戦友の声が響く。 「カズーっ堪忍なー。俺、これからまだちょい体育館で準備があるねんで先帰ってええぞー?」 「えーッ!? 今日は前哨戦祝いでドーナッツ食べに行くって約束したじゃない〜!」 「スマン!! ほんま堪忍な〜。明日、きっちり埋め合わせするさかい!」  後ろのドアを蹴破るようにして脱兎の如く消えゆく北斗の後ろ姿に一海は、 「もーっ! 勝手なんだからぁ!」 と大声で文句を叫んだ。  しかし、ほっぺをぷくぅと膨らませてみても、その表情がもっとも生き生きとしているのは誰の目から見ても明らかだった。  千尋は少しだけ、彼の一番の親友に対して嫉妬してしまう。  大声でやり合う二人が心から楽しそうで。  北斗と一海が呼び合っていたとき、千尋は世界から取り残されたように切なく、淋しい気持ちになってしまっていた。それは、あのファーストキスを奪われたときから、冷めることない感情だったのかも知れない。  千尋は近くに誰もいないのを確認して、後ろから一海を抱きしめていた。  背丈は千尋のほうが高いので少しだけ覆い被さるような格好で。 「好きよ、カズミ」  秘めたその想いには前々から気付いていた。しかし、胸の内でさえその想いを反芻するのには勇気がいる。  人は失うことを恐れてしまうから。  人は変わることに不安を感じてしまうから。  けれど、それ以上の孤独に耐え切れなかった彼女は、溢れる想いを塞き止める術を知らなかった。  己の言葉をもう一度噛みしめると心臓がドクンと脈打つ。  羞恥、戸惑い、疑念、不安、そして天秤を水平に保つ爽快と後悔。  もう少しだけ力を込めて、今は未だ友達でしかない小さな少年を抱きしめる。  答えを、見返りを望んだ。  壊れるほどに切なくなった心を満たすために、記憶に眠る温もりを身体が求めてしまっていた。  高鳴る鼓動が。 (ほら……私こんなにドキドキしてるよ)  千尋の柔らかで小さな双丘から一海の背中に伝わっているだろうか。抑えきれない情動が。  見つめて欲しい、と。  好きでいて欲しい、と。  そして、もし適うなら恋人としての|契り《キス》を下さい、と。  抱きしめた腕《かいな》によって一海の枷を外すため、悠久さえ感じる長い長い沈黙が過ぎる。  そして。  ゆっくりと振り返った一海の姿に彼女は驚愕と嫌悪の視線を送った。  もう千尋にも見分けはついた。あの優しそうな瞳が冷たく愉快げに嗤《わら》う瞳へと変わる。 「あー。光栄だね。ボクを好きになってくれるとは」  代わりに浮かんでいるのは嫌味に映る冷笑。 (間違いない)  千尋は確信した。千尋の大切なものを奪っていった一海ではない一海を。  危険を感じて咄嗟に身を翻す。 「私が好きなのは一海よ。あなたじゃない」 「切ないなァ。君の初めてはボクが貰ったんじゃないか」  唇をなぞる仕草を描く細い指先が、少女のような少年を娼婦のように見せかけた。その嘲笑を含んだ事実が千尋の頬へ紅を呼ぶ。  しかし、あの時の教訓が千尋を冷静にさせていた。 「カズミの真似をするのはやめてくれない? 醜悪よ!」 「おやおや、あー残念。それなりに人を見る目はあるということですか」  千尋に背を向け、廊下へ向かって歩き出す醜悪な一海。 「待ちなさい、あなた一体、何者?」  繋ぎ止めるのは、棘を付加《ふか》した鋭い声。  ある意味、本当の一海を知る良い機会なのだ。少女は高鳴っていた心臓を無理に押し留め、冷静に彼を観察する。 「何者、ですか? 人間ですよ。れっきとした、ね。ただ」  背筋を凍て付かせるようなおぞましい瞳が振り返る。 「形はないですね」  冷笑。  その笑みは、相手を見下したように圧倒的自分優位の笑みだ。まるで神にでもなったかのような傲慢な笑み。元の一海なら絶対にしない表情。 「それってどういうこと?」  千尋にはまったくその答えの真意が分からないでいた。  人間であれば形があるのは当然ではないか。腕も頬も身体も、触れることができる。形がある。形がないとはつまり触れることが出来ないもの、ということではないか。 「調べてみますか?」  難しい顔をする少女に救いの手を差し伸べるかのように一海でない一海は、握手を求めるときのように右手を差し出した。 (そんな……まさか……)  そんなことは物理的にありえない。一海の姿は、彼女の視覚がはっきりと捉えている。触覚に頼らずとも、そこに形があることなど一目瞭然だ。しかし、もし触覚が捉えることがなければ、それは形がないと言えなくもない。例えば水に形があるかと問われるのに近い。解釈の仕方によって形はあるともないとも答えられる。  右手は変わらずに彼女の前に差し出されている。  差し出された右手の主は表情を潜めており、何を考えているのか読み取ることができなかった。  普通ならありえない。  しかし、一海に対する秘密がそこにあるとすれば知る必要がある。これから良い友達として、そしてもしも惹かれあったときに、この不確定な存在を見過ごすことは、やはりできないのだ。  千尋は引っ込めていた右手を恐る恐る伸ばしていく。  万が一、虚像だったらどうすればいいのか、不安を胸に。  指先が触れるまで、あと5cm。  4cm……3cm……2cm……。  残りあと1cmに迫ったその刹那だった。  グラッと前のめりに倒れる少女の身体。 (え?)  視界が目まぐるしく変わり、地球の自転が一瞬で終わったかのような激しい眩暈に体勢を崩す千尋。  閉ざされた視界の変わりに全身を欹《そばだ》てる彼女の右手甲には人の手の温もり。腰をついた背後を抱き支える人影。そして、腰に回された細腕に彼女は自身のバカ正直さを呪うことになる。 「か〜わ〜い〜い〜。まさかこんな単純な手に引っかかっちゃうなんて、おじさん思いもよらなかった」  瞼を必死で持ち上げると覗き込むのは一海ではない一海の満面の笑み。 「騙したのねっ!」 「おやおや、おじさんは何も嘘なんか吐いていませんよ」 「馬鹿ッ! 形がないなんて嘘じゃない!」  千尋は全身を使って必死に振りほどこうとするが、抵抗を楽しんでいる余裕さえ見せる一海は、汗ばんできたうなじを頃合いとみて噛み付く。ピンと張っていた精神の糸を噛み切ってしまうように。  狙いは外されることなく見る見る千尋の力が抜けていく。  抵抗しきれない甘美な誘惑。それは、あの時から千尋の身体に埋め込まれた、おかしな信号だったのだ。 「嘘じゃないですよぉ〜。おじさん自体は形のないもの。見えないものです。もっとも、元々は形もありましたけれど。うっふっふ。でも、もう聞こえてないかな? いいですよ、むしろ考えないほうが身体は正直に踊るのですから」  急速に光が失われつつある瞳を満足げに眺める少年は、これから行われる宴に酔いしれるように嬉々とした表情を浮かべる。しかし、 「ま……って。まだ私……納得してない」  翳る瞳の奥底で輝く確かな光を見て、一海でない一海は驚きの表情を見せた。 「あなた……の……名前は?」 「うっふっふ。そんなものが必要ですか?」  千尋は自身の吐息に苦しみながら、それでも意志を持った言葉を紡ぎ出す。 「あなた……は、一体?」  少年の華奢な指先が、答えるかわりに力の抜けた右腕を撫ぜる。それだけで彼女の脈は一段と激しさを増し、お腹の底から熱が溢れ出し、全身に帯びていくのが分かる。頭の奥にまで痺れが駆け上ってくると建前も理性もかき消されてしまいそう。  信号の埋め込まれた千尋にとって、まるで抵抗できない魔術のような行為。  それは若さゆえ懸かり易い甘美な誘惑。 「考えないでイっていいのですよ?」  甘美な抱擁が後ろから加えられ、最後の枷は取り払われる……はずであった。 「だめっ……名前を、教えてッ!」  それでも千尋は最後の砦で持ちこたえる。 「何故そんなに拘るのかね? 名前など個体の情報を一つに例えただけの無意味なものと思うがね?」  力の抜けた彼女の右手を操り、自身の左胸へ被せてやると熱っぽい吐息が漏れる。 「そんなものより、大切なものはココにあるじゃないですか?」  制服と千尋の掌越しに膨らみを一度だけ弾く少年の手。  刹那、少女の腰へ砕けるほどの衝撃が走った。もう肢にも力は入らず、ぐったりとする全身を小さな少年の半身へと預けるほかない。もたれかかった華奢なはずの身体は、大人のようにしっかりと彼女を支えている。 「いやぁッ……はぅ……ぁ」  涙が零れた。  それが今の千尋にとって悦びのものであったのか、憂いのものであったのか考えることなど到底出来ることではなかった。既に頭の中にはどろどろとした乳白色の高波が何度も意識をさらおうと押し寄せてきているのだ。  触れた心臓は破れそうなほどのスピードで脈打つ。 「いいよ? 我慢しないで」  最後の貶《おとし》めと、千尋のファーストキスを奪ったときの微笑みを浮かべて、悪戯っぽく頬を舐めてやる。 「やぁぁ……ぁぁっ、ふぅ……ン……だめェ、名……めぇッ!」  嬌声に混ざってはっきりとは聞こえない。しかし、それでも名前と繰り返そうと膝小僧を擦り合わせながら必死で叫ぶ姿に、もう一人の一海は目を細め感嘆の声を漏らした。 「ほう。こんなに我慢強い女の子を見たのは、おじさん初めてだ」  小さな呟きは喘ぎ声を隠すことも出来ない千尋に届くことはないだろう。しかし、敬意を表して彼は名乗った。 「おじさんは柚彌。やまと大和 柚彌《ゆずみ》です、お嬢さん」  柚彌と名乗った一海でない者は、まるで好きな人に告白するかのように柔らかい表情で呟き、吐息を漏らす唇を長い|二度目の接吻《セカンドキス》で塞いだ。  唇が糸を引いて離れると千尋の瞳はとろんと潤んでおり、その表情は小悪魔的な艶を含んでいた。もうほとんど意識はないだろう。あるのは熱に浮かされた肢体と自然摂理の欲求だけ。  しかし、彼女は苦しそうな呼吸の中ではっきりと音を紡ぎ出した。 「ゆずみ……さん?」  瞳はどうしようもなく潤み、肌を一面に上気させ、汗に髪を張りつかせても、荒い息を吐きながら名前を復唱する少女。流石の柚彌もまさかと思ったのだろう。その言葉に唖然としてしまう。しかし、そんな彼に微笑みかける千尋は満足げだ。 「ゆずみさん」  微笑みながら抱きとめている主を見上げ、もう一度呼ぶ。  柚彌は答えない。瞳には鋭利な光りが戻ってきている。しかし、彼女は気にする様子もなく、さらに名を呼び続ける。  そして、柚彌も気付く。彼女の膨らみが彼女自身の掌によって形を変えていることに。支えていた甲を手放しても少女は動きを止めない。むしろ自由に動かせるようになり、その動きは徐々にエスカレートしていく。  左腕も解き放たれると彼女の双丘は己の両の手にそれぞれ侵略されていった。  名前が嬌声に侵されていくのも、間もなくだ。  柚彌は声を立てず嗤った。思ってもみなかった少女の行動も最終的な予定誤差の範囲内であったということだ。  千尋の右手を取り、脚の付け根へと導いてやると、上気した肌は一層薔薇色へ染まり、下からは絡み付くような水音が漏れ出している。煩熱した吐息からは艶冶《えんや》な声が溢れ出し、全身が時折引付けたように跳ねあがった。  そして、言い知れぬ開放感と幸福感に包まれた少女は、まるで魂が引き抜かれるような感覚に伴い、長く尾を引く悲鳴を上げた。 「うっふっふ、結構結構。可愛かったですよ? 杉並 千尋さん」  荒く息を吐いている千尋にその声は届かない。 「残念ながらそろそろ時間のようですので戻りますが、今度はじっくりと楽しませてもらいますよ。覚悟して下さいね、小さな探偵さん」  鋭い光りを宿らせた瞳は徐々に輝きを失い、支柱を失ったように小さな体躯が突っ伏した少女に覆い被さっていく。  そして、次の瞬間、優しい瞳の少年が千尋の背中で目覚める。 「あ、あれ? ボク……わぁッ!?」  千尋に覆い被さっている恰好に気付いて飛び上がって驚く一海。 「ご、ごめんなさい! ボク、あの……わ〜ん、どうしてぇっ!?」  立ち上がらない彼女を見てパニックを起こし、うろたえる少年。しかし、狼狽の悲鳴も千尋の微睡《まどろ》みを覚ますことは出来なかった。  外は、静かに雨が降り出していた。  *  ぼんやりとしていた脳が次第に覚醒していく。  蛍光灯の光が瞼を明るく照らすと夜明けに朝顔の花びらが開くように、少女の瞼《まぶた》が震えた。  見慣れた天井。白のカーテンが彼女を囲う。  少しだけ鼻に障る薬品の香り。清潔な白のシーツのパイプベッド。 「ここ……保健室?」 「おや、ようやくお目覚めかい?」  カーテンが開いて入ってきたのは、以前にもお世話になった校医の土井寿美だった。上半身を起こした少女へ、手に持ったコップを渡すと隣のパイプ椅子にどっかと腰を下ろす。 「今度はアンタかい。無理しちゃダメだって言ったろうに? ま、もっとも倒れた原因は、それだけじゃないようだったけど」  その言葉に飲みかけのコップを戻して俯く千尋。 (そう……だ。私、あんなコトを)  曖昧だった記憶が、一つのキーワードによって関連付けされ甦っていく。  一海の中に眠るもう一人の正体、柚彌。彼がもう一度現れたこと。その正体を暴く代償に、あられもなく乱れた姿を曝してしまったことも思い出す。 「ま、誰しも経験することだ。悪いことだなんて言うつもりもないけど、場所はわきまえた方が身のためだよ。何にも知らない坊がアタシを呼んでくれたからいいものの、悪たれにでも見つかっていたら事だ」  思春期の性に理解があるのも生徒に好かれる理由なのだろう。詮索はせずにアドバイスだけを与えるところも一人の人間として尊重している優しさだ。  少女は小さく頷くことしかできない。 「なにか相談があるなら、遠慮なく言って頂戴。アタシは神様じゃないからね。言葉にしてくれないと、どんなことに悩んでいるのか分からないから」  紅の差した少女の頬をそっと撫でる校医の手は温かく、慈しみの優しい眼差しであった。千尋は、その安らぎに危うく一海に起こった異変を話してしまいそうになる。しかし、彼女たちは誓ったのだ。他の誰にも一海の異変について話してはならない、と。  吐き出しそうになる言葉をぐっと飲み込み、少女はお礼早々に立ち去る。  封じこめていた心がざわめいていることに彼女は気付いていた。  一刻も早く一人にならなければ。そんな思いがリノリウムの床を急がせる。ゲタ箱に上履きを捻じ込み、黄色のラインが入った運動靴を突っ掛けると、もう脚は走り出していた。  霧雨の中庭を傘も差さずに突っ切り校門へ急ぐ。  肩に掛けた鞄が跳ねて背中や脇腹を打つ。しかし、そんな小さな痛みなど今はまったく気にならない。  気になるのはまだ幾許《いくばく》も走っていないのに上がる息。苦しくなっていく呼吸。早鐘を打つ心臓の音。瞳を開けていられないような冷たい風に瞬くと視界が滲んだ。  それでも今は走るしかない。千尋は顔を伏せて、苦し紛れに首を振りながら一心不乱に駆けていく。  その時。 「きゃっ!」  衝撃。  彼女は正面から何かにぶつかって弾き飛ばされてしまう。  首を振って顔を上げた少女の瞳に映るのは、同じように弾き飛ばされて「イタタ」と尻餅をついている少年の姿。  それは見間違えようもない。前髪の張りついた愛らしい小柄な少年。 「一海……くん?」 「うん。あのね、土井先生には先に帰れって言われたんだけど、杉並さんが心配だったから。その、ここで待ってたんだ」 「ここで?」  校門前。確かに生徒ならここで必ず鉢合わせすることになる。反面出てくる生徒の好奇の視線に雨の中、一時間以上曝されたことは明白だ。  一海は決して目立とうとしない、否、目立つことを恐れているような少年である。そんな彼が、一人の大切な人として、杉並千尋という少女を心から案じた真実。 「でも良かったぁ、元気そうで」  未だ地面にへたりこんでいる少女に、胸の痞《つか》えがおりたように微笑んで手を差し伸べる一海。  その何気ない微笑みと右手が彼女の心を締めつける。  一度は伸ばそうとした手を胸へと引っ込めた千尋に、少年は、自分の行動の大胆さと勘違いしてしまった。 「わぁっ! ご、ごめんなさい。うりゅぅ。こんなコト恥ずかしいよね」  火が出るほど顔を真っ赤に染めて、慌てて手を引っ込めようとする。しかし、気を遣えなかった自責の念に囚われて、その動きは緩慢だった。 「待って!!」  だからこそ、彼女の全てを吐き出すかのような叫びにピタリと動きを止めることができた。  静かに二人の呼吸が重なったとき、少女はようやく瞳を上げる。  目尻には涙が零れそうなほど湛《たたえ》えられており、ゆっくりと一海に向かって差し出した右手は小刻みに震えている。それでも懸命に微笑もうとする口元は、ぎこちなくて…… 「一緒に・・帰ろう?」  今にも泣き出しそうな引き攣った声。  みっともなくて恥ずかしい声。  そんなことは分かっていた。けれど、これが今の彼女の限界なのだ。張りつめた心は破裂する寸前で、涙をこら堪えていること自体が奇蹟なのだ。  だから、少し照れた少年が少女を抱き起こしたときに溢れた涙は、戸惑いも不安も恐怖も、嫌な思い全部を押し流すためのものだったのだ。  霧雨がそっと彼女の涙を隠していく。  *  自宅まで送ってもらった千尋は、一海にお茶を勧めたが、少年は申し出をやんわりと断った。 「明日は大切な発表会でしょう。今日はゆっくりと休んだほうがいいと思う」  大切に思ってくれること。その事実が嬉しかった。  しかし、家に入ると今日に限って誰もいないのが淋しい。普段なら弟と妹が騒がしく駆け回っているのだが、キッチンのコルクボードには母の走り書きのメモが留められている。 ── 千尋へ  麻里香と晃ちゃんと一緒にお買い物に行って来ます           お母さんより ──  共働きの母が、早めに帰ってきたのだろう。この地域では、おおよそどの家庭でも明日からお祭り騒ぎだ。ご馳走を用意するための食材探しに没頭している姿が目に浮かぶ。  いつも夕飯を作るのは、彼女の役割であったが、この日ばかりはゆっくりできる。 (少し冷えちゃったし、先にシャワー浴びちゃおう)  特別にやることもなくなった千尋は浴槽に湯を張り、濡れた制服を乾燥機へ放り込む。 さらに少しだけ湿っている下着が気持ち悪い。 (ここは念入りに洗っておかないと)  柚彌の幻をかき消すように、熱いシャワーを浴びながら彼に触れられた部分を念入りに薬用ソープで泡立てたスポンジで洗い流す。  湯船に鼻まで身を沈めると研ぎ澄まされていた神経が弛緩していく。一つ大きなため息に水面が泡立った。 (なんか……色々あったな)  千尋の脳裏に浮かび上がるのは、この一ヶ月間の記憶。  洋奈と親友になれたあの日に出会った可愛い少年は、噂と謎に包まれた不思議な存在であった。  ファーストキスを奪われたあの日、彼女たちは、不確かな一海とは違う狡猾な一海の存在を認め、真実を解き明かそうと誓った。  そして、友達として付き合った一海は少し臆病だけれど優しくて、その微笑みがとても素敵な少年と知る。  しかし、やはり彼には隠れた狡猾な存在がいた。名は大和柚彌。少女の二度目のキスを奪い、一海への告白を打ち消した張本人。 (アイツさえいなかったら、今頃私は……)  どうなっていたのだろう。  その問いを脳裏に繰り返したとき、体温が急激に落ち込んだかのような寒気に囚われて半身を湯船から上げる少女。しかし、そこで反対の考えに思い至る。 (凄くドキドキしてる)  激しい動悸に全身が火照った所為で、湯船が冷たく感じたられたことを悟った千尋は、風呂を焚き直し、再度、泉に頭まで潜り込んだ。 (私、告白したんだ)  その行為自体は、柚彌が現れたことにより意味を成さなくなっていた。しかし、千尋が一海に告白したという事象そのものがなくなったわけではない。  背中に抱きついて、好きと言ったあの瞬間。期待と不安が綯い交ぜになった切ない感情。 (カズミのバカぁ。私、あのときすっごく恥ずかしかったのに)  一世一代の思いの丈を聞き流されたことに、やるせない気持ちが湧き上がる。 (あのときは今よりもっとドキドキしてたんだよね?)  心臓の音を直に確かめようと右手を左胸に重ねる。  その鼓動の音の大きさに驚き、少女は身体を跳ね上げた。 「ふぁっ! あ……れ?」  朦朧とした視界に逆上《のぼ》せていることを自覚した少女は、這い出るように湯船から脱出し火を消した。  荒い息を吐きながらタイルに凭れ掛かるとひんやりとした感覚が背中から伝わる。 「気持ちいい」  目を閉じてしばらく身を任せ、気が付いたようにソープを手に取る。 (そういえば……キスされた唇、洗ってなかったな)  指先で縁取りを撫ぜると弾けていく泡の異なる温度が少しくすぐったくて気持ちいい。続いて項を撫でると流れ落ちていくバブルが連鎖的に快感を運んでいく。次第に彼女の背筋から後頭部へ向かって痺れが駆けあがっていく感覚。  それは双丘の先端を弾いた刹那、一斉に押し寄せ始めた。 (あっ、やん……はっ、あ、あれ……私)  理性が異常に気付くが既に遅い。  自然に動き出した両の手が自身の肢体に触れるたび、全身を熱に支配されていくのが分かる。 「ぁ……うぅっ……はぁん!」  開いた口から漏れ出す自分でも信じられないくらいの甘い声に彼女は慌てて唇を噛んだ。しかし、鼻から啜る空気の荒い音に彼女は真っ赤になる。 (やだ、どうして? 止めたいのに……やぁっ。とまら……ないよぉ)  自分の意思と反して動く指に恐怖を覚える千尋。  分からなくなっていく。  自分はどうしたいのか? この指を止めたいのか? それとも別の何かを求めているのか?  まるで、杉並千尋という名の鍵盤を弾くかのように、計十本の指たちが意志を持って戯れる。その度溢れ出しそうになる声は艶やかなピアノを連想させた。光の弾けそうな衝撃に堪らず彼女は声を上げる。  その内に全身が少女の意志から離反していく。  擦り合わせていた膝小僧も、耐えるように丸くなった足の指たちも、張りつめていたふくらはぎも受け入れるように力を抜いていくと、少しだけ彼女の太股の間に隙間が開く。  若さゆえ、甘い惑乱に抵抗できる理性など欠片も残っていない。  脳裏に浮かぶのは大好きな少年の微笑みと、千尋よりもきっとか細い指先。  しかし、しなやかに伸びてくる指先が、待ち望んでいた甘い蜜を滲ませるスリットに触れたとき、脳を侵して切り替わり現れるのはまるで悪戯っ子のような淫蕩な指先。 (ココをこんな風に弄ってあげると……うっふっふ。本当に気持ちイイんだね? 可愛いお口が開きっぱなしですよ) 「やぁぁ……そんなコト、いっちゃ……はぅン」  脳裏に響く淫靡な台詞に身体を揺すって否定するも、その姿は悪戯っ子たちに綻び始めた花を弄ばれて悦んでいるようにしか見えない。 「違ぅ……私は、カズミが好きなのにぃ」  しかし、抵抗すれば抵抗するほどに実体のない姦凶に繋ぎとめられる。もう彼女の瞳には、偽りの一海しか現れない。性に目覚めて間もない少女には到底卑猥な感情を使役する余裕などなく、夢魔の囁きを受けて幾度となく高波にさらわれることしか出来なかった。 chime5  文化祭当日の朝。  目覚めた千尋の気分は最悪だった。  胸の奥がシクシクと痛み、こめかみが締めつけられる思いだった。風邪なんかではない。身体の変調ではなく精神の瓦解。  惨めさに泣き出してしまいそうだった。  そんな彼女の心を映し出したかのようにカーテンを開けば暗雲が立ち込め、雨は昨日より激しく降り続いていた。  学校に着いても雨が止む気配はない。  北斗たち、そして彼女も手伝った手間隙かけて創ったデコレーション品や展示物が悲しい涙色に染まっている。  降り頻る雨の中、来校する人はわずかだ。  この調子では午後の発表会の時間になっても大した集客は望めないことは明白だった。確かに緋須那中学に負けていないかもしれない。しかし、それも大勢の感想を寄せてくれる人たちがいてこそ誇れる勲章だ。  クラスメートに頼まれた午前中の受付役。  誰も来ない入口を受付のテントから眺めていると、やるせない悲しみに打ちひしがれる。 (あの皆の努力はなんだったの?)  どうにもならない怒りと悲しみが溢れ、望んで応えた受付役を離れた。  二年の先輩はだれも来ないからといって怒るようすもない。  明るい光を求めるように、千尋の足は彷徨《さまよ》った。  しかし、どのクラスも同校の生徒が見て回るぐらいの閑散とした光景が広がるだけ。  一生懸命に準備されたはずの備品も景品も考察もスタッフも、どれも元気がないように見えてしまう。  やりきれない悔しさと惨めさと諦めを含んで千尋が受付に戻ろうとしたときだった。体育館から歓声があがる。 (体育館って……今の時間は休憩所のはずだけど?)  実行委員の手伝いに積極的だった千尋の頭の中には、おおまかなスケジュールやマップができあがっている。この時間の体育館は彼女の記憶では椅子と座布団が並んでいる飲食自由の休憩所のはずであった。  ならば、あの歓声は何なのだろう。  全てを諦めかけていた少女を引き寄せるのに賑やかな歓声は充分だった。  体育館の重い扉を開けると、そこは何だか温かい場所のように思える。  午後にはここで合唱部の発表が行われるはずの場所。  客席を満員で埋める気持ちが漂う場所。  そこは、今は舞台を使った一芸大会が披露されていた。  次がちょうど北斗の番で一海を引き連れてコテコテの関西漫才を披露している。受けがそれほどいいわけではない。それでも舞台を降りてからでも二人は笑いあっていた。  他の一芸も決してよく出来たものではない。むしろ即興でなんとかしましたという感じの強い一芸ばかりだ。しかし、ほとんど全員が舞台を降りた後、笑っている。  千尋には理解できなかった。  そんな立ち尽くす千尋の肩を叩く北斗。 「ねぇ、どうして皆笑っていられるの?」  千尋は顔を背けたまま友に尋ねる。笑顔を見てしまったら、惨めに泣いてしまいそうな気がしたのだ。  北斗はそんな千尋に気付いたように、決して顔を覗き込もうとはせずにそのまま言った。 「んなもん、後悔しとうないからに決まっとるやろ?」 「えっ?」 「起こったことをクヨクヨしてもしゃ〜ないやろ? 大事なんは今何ができるか〜とか、何がしたいか〜ってことやろ? せやから」  その後ろから一海も現れる。 「自分だけは自分の味方でいて欲しいから。だから、舞台に上がる条件は一つだけなの」  指差した方向に見える看板は大きくこんなことが書かれていた。 ─自分自身で誉められる芸をお持ちの方─ 「これって誰が考えたの?」  看板から二人に向き直る。しかし、既に根っからの関西人は姿を消していた。 「北斗クンなんです。どうしても漫才がやりたいからって。昨日やることあるっていってたのはコレのためだったんですよ」  一海は少し笑いながら「しょうがないよね」と舌を出した。  その言葉を聞いて、千尋はようやく理解した。自分自身を囚えていたものの正体を。 「ねぇ、一海くん。あの舞台に私と立ってくれないかな?」 「え? ボク、何にも出来ないけど……いいの?」  千尋はそれでもいいと頷き、二人で舞台へと上がる。  マイクを取り一海と向かい合う千尋。  一つ大きく息を吸い込む。 (後は度胸と覚悟と脳裏に浮かぶアカペラのメロディだけ!)  紡がれた声は楽器に敵うようなメロディはない。しかし、どこまでも純粋に心を奏でられる楽器だ。 あなたに どれだけ 傷つけられたのだろう 気付けば 泣き顔 雨に抱かれて震えて 血塗られた過去 湧き上がる憎悪 希望という光より 生れ落ちた影よ まるで同一 そして無二 分かつもの それは 一体何なの? 限りある時間 前向きな思想 迷いなき信念 痛み 悲しみ 囚われて 笑い 喜び 抱きしめて いつか わたしも あなたを 救うよ heal U SONG  これほど心から歌を唄ったのは千尋にとって初めてだったかも知れない。  音感も音程も気にせずに。  心のまま激情に任せて。  歌詞のままの感情を唄った。  傷つけられた、怒りと悲しみを。  迷走していた、弱さと悔しさを。  そして、それでも憎みきれない人に対する本当の想いに気付いた今。  千尋は唄った、あなたを救うと。  自分の気持ちを、あなたを癒すと。  その一瞬だけ向かい合った少年の瞳が揺らいだ気がした。そして、口元だけが微かに動く。  柚彌が嗤ったような気がした。  否、嗤ったのだと。柚彌にこの想いが伝わったのだと千尋は絶対的な確信を持った。 (言った言葉は分からない。でも) 「たとえ触れられなくても、たとえアナタが望まなくても、私はアナタを救って見せるから! 私はアナタが好きなんだからッ!」  刹那。  体育館を揺るがす大歓声。静まり返っていた体育館が千尋の言葉を待っていたとばかりに弾けた。  その台詞が曲の最後の台詞だったことに千尋が気付くのは、全身を真っ赤に染めた一海が、踵を上げてキスしてから数秒後のことだ。  ハッピーエンドを祝福するかのように昼から雨は上がる。  いや、それは違う。  ここからが千尋の本領発揮だ。  この一ヶ月間を噛みしめて、彼女は唄う。  覗きはじめた青空と恵みを与えた神様に。  彼女を中心に那後中合唱部は大きな声で謳《うた》うのだ。  第二章 味《み》を護るため素を殺ぎ落とす者 chime0  あの子がボクを見て「たすけて」と叫んだ。  空はどんよりと曇っていた。とても寒い場所だった。  ボクは何も出来なかった。だけど、胸の奥底に何かグラグラと煮えたぎるものが生まれた。  地面を朱《あか》く塗りつぶすと鉄錆の匂いがボクの鼻をついた。  泣き崩れるあの子をボクは抱きしめた。  だけど、あの子はボクを突き飛ばした。  どうしていいのか分からなくなった。  夢中だった。  ボクはその時ようやく気付いた。  胸の奥底に生まれた者の正体に。  悪魔の存在に。  気付くのが遅かった。  もうその時には縋って泣くことしか出来なくなっていた。  怖くて、自分の手足さえ動かすことが出来なくなっていた。 chime1  雨上がりの午後から那後中、そして緋須那中の文化祭は、共に大盛況のうちに幕を閉じた。市民の皆はもとより、毎年の恒例行事として訪れる観光客の数も上々で休憩所や喫茶コーナーは常時満員で、展示やプレイスポットでは大きな歓声が絶えることなく続いた。  しかし、もっとも歓声を呼んだのは午後の体育館で行われたミュージックフェスタであろう。今、首都圏で活動中の駆け出しインディーズバンドの生演奏を皮切りに軽音楽部員たちのグループライブに教師たちによるミニ・オーケストラ。果ては洋奈たちの担任までもが不良と形容するのに相応しいアニキの著名楽曲をアコースティックギター片手にカヴァーする。  そして、合唱部の美しい調べが幕を閉じると盛大な拍手と歓声が沸き起こり、千尋と洋奈は今までの練習の成果を認められたことにうっすらと涙を浮かべていた。  そして、充実した時間はあっという間に過ぎ去って。  晩秋の秋空が少しだけ淋しい色合いを醸し出す閉園の時間。しかし、片付けの時間になっても緋須那祭の熱気は少しも冷めるようすもなく元気な生徒たちの声が校舎に木霊していた。  中でも別段騒がしい一角が教室校舎の廊下を響かせて移動していく。  合唱部の反省会を終えて教室の片付けを手伝っていた洋奈は「一体何の騒ぎかなぁ?」と何気なく廊下へ顔を覗かせた。  その先頭には見慣れた顔。 「え〜ん……どうしてこうなるのー!」 「ブツクサ言わんで走らんかい! 捕まるやろ」  顔を苦悶に歪めながら一番前を走ってくるのは、少女のように可愛らしい少年。斜め後ろには、彼の親友の姿も見える。そして二人の殿《しんがり》を務めるのは溌剌とした何事にも一生懸命な少女。 「ヒロー、半分タッチ!」  何事かと戸惑う洋奈に、彼らを制す時間はない。代わりに親友から差し出された手を反射的に叩く。  するとどうだろう。三人を追っていた大群は二つに分かれ、半分が洋奈を取り囲むように教室に押し寄せてくるではないか。 「御潟さん、親友である杉並さんの行動について今の心境を一言!」 「杉並さんと大和くんが付き合っていたことはご存知だったのでしょうか?」 「そもそも二人は付き合い始めてどれぐらいなんですか?」 「なんとか言って下さいよー」  包囲した生徒たちの腕には、校章入りの腕章が輝いている。それは間違いなく那後中放送部のものである。しかし、彼らの質問は何も知らない眼鏡の少女にとって、まったく意味が分からなかった。ただただ押し寄せた人の波に驚き、金魚のように口をパクパクさせることしか出来ない。  そんな彼女に業を煮やした放送部員の一人が声を荒げた。 「ですから、杉並さんと大和くんのキスについてどう思いますか?」  その言葉が終わるや否や教室一帯から水を打ったように音が消えた。まるで、誰の耳からも聴覚が奪われてしまったかのように。  しかし、それも脳が言葉を噛みしめる頃には回復する。 「えぇぇぇぇっっっ!!」  満場一致で解き放たれた驚号は教室を突き抜けるほど膨張、破砕し、その場にいた全員が耳を押さえて蹲ることになるのだった。 chime2  色恋沙汰に敏感な中学生にとって噂が広まるのはあっという間である。  恋愛基礎のA──すなわち始まりともいえるキスの魔力に鼓動を高鳴らせてしまうのも無理ない話だ。そんな昂揚感に浮かされた者たちから罪のない噂は創られる。  しかし、噂にあまり尾ひれがつかなかったのは、放送部が校内新聞号外に事の次第を詳細に書き記したからであろう。  結局、緋須那祭後の集団鬼ごっこは数に勝った放送部員たちの包囲網に捕らえられ、事件の真相は全て明るみにされてしまったのであった。  よって、全校生徒公認のカップルとして一海も千尋も人とすれ違う度に冷やかしを食らう羽目になってしまう。  これでは根も葉もない噂にかき回されるのとどちらが幸福だったか微妙である。  ともあれ、緋須那祭から数日経った放課後。  髭親父イラストが目印のドーナッツショップにて四人は久しぶりに内密の談合に成功した。  流石にこれ以上のゴシップは遠慮願いたいところからだろう。 「もー、どうしてこうなっちゃうのかなぁ」  そんな状態に開口一番文句を言うのは、縁なし眼鏡の少女、洋奈であった。  しかし、親友からは何も告げられず、事実だけを後から知らされる恰好になった彼女から不服を申し立てられるのは、仕方のないことだ。 「ゴメンね。ヒロ」  そのことには千尋も素直に申し訳ないと思う。なにしろ彼女は洋奈から一海に対して受けた警告を結果的に無視して、危うく貞操を失いそうになった経歴があるのだ。  洋奈が親友を想う気持ちを知っていながら、一海の危険要素を認め、付き合うというのは、彼女の思い遣りを裏切ることになるのかも知れない。  そんなことを考えているうちにもう一つの裏切った行為を思い出した明朗活発な少女は、後ろめたさとも恥ずかしさとも分からない感情に目を伏せた。  千尋は三人の盟約を既に破ってしまっている。  一海に起きた違和感は逐一報告すること。  そう誓ったのに、彼女は体育祭の後に現れた一海の危険分子──柚彌の存在を二人に話していなかった。  それは、起きた事象がとても人に話せない所為もあるし、多忙だった所為もあるだろう。しかし、言い訳に過ぎないことを千尋は頭の中で噛みしめる。  何故なら、彼女は一人の女として一海を救いたい、愛したいという独占欲に気付いていたのだから。  そんな小さくなった千尋を庇うように、まるで彼女の父親に婚約を申し込むときのような瞳でおどおどと、消え入るような声を紡ぐのは頬を染めた一海だ。 「違うの。杉並さんは悪くないんです。ボクがその……しちゃったから」  しかし、この一言が更に洋奈の逆鱗に触れた。むしろ親友の行動の非難が、当問題の発端からフォローされることとなれば、それも当然のことだろう。 「だからぁっ! どうし……むぐぅっ!」 「まあ、起こっちまったことをとやかくゆうてもしゃーないしな」  洋奈の横に腰掛けた北斗は、おおよそ分かりきっていた展開に慌てることなく、眼鏡の少女の口に手を翳し、言葉を遮った。  恨めしそうな少女の視線が痛いが、この際無視することにする。  結局、一海が席を外した隙に北斗は、偽りの友人を演じていることを自白しそうな洋奈をドーナツ三つで買収し、大人しくさせた。  その後、四人は大成功の緋須那祭の話しに始まり、迫りくる期末テストの話しや趣味の話しに花を咲かせた。そして、夕暮れが近付いたとき北斗が思い出したように口を開く。 「せや、テスト終わった後のスキー合宿って聞いとるか?」 「希望生徒に緋須那高原スキー場のリフト券と合宿場提供っていうあれだよね?」  緋須那市立の中学校には緋須那祭会場提供のお礼として、毎年この時期にスキー場への招待券が送られてくる。学校側としては体育の授業の一環として積極的に取り組みたい意向を示しているが、一つ間違えば遭難や大怪我に繋がる事故が考えられるスキー合宿は未だ保護者などからの反対意見もそれなりにある。よって、保護者の承諾を得た希望生徒かつ四人以上のグループ行動を原則としている。  二人の表情や声には待望という表現が一番しっくりくる。  北斗は昨年まで関西の中心にて育ったため、親が忙しいこともありスキーはこれが初体験。千尋といえば毎年十数回は、滑りに行く生粋のスキーヤーと対称的な存在であったが、青と白のストライプに憧れる者同士ということに変わりない。 「でもぉ、緋須那中と合同でやるんでしょ〜? 洋奈そういうの苦手だしぃ〜、スキーも嫌いぃ〜」  ところが洋奈は合宿に否定的だ。  それもそのはず。マイペースでおっとりとした性格に反映されてか、彼女の運動神経は、標準よりかなり下回っている。その実力は、筆記テストで盛り返してなんとか5段階評価中の2《あひる》を付けてもらっている程度しかない。好き好んで雪ダルマになりたい女の子などいないのだ。 「え〜? 合同合宿っていってもグループごとに部屋は分けてくれるんだから、そんなの気にならないはずだよ!」 「せや! 合宿っちゅうても結局は遠足みたいなもんなんやで。遊びに行くだけやないかい」  もちろん、二人にも彼女の言い分は分かっている。しかし、先にも述べた通り合宿の規則として四人以上のグループ行動が必須となれば、千尋たちにとってもただで引き下がるわけにはいかなかった。  波状の説得攻撃で畳み掛け、何としても大きなリボン少女に首を縦に振って貰わなければならない。二人は阿吽の呼吸で洋奈に襲いかかった。 「それに、せっかく無料で滑れるのにもったいないよ!」 「せや!せや! タダより安いもんはないんやで!」  正式な使い方も意味もまるで違うが、この際押しの一手としてのノリを大切にする。  ツッコミはなかった。 「でも、大和くんだって行きたくないんでしょ? だったら洋奈だって行きたくないよぉ!」  大きな空色のリボンで結った黒髪を揺らしてイヤイヤをする少女の声に二人は、一番突かれたくない部分を突かれてしまった。なぜなら洋奈の言い分は千尋たちの本音を映し出した鏡であったのだから。  洋奈の運動神経に輪をかけて劣る一海をスキーに直接誘うのは難しいと判断したからこそ、先に洋奈を懐柔して断り難くしたかったというのが本音だ。  親友として、彼女として一海と旅行に行くという楽しみを分かち合いたい。  だから、ここで怯んでしまっては目的を放棄するも同じだ。千尋たちは最後の望みを本人に託して、反対に洋奈は同意を求めるように少年を見つめた。  ところが、目下の少年は、三人のやりとりに気付いていない様子でコップに入った水を呆然と眺めていた。 「一海くん?」  隣にいた千尋がいち早く異変に気付く。  俯いた表情に感情が表れておらず、瞬きさえせず眠ったように動かない少年。三人の脳裏を不安が掠めていく。 「ど〜したのぉ?」 「お、おい。カズ、どないした?」  その不可解な一海に体育倉庫での一海を重ねてしまうのは、被害者である千尋だけでなく、親友である北斗も本当の姿を知ろうとする洋奈にも通じた。  あの時もそうだった。  死んだように微動だにせず、大きな声で呼びかけても無反応。そして、次の目覚めと共に何かが変わる。  一海が顔を上げ、張りつめた空気に息を飲む三人。 「スキー……かぁ。ちょっとだけ怖いかなぁ」  しかし、優しそうな眼差しは照れたように伏せられていて、紡がれた言葉は普段と変わらない少しだけ気後れした様子。それは、間違いなくいつもの一海であった。 「な、なんや。その怖いっちゅうのは?」  一同があっけに取られて呆然と少年を見つめる中、辛うじて抜け出した北斗が言葉を発する。 「うん。それがよく分からないんだけど、なんだか一度スキーをしていて怖い目にあったような気がするの。だけど、ボク、スキーに行ったことも覚えてないからずーっと昔のことかもしれないなぁーって」 「そっか。スキーって油断すると大怪我したりするもんね」  準備運動不足による捻挫や衝突による打身、骨折など華やかな裏にいくつもの危険が隠されているのがスキーというものだ。上級者にコース条件が揃えば、およそ一般道を走る車と変わらないスピードが出るのも一つ間違えば大事故に繋がる要因だろう。  しかし、その危険度を頭の中に置いていてもウインタースポーツの花形は輝きを決して失わない。透き通った蒼天の風、白銀のシュプール、静寂を駆け抜ける疾走感。  多くの人が魅せられて今年も山へ足を運ぶのだ。 「でも……怖いけど、みんなと一緒なら行ってもいいよ」  それは、確かな変化だった。  人付き合いの苦手な一海にとって自分の意見をはっきりと言葉にすることはとても大変なことなのだ。人を傷つけることに誰よりも臆病な少年は、自分の意思を表現することにより、誰かを傷つけてしまうのではないかといつも気を遣っている。  しかし、北斗と親しくなり千尋と付き合い始めた彼に少しずつ自信を持てる余裕が表れてきたのかもしれない。 「ほんまか! よっしゃ、スキー合宿決定やな!」 「ほら、一海くんもああいっていることだし、ヒロも一緒に行こうね」  こうなってしまっては洋奈だけが断るわけにもいかなくなる。まさかが本当になってしまった洋奈は、大きく落胆のため息をついた。 「もー、どうしてこうなっちゃうのかなぁ」  *  晩秋の夕暮れは短い。ドーナツショップで皆と別れて幾許も経たぬ内に、憧れるぐらい長身の影は身を潜め、代わりに照らし始めた多くの光源が少年の影をいくつもに分かつ。  一海は本屋に寄るために一本脇の道へ入った旧商店街を進んでいく。今では主要の商店街は駅前のアーケード街へ移っており、旧街道沿いの商店街は、小さな個人商店のみが軒を並べるに至っている。街頭は備え付けてあるのだが、長い年月の経過と整備不良により消灯してしまっているものもある。まるで急速な高度成長の爪痕のように捨て去られた雰囲気が、疎らに広がる闇と相俟って寂しさと切なさを運んでくる。そのため、こちら側の利用者は極めて少なく、人見知りをする少年にとっては案外居心地の良い空間でもあった。  そんな場所であるから肩を叩かれても一海は錯覚と思い込んでしまい、歩みを止めなかった。次の瞬間、驚くほど強烈な握力で華奢な肩を握られた少年は悲鳴も上げられず振り返る。  そこには見知ったはずの少女の姿。 「ちょっとだけ、お話しいいかな?」  はずとしたのは、少年にとって彼女の姿勢が普段と少し違うように感じられたからだ。  姿形の違和感ではない。少し垂れ目の瞳も大きな縁無し眼鏡も後ろ髪を束ねる空色のリボンも、少し前に別れた彼女そのままだった。  しかし、危なっかしい後輩と喩えられる雰囲気が今の洋奈にはない。眼差しは、まるで真剣のように研ぎ澄まされ隙がなく、先ほど紡がれた言葉にも有無をいわさぬ迫力があった。  そして、ふっくらとした太股は、いつになく機敏に動き、近くの喫茶店へと向かっている。まるで別人のような少女に戸惑いながらも一海は恐る恐るその背中を追った。  ドアに括り付けられたカウベルが鳴り、カウンター奥の扉から精悍な顔付きの中年男性が顔を出す。 「いらっしゃい。おや、御潟のお嬢じゃないか」 「お久しぶりです、マスター。カフェ・オ・レ二つ淹れて」  どうやら二人は顔見知りのようだ。洋奈は、気後れしている一海をほどよく暖の効いた店内に招き入れると学校指定の紺色のコートを脱ぎ、丁寧に折り畳んで椅子にかけた。  照明はそれほど明るくなく、ムーディなジャズが彩る店内は喫茶店というよりバーのイメージに近い。実際、カウンター奥の棚には数多くのワインやスピリッツのボトルが並んでいる。 「そっちはカレシか?」 「違うけど、できれば席を外してくれませんか?」  生クリームたっぷりのカフェ・オ・レを運んでくる際に放った何気ない冷やかしに、洋奈は普段の甘い声からは想像もつかない、突き刺すような棘のある応対をする。 「どうした? 随分余裕のない返事じゃないか」  そんな彼女に気を揉んだマスターへ、追い討ちをかける一言。 「別に? ただ二人っきりで話しがしたいだけ」  まるで、別れ話を切り出した男に食ってかかる女か、もしくは浮気の現場を目撃して問いただす女といった形相に、やれやれと大息をつくマスター。その眼に憐憫の思いを込めてすっかり萎縮してしまっている少年を映す。  一海は視線に気付いたようだったが、これ以上機嫌を損ねないためだろう。何のリアクションも示さなかった。 「わかったよ。奥に行くから他のお客さまに迷惑にならん程度に頼むぞ」 「こんな辺鄙《へんぴ》なところまでお茶しにくる人なんていないくせに」  背を向け奥へと歩き出したマスターに静かな罵倒が浴びせられる。しかし、マスターが一つ文句を言ってやろうと振り返るときには、既に彼女は一海だけを注視していた。  タイミングを逸したマスターは大人しく引き際を心得て厨房へ姿を消した。実際、今の時間帯にくる客など滅多にいないからこそ、洋奈たちが訪れたときに厨房から顔を出したのだ。 「カズくん」  マスターが奥に消えるのを背中で確認したように、少女は少年の名を呼ぶ。  当然、一海は驚いた。今まで「大和くん」と呼んでいた少女が急に名前を、しかもニックネームで自分を呼ぶとは思いも寄らない。彼女の千尋でさえ、未だ「一海くん」というのに、友達の方がいきなり懐に切り込んできたのだ。慌てないはずがなかった。  言葉にならない不器用な音階に導かれるように洋奈は、後ろ髪を結っている大きな空色のリボンを引っ張った。同時にしゅるりと衣擦れの音を立てて髪留めが一枚の長い布へ変わると、ふわりと靡いたロングの黒髪から蜜花の香りが漂う。 「教えて欲しいの。カズくんのコト」  少女は一海の瞳を覗きこむように首を傾げてコケティッシュに微笑んでみせた。しかし、縁なし眼鏡の奥に潜む瞳の色は、真剣そのものだった。  可愛さのベクトルこそ異なるが、洋奈も千尋と同じぐらい魅力的な女の子だ。千尋を元気一杯に走り回る子犬と喩えるなら、彼女はさながら甘えん坊の子猫といったところか。角砂糖のように甘い声は時折、幼女のような舌足らずさを含み、思わず抱きしめてしまいたくなるほど可愛らしい。  誰だって見つめられて嫌な思いはしないだろうし、お願いを断るには相当な罪悪感を持たされることになるだろう。 「う、うん」  優し過ぎる一海にとって断ることなど出来るはずもない。見つめられて真っ赤になりながら視線を逸らして頷く。 「ほんと? じゃぁ、最初にカズくんの自己紹介をしてよ」 「自己紹介?」 「だって、洋奈たちってあんまりお互いのこと知らないよね。ちーちゃんとふっきーのことは知ってるけど、カズくんとはゆっくりお話ししたことなかったから」  洋奈の言い分ももっともだった。  二人がお互いのことを知り得たのは北斗に紹介してもらったあのときの一度きり。何度も接触の機会はあった。しかし、そんなときに限ってどちらかが忙しく、互いの情報を交換することも出来ずに友達という曖昧な関係に居着いてしまっている。  相手のことをほとんど知らないというのに、過ごしてきた時間という物差しだけで友達と本当にいえるのだろうか。 「そう……だよね。うん、分かった」  一海もそんな関係を払拭したかったのだろう。本当の友達になるために彼は頷いた。 「えぇっと、名前は大和一海です。誕生日は2月11日で血液型はA型。それから……」 「小学校は何処だったの? この辺りじゃないよね」  那後中に入ってくる生徒は、入学前に転校してきた生徒を除けば、二つある小学校のいずれかになる。一つは千尋の出身校であり、もう一つが洋奈の出身校だ。 「うん、中学校へ上がる前に引っ越してきたの。和島小学校って言ってね、小さな島に一校だけある小学校なんだ。全校生徒を合わせても10人もいないんだよ。だから、この学校に初めて来たときびっくりしちゃった」  過疎化が進む地方の小学校にはよくある話で、先生と生徒が二人きりで授業をするというのも珍しくない。そんな少年がいきなり150人以上の同学年の生徒を見れば驚くのも無理ないだろう。  嬉しそうに語る一海を少女は、まるで心の中を見透かさんが如く、片時も逸らさずに見つめている。 「じゃぁ、カズくんはその島で生まれたんだ」 「それは」  変化があった。今まで照れながらも饒舌に話してくれていた一海は、急に目を伏せて沈黙してしまう。 「どうしたの?」  無論、洋奈も彼の変化に気付く。しかし、ただ生まれた場所を聞いただけで、どうして口篭もることがあろうか。  少女は心の隙間にある憶測を覗いながら、一海の次のリアクションを待った。 「分からないの」  重苦しく開かれた少年の口から、洋奈が思い描いていたどの回答とも異なる言葉が紡ぎだされる。 「分からないの。ボク、以前の記憶がほとんどないんだ。はっきりと覚えているのは一昨年ぐらいまでのことだけ」 「それって」 「うん。お医者さんは記憶喪失だって言ってた」  一海は、己に降りかかった不幸をはにかみながら答えた。それは、友達を必要以上に心配させないための配慮だろう。何よりも相手を先に思い遣る彼の最大の美徳とも、また、自分を顧みない危険因子ともいえた。  思いも寄らない答えに洋奈は少しの間、絶句してしまった。しかし、あまり長い間沈黙すれば彼はまた気を遣うだろう。 「そう、なんだ。ゴメンね、変なこと聞いて……でも、全部忘れたわけじゃないんだよね? 例えば、お母さんの名前とかお父さんの名前とか」  努めて慌てないように、悲しみに触れないようにフォローする洋奈。  ところが、それが一海にとって最も聞かれたくない質問だということに、誰も気付けはしないだろう。 「うん。例えば、これはカップでカフェ・オ・レが中に入ってるっていうのは覚えているの。だから、お母さんの意味もお父さんの意味も分かるよ」  少しぬる温くなったカップを手に取り、スプーンで指し示しながら告げる少年。 「だけど、どうしてかな……お母さんやお父さんの顔とか声とか名前とかは、全部忘れちゃったの」  スプーンをカップの中へ落とし、生クリームを混ぜる少年の指先は、酷く緩慢で悲しげだ。  しかし、こんなときでも彼は言葉もない洋奈に気付き慌てて付け加えた。 「でも、心配しないでね。実は、お母さんはボクが小さなときに離婚してたから覚えていないのが当たり前だったし、お父さんも数年前に事故で死んじゃったんだって。だから、今は、親戚のお姉さんと一緒に暮らしてるの。葛姫《かつき》さんっていうんだけど凄く綺麗で、いつもボクのこと可愛がってくれるんだよ」 「そ、そうなんだぁ。じゃぁ、次は洋奈の番ね」  これ以上、薮蛇にならないように次に自分の紹介を始める洋奈。  名前。誕生日。血液型。死別した年子の姉がいたことや親友の千尋のこと。二人はお互いにゆっくりと隙間を埋めるように語り合った。  本当の友達になるために。  理解し合えるために。  そうして小一時間は話しただろうか、徐々に店内に仕事帰りのOLやサラリーマンが来店してきた。どうやら喫茶店とは看板だけで実際は、バーとしての収益が中心なところがよく分かる。  二人は頃合いとみて席を立ち、冷え切った寒空へ足を踏み出した。 「うわぁ、寒いはずだね」  一海が手袋越しに手を擦り合わせながら空を見上げてため息をつく。  銀の光を放つ星々は、いつの間にやら翳り、代わりに白い妖精たちが静かに舞い降り始めていた。 「ねぇ、一つ聞いておきたいんだけどいい?」  同じように空を仰いだ洋奈が、最後の質問とばかりに呼びとめる。振り返った一海を肯定と受け取り、少女は言葉を続けた。 「ちーちゃん以外に好きになった人っていた?」  少女は吐息で曇った縁なし眼鏡を外しながら、一海を見た。  髪を解き眼鏡を外した彼女は、一段と雰囲気を変えて、さながら危なっかしい後輩から面倒見の良い優等生みたく穏やかで落ち着いた雰囲気を醸し出している。  そんな、妙に大人ぶった少女を見てはっとする少年は、暫し無言のまま視線を止めた。そして、ゆっくりと口を開くと、 「分からないの。でも、もしかしたら失った記憶の中にいたのかもしれない」 と呟く。 「じゃぁ、もし、居たとしてその彼女に再開したら?」  ここに北斗がいたならば、なんとも果てしない夢だと笑っただろう。そもそも一海は、その姿を見ても好きだった人だと分からないはずなのだ。ならば予想できる現実は一つ。何もなかったように通り過ぎるだけだ。  しかし、少年は希望的……いや、絶望的な可能性においてもその出会いによって、何かの記憶が戻ったとしたら、と考えることにしたのだろう。  その思いは、記憶を失って無傷でいられるほど、人間は無意味に生きていないことを如実に示していた。 「もし、その人のコトを思い出せたら……ボクは」 「ちーちゃんと昔の彼女とどっちをとるの?」  至極明快な二択。 「ボクは……」 「二股だけは絶対に許さないから」  しかし、難解な二択。  一海の視線に彼女の表情は映らない。けれど、その声色から答えによっては危害を加えることも厭わない鋭さは、見えずとも伝わってくる。 「ボク……は」  答えにつまった一海を洋奈は遠くを眺めるように見つめてから、ゆっくりと言葉を繋いだ。 「ゴメ〜ン。洋奈ったら一つだけっていったのに何個も聞いちゃったよね。風邪ひかないうちに帰らなきゃ、ね? それじゃぁ、洋奈はこっちだからぁ。またね、大和くん」  急にいつもの甘えた調子に戻った少女の言葉は、もう少年には聞こえていない。  駆け出した彼女が雪舞う冬景色の向こう側へ消えてからも、沈黙した少年は、動けずにその場に立ち尽くしていた。  やがて、彼の肩に純白のヴェールが被せられると芯から凍えるような冷気が襲う。  ようやく一海は歩き出す。  洋奈に問われた答えを探しながら。  *  考えながら歩いているといつの間にか目的地が現れる。  それは、問いかけから逃げようとしているから早いのだろうか。それとも本当に一点だけに集中しているからこそ回りが見られなかっただけなのだろうか。  今の少年にはそんなことを考えるゆとりもなかった。  目の前には欧州の石積みの家を思わせる洒落た住まいが覗える。築二十年弱のまだまだ新しい家だが、その造りが少なからずの風格を与えている。  ガーデニングや日光浴を楽しむにはゆとりがある、そこそこ広い庭は何気ないようでしっかりと階級を示しているかのように荘厳だった。  一海はその場で立ち止まるわけにもいかず、流麗な華が刻まれた門を開き、その先に待つ大きな扉のレバー型のノブを回す。  鍵は掛かっていない。  どうやら、もう一人の同居人は既に帰ってきているようだ。 「ただいま」  玄関をくぐり、蚊の鳴くような声で挨拶する。しかし、家中の十分の一もその声は届かなかっただろう。  少年も分かっているのだ。この家が二人で住むのには広過ぎることぐらい。  それでも同居人に言わせると「この家こそ私たちに相応しい」らしく、ここから引っ越す気はないようだ。  靴を脱ぎ廊下に足を踏み出すと、振動音は驚くほど反響する。  その音に気付き、居間から顔を覗かせる一人の女性。 「遅かったわね。寄り道していたの?」  切れ長の瞳に細い顎、スーツの上からでも分かるメリハリのある躰。誰もが振り返るような凛とした大人の美しさを持ち合わせた女性。  一海の叔母、名を葛姫《かつき》という──が、深いブラウンの髪を揺らし、腰に手を当てる恰好で少年を迎えた。 「ごめんなさい」 「ふふ……ダメよ。許してア・ゲ・ナ・イ」  葛姫は俯く甥へ歩み寄ると白いというよりは透明という形容のほうが的を射ている指先を彼の唇へ翳した。 「心配したのよ。一海は私を不安にして楽しい?」  唇に翳された指先は顎を伝い、喉仏を通り過ぎ、心臓の上で制止する。 「そんな!? 違ッ、違います!」 「それならどうして電話してくれなかったの?」  身を屈めた叔母の視線が少年の瞳を射抜く。その表情には言葉とは裏腹に心配という感情からは無縁の思いが見え隠れしている。 「私はこんなに一海を愛しているのに、どうして一海は私を愛してくれないの?」  潤んだ瞳を見て一海の呼吸は急速に息苦しくなっていく。 「そ、んな……ボクは」  無意識のうちに詰襟のホックを外し、気道を確保しようとシャツのボタンを外す。しかし、肩で息をしても一向に脳に酸素が回っていかない。  視界に思考に霞が掛かっていき、一海は意識を失った。  * 「大丈夫? 一海」  遠くから聞こえる呼び声に一海は目を覚ます。  目の前には叔母の姿。 「あれ、ボク……」 「また、記憶が飛んだのね。一海、私が誰だか分かる?」  心配そうな表情の叔母へ、少年は「葛姫お姉さん」と一言だけ答える。叔母さんと言わないのは、彼女がそんな年齢ではないことに対する一海自身の配慮だ。 「よかった。大丈夫みたいね」  安堵した叔母から視線を外すと、居間のソファーに寝かされていることに気付く。 「ボク、また?」 「そう、記憶弊害で小一時間ぐらい倒れたのよ。ここ半年ぐらい大丈夫だったのにね?」  数年前、記憶を失ってから断続的に訪れる意識の喪失。  記憶を呼び戻すときに他の記憶が邪魔をして脳に負担がかかった場合、防衛本能が意識を強制的に遮断してしまう症状だと一海は聞いている。叔母は、その症状を単純に記憶弊害と呼んでいた。 「一海、最近変わったことはない?」  濡れタオルを交換しながら叔母は深刻そうな面持ちで問うた。 「え? うん」 「記憶弊害は諸刃の剣よ。記憶が戻る可能性もあるけれど、反面、記憶を失う可能性もあるの」  甥の曖昧な答えに葛姫は、研ぎ澄まされた剣のような瞳で、幾度となく繰り返した説明を今一度繰り返した。 「うん。分かって……ます」 「それなら、内緒にしないで全部話して。私にはあなたを護る義務があるもの」  否応を問わない命令のような言葉も一人残された甥を護るための真剣な気持ちの現れなのだろう。  一海にとってもそれは分かっている。  しかし、彼の心の中は酷く震えていた。  何故かは分からない。しかし、以前から少年の心に畏怖の念を抱かせる恐ろしいものを葛姫は持っているのだ。  それでも一海にとってたった一人の家族にかわりない。不安を抱えつつ、迷いながらも彼は告白する。 「実は、好きな女の子ができたの」  ポツポツと最近起こった出来事を、叔母の顔色を窺いながら話し出す。 「杉並さんっていうんだけど、元気で明るくて、とても優しい女の子なの」  一海の記憶は、緋須那祭の準備期間を辿るように遡っていく。  何事にも一生懸命で感情豊かな少女。的確な判断力と行動力を持ち合わせた皆を引っ張っていくことができる力強い少女。いつも一海に気をかけて助けてくれる面倒見の良い少女。  そんな素敵な少女を意識し始めたのはいつだっただろうか。  一海は少しの間、思いを巡らせ一つの事象にぶつかった。  霧雨が降り出したあの日。  少女の背中を訳の分からないまま抱いてしまったあの日、あのとき、一海の心臓は破けてしまうと思うほど脈打っていた。それは、抱いてしまったという事実よりも少女から立ち上る色香に惑わされた結果だった。  乱れた項が、張りついた前髪が、荒い吐息が、少年の記憶にまとわりつく。  何も知らない少年でも不思議とそういう気持ちというものは伝染するものだ。  けれど、一海は自分の何処が何を望んでいるのか分からなかった。  否、薄々は理解していただろう。  どれだけ脳をかき回されても、心臓が踊り飛び跳ねても、身体の一部分だけが妙に熱を帯びて、腹の底に溜まっていくドロドロとした欲望に気付かないはずがない。  だから、校医を呼びに全速力で駆け出したのだった。  立ち上がらない少女を心配したからこそ、勿論それもある。しかし、何よりも欲望の闇に犯されそうになる自分の心が恐ろしくて、縋ることが出来る場所へ向かったというのが本心であった。  そして、校医を連れて千尋を迎えに上がったとき、土井から「先に帰れ」と、切り離されそうになったとき、少年の心に強い感情が生まれた。  離れたくない。  彼は、そのとき彼女に対する思いの本質にようやく気付いたのだ。 「だけど、ボクは人を好きになっちゃいけないのかも知れない」  千尋の親友、洋奈の存在。千尋を誰よりも大切に思っているのが分かる。そして、一海に対する小さな敵意も。 「どうして?」 「だって、ボクには記憶がないし、杉並さんを傷つけるかも知れない」  洋奈を恐れているわけではない。  もしも、千尋を傷つけたとき彼女の気持ちを踏み躙ることになる。それが少年の一歩を妨げている一番大きな原因なのだ。  誰も傷つけたくないから。  誰もが幸せでいて欲しいから。 「そうね。よく話してくれたわ。きっとそのコが原因で今の記憶弊害が起こっているのね。私も付き合うのは反対だわ。このままでは、本当に記憶を失いかねない」  一海が頬を染めて大好きな少女を語る間、険しい表情で聞いていた葛姫であったが、甥が迷いを告げると同時に優しげな瞳へと変わり、否定的な一海を肯定する。  しかし、一海はそのとき、千尋から得た大切な言葉を思い出していた。  それは、彼にとって迷いより確かで暖かな言葉だったのだ。 「だけど、杉並さんは初めてボクのことを大好きだっていってくれたの」 「一海!」  その言葉に叔母は目を見開き、甥の迷いを断ち切ろうとする。しかし、それよりも少年の激情が吐き出されるほうが早かった。 「ボクは杉並さんを大切にしたいの。だって、ボクも杉並さんのことが大好きだから」  空気が少年の言葉を包み込むと、辺りに静寂が訪れる。  少年は俯く。叔母の意見に逆らったのはこれが初めてだったかもしれない。けれど、一海にとって千尋は、いつの間にかそれほど大きな存在になっていたのだ。 「あなたは病気なのよ? 今度こそ本当に全ての記憶を失ってしまうかも知れないのよ。 それでも、いいの?」  静かな、けれど、重々しい質問。  ソファーに寝そべった少年を寂しさと厳しさとがない交ぜになった表情で、上から見下ろす叔母。  それは、最後の確認だったのだろう。  一海も、もう一度だけ考えた。  しかし、今の一海は自分でも驚くほど一人の少女に執着していた。  全てを量りにかけたとしても、彼の答えは変わらなかった。 「うん」  答えを聞いた刹那、葛姫は涙を一粒零し、耐えるように言った。 「わかったわ。一海が決めたことなら、私はもう何も言わない」 「ゴメンなさい」 「あなたが謝る必要はないわ。さぁ、明日も学校でしょう。宿題をして早く寝なさい」  葛姫は甥の額に口付けて、自室へと上がっていく。  シックな扉を抜け、背中越しに鍵をかけると小さくため息が漏れた。  上品な木目調の机の上には、若かりし日の写真立てが飾られている。その中でも一際幸せそうな一組の男女の姿。 「兄様」  その口元からギリリと小さな不快な音階が流れた。 chime3  私鉄急行で3区。  四人はそろって緋須那高原駅に降り立った。  ホームの端には雪が溶けずに残っているが、雲はなく柔らかな日差しが辺りを包む絶好のスキー日和である。  雪国の風景を目の当たりにした北斗は、かなり興奮気味だ。車窓から見える白銀と立ち枯れた木立の群れに感嘆の声を漏らし、今また積もった雪を丸め小さな雪だるまを作って喜んでいる。  三人は恥ずかしさを堪えながら、引っ張るように北斗を駅の外に連れ出すのだった。  今日から二泊三日のスキー合宿が始まる。  合宿といっても部活動ではなく、遠足に近いといっても市の好意による提供である。現地集合、現地解散の行動は全て生徒たちに委ねられており、スキー場が貸し切りというわけでもない。  全ては自己責任における合宿。一種の放任主義なのかも知れないが、生徒たちを信頼しているからこその与えられる権利だ。生徒たちはその権利を無に帰さないためにも義務を守ろうとする。とても良い教育の環境ができた市、それが緋須那市であった。 「さて、と。とりあえず、合宿場に荷物を置きに行ってからだよね」  ゲレンデまで400mばかり。山の中腹を眺めれば米粒ほどのスキーヤーたちが、日差しに反射する銀の上を思い思いに滑走している。 「賛成〜。洋奈、早く荷物下ろしたいよぉ〜」  ゲレンデを取り巻くように立ち並ぶペンションや民宿のうち、彼らの宿となるのはゲレンデまで少し距離を置いた比較的大きめな民宿旅館である。  重い荷物を担ぎ、手押しの自動ドアを開けると、中から暖かな風が通り抜ける。 「お世話になります。那後中学校から来ました杉並です」  その声に応じて奥から現れた女中さんは、千尋の言葉にやんわりと笑みを浮かべて四人を一階の奥の部屋まで案内してくれる。  引き戸の横には鍋敷きのような木板に「花菖蒲の間」と刻まれている。 「こちらが皆様のお休みの場所となる部屋でございます」 「ちーちゃん、これなんて読むのぉ?」  部屋名の確認と木板を眺める洋奈だったが、学力が足りなかったようだ。 「これは「はなしょうぶ」。アイリスのことよ」 「なんや、杉並って物知りやなぁ」 「これでも花も恥らう乙女だもの」  冗談に笑い合っていると女中さんが、四人を部屋へ招き入れる。 「お食事は大広間にて摂って頂くことになっておりますので、夜6時から8時までの間にお越し下さいませ。お布団はその間に敷いておきますけれど……衝立を立てた方がよろしいかしら?」 「へ?」  少し戸惑ったような女中さんの言葉を理解しかねて、北斗はまるっきり素の対応をしてしまう。そして、部屋中をゆっくりと見渡す。  縁側に小テーブルとチェア×2と冷蔵庫。反対に掛け軸、テレビ、金庫。エアコン。中央に大きな炬燵と四枚《・・》の座布団。 「ちょ、四枚? ここって四人部屋とちゃいます!?」 「えぇ。左様でございますが……」 「まさか、ここで……一緒に?」  女中の当然といった答えに少年は、しばし放心した後、凄い剣幕で千尋に食ってかかる。 「杉並〜! これ、どういうことやねん!」 「あのねぇ。苳島君、ちゃんとルールブック読んだ? グループ行動厳守って書いてあったでしょ。勿論、部屋も一緒に決まってるじゃない! あ、女中さん、気にしないで下さいね。衝立も一応お願いします。後はこっちでやりますから」 「あ、あっ、阿呆っ! ちょ、女中さん、ちょ、ちょい待ってぇな!」  事もなげに言い放つ千尋に、北斗は狼狽を隠すこともできずに女中を引きとめる。  女中は、どちらの話しを聞くべきか、おろおろと戸惑うばかりだ。 「だから洋奈は嫌だって言ったのに」 「え、北斗君、どうかしたの?」  洋奈といえば二人の剣幕も我関せずで大きなため息を吐き、一方の一海は、親友の慌てぶりに理由を見出せずクエスチョンマークを頭の上に浮かべている。 「まったくヤダなぁ、どうして男子ってHなコトと脳が直結してるの?」 「な、んなっ、んなこと……ねぇよっ!」  明らかな千尋の挑発に北斗は、これでもかというほど声を裏返して答える。言葉とは裏腹に肯定するのは、その表情の方である。  しかし、千尋にとってはむしろ好都合。 「それじゃぁ、別に一緒の部屋で構わないわよね? 煩悩の少ない苳島くん?」  上体を屈めて覗きこむように答えをせがむ少女は、にっこりと微笑んでいて、奥歯を噛みしめた北斗は、とにかく全身を真っ赤にしながら「かまわへん」と、ぶっきらぼうに答えるのが精一杯だった。  結局、女中に衝立を頼みスキーウェアに着替える四人。その間、女性陣の黄色い声と衣擦れの音に北斗の煩悩は激しく揺さぶられることになるのだった。  *    彼らが各々のウェアを纏い、ゲレンデに着いたのは、日差しが一番強くなった頃であった。  北斗は、初スキーということもあり、今年発表されたばかりの静電気を防ぐと評判の黒い新作ウェアに身を包んでいる。一海も色違いでお揃いのライトブラウンのウェアである。ただ一つ、一般と子ども用のサイズ違いが、お揃いというより親子用になってしまっているが。  千尋は、昨年新調してもらったウェアで、既に待ちきれないように付近を滑走している。橙と青のツートーンカラーで颯爽と駆け抜ける姿は凛々しく決まっていた。  その後ろに付いて回るのはピンク色ウェアを着た洋奈。ところが、成長期を迎えている彼女にとって数年前に買ってもらったであろうジャケットは相当きついだろう。身体のラインがこれでもかとばかりに強調されてしまっている。セーラー服の上からでも少なからず存在を誇示していた双丘は、まるで水着の如く身体に張りついて離れないジャケットならば尚更、女性の魅力を感じさせずにはいられない。  現に合宿へ来ている市立中学男子生徒たちの視線を釘付けにしている。その危なっかしい滑りに、転倒時に颯爽と助けてお近付きになろうと画策している生徒は多そうだ。  しかしながら、仮にも地元人であることからか、ボーゲン程度の初級レベルはクリア出来ている様子である。  反対に初級レベルもクリア出来ていないのは男性陣二人。どちらもスキーは初めてということなので無理もない。千尋にとっては残念だったが、今日のところは付きっきりで基本を教えるのに専念する他なかった。  それから、小休憩を挟んで日が傾くまで練習した二人は、初級をマスターする位にまで腕を上げていた。特に一海は普段の運動神経から比べると意外なほど飲み込みが早く、以前ドーナツショップで話した「スキーで怖い思いをした」という記憶は、満更間違いでないのかも知れない。  日が沈む少しだけ前。  綺麗な夕焼けが四人を照らした。  橙よりも朱に近い煌々と燃える太陽が、敷き詰められた雪風の冷たさを各々の頬や背中から取り払ってくれたような気分。  少年・少女はそのときだけは静かに自然という広大さと美しさに見惚れていた。  *  夕食の大広間は、それはもう賑やかなものだった。  緋須那祭で競い合った身の上とはいえ「お互いは敵ではない。良きライバルなのだ」というのは、誰もが承知の宴会だ。  学校、クラス、学年が違っても仲良くなることは出来る。お互いが私服であることも手伝ってか、まるで大きなサークルの食事会のようであった。  その中でも一際視線を集めたのが、北斗たちのグループであった。きっかけは出し物として北斗が誘った千尋との夫婦漫才だったのだが、やはり男女混成グループは、珍しいらしく、戻った傍から冷やかしの嵐に巻き込まれ、終いには、ハーレムなどという言葉まで飛び出す始末。やはり、第一印象の一海は誰もが女の子と間違えてしまうらしい。  とにかく凄まじい熱気に包まれた二時間は、あっという間に過ぎ去って、四人はようやく与えられた部屋に戻ってきたところだった。 「ったはぁ〜、まさかこないなるとはなぁ〜」 「だから、止めようっていったのに!」 「ま、まあ、北斗クンも悪気があって言い出したわけじゃないんだし……」 「でもぉ、お陰で緋須那中の子にも噂が流れちゃうよぉ」  肩を回しながら座敷に上がる北斗に文句を言いながら追う千尋。何とか親友をフォローしようとする一海に何気なく現実を突きつける洋奈。  洋奈の言葉通り、噂もきっとろくなものにならないだろう。  酒が入ったわけではないのに、その漲る生気と会話は何処から沸いてくるのだろうか。飛び交った会話のどれほどが真実か、考えるとため息しか出てこない。 「まぁ、過ぎたことを言っても始まらないけどね」 「せや、しゃーない。ちゅうことで、カズー風呂行かん?」  衝立越しに諦めを含んだ言葉が漏れると、北斗は「待ってました」とスポーツバッグから着替えとタオルを取り出し、親友を風呂へと誘う。 「あ、うん。行く〜」  一海もほっとしながら同意を返して自分の鞄から下着、タオル、パジャマを順々に取り出す。それを後ろから覗いていた北斗は憮然と声をかけた。 「なんや、カズ。もう寝る気かいな?」 「うん。可愛いでしょ? カモシカさんだよ」  自分のパジャマに描かれた無数のプリントを指し示し、ニコニコと笑う少女のような少年の姿に脱力する北斗。 「ちゃうやろ。これから枕投げやったり、テレビ見たりするやろ?」 「えぇっ? でも」 「ブッブー! ルールブックに枕投げは禁止されてます。それにテレビは9時まで、消灯完了は10時よ」  障子の隙間から顔を覗かせた千尋が声を掛けてくる。 「なんやてぇー!」 「ホントにふっきーってばルールブック読んでないんだねぇ?」  オーバーリアクションな彼を千尋と反対側の障子から覗く洋奈は驚きの表情だ。今までの抜けた所は、てっきり関西人特有の冗談だと思っていたらしい。 「大体、お風呂から上がったらそんな元気なくなってると思うよ。スキーって案外ハードな運動だから。さてと、それじゃ〜ヒロ、行こ?」  先に仕度を終えた女性陣がスリッパを履き終え振り返る。 「私たち、1時間ぐらいゆっくりしてくるからそれまでに戻ってきてね」  なんとも勝手な都合を押し付け、姿を消す少女たちを呆然と見送った北斗は長いため息を吐いた。 「なぁ、カズ」 「なぁに?」 「……いや、なんでもあらへん。風呂行こか?」 「うん」  チラリと北斗が千尋たちの鞄を見やったが、一海にはその意図するものが何なのか、さっぱり解らなかった。  こんな所も彼が女の子と間違えられる所以なのかも知れない。  花菖蒲という名の部屋の鍵がチャリンと鳴った。  *  流石にスキー慣れしているとあって千尋の言葉は的確で、洋奈とともに頬を色っぽく紅潮させて戻ってきたころには、男二人は既に夢の中であった。  寝巻姿の少女二人は無言で笑いあって、まだ灯っていた明かりを消し、足音を忍ばせて自分の布団へ潜り込む。  千尋は、ホッとしたような物足りないような複雑な気持ちを胸に。  洋奈は、親友の勝負色がライムイエローという事実を反芻しながら。  そして、お互いに小さく「おやすみ」の挨拶を交わし、彼女らもまた迫りくる睡魔に身を委ねた。心地よい温もりと疲れが深い眠りへと誘ってゆき、幾ばくも経たぬうちに千尋の布団から安らかな寝息がたち始める。  しかし、隣の布団からは一向に寝息が上がらなかった。  寝付けない洋奈は、親友が完全に眠りに落ちたのを確認して、縁側のロッキングチェアに腰掛けた。ぎぃと弓なりの板が音を立て、少女は慌てて振り返る。  どうやら、誰にも気付かれなかったようだ。それだけ熟睡しているということだろう。  ほっとした表情でカーテンと窓の間へ顔を覗かせる。  山の表情はふとしたことで変わる。  例えば、人一人の感情の移ろいを映す鏡のように。  窓ガラス越しの外界は、しんしんと月光を湛えた銀精たちが舞い降り始めていた。 「ここには二度と来ないって決めていたのに」  目の前の空気にさえ消え入るような独り言。  静かな、静かな吐息。  けれど、その声は甘えたな少女の声よりもはっきりと通るソプラノであった。  少女の瞳が窓ガラスに映った自分を捉える。  大きな縁無し眼鏡に、少し垂れ目の瞳。ゆったりと編んだ三つ編みを結ぶ、いつもの大きな空色リボン。 「この格好にも年季が入ってきたのに」  独り言とともに弄ばれたお下げから形の崩れた空色の蝶が掌へ舞い降りる。伴って結ったばかりの三つ編みがほつ解れていくと、甘い蜜花の香りが漂った。  記憶の中から一つの像が甦る。 「ダメ。私……まだ、寂しいよ。お姉ちゃん」  うつむいた彼女の眼鏡に一粒の涙が零れ落ちた。  慌てて止めようとするも、瞬《しばた》いた瞼は、もうとめどなく雫を生み落とすことしかできない。縁なし眼鏡を引き千切るように外した洋奈は椅子から身を乗り出して、左手のリボンを、鏡の向こう側に佇む髪の頂きへ押し当てながら苦悶の表情で詰問した。 「どうして……どうして私に何も教えてくれなかったの? あのスキー旅行で何があったの? 答えてよ、お姉ちゃん」  雪原の奥に揺蕩《たゆた》う幻影は、何も答えてはくれない。  少女にも分かっている。  目の前にあるのは魔法の鏡でもなんでもない。ただ、自分自身を反映する鏡。  それでも、大切なものを失ったときに、それを求めてやまない心を笑う権利など誰にもありはしない。 「今だけ許して」  無理に引き出した微笑みから洋奈はそっと目を瞑り、姉の唇を奪っていく。  ガラス越しに啄むキスは冷たい。それでも彼女の身体は、汗をかくほど熱く焦がれていった。  額を合わせ、鼻先を絡ませ、握り締め合った掌から少しずつ体温が奪われて、それが灼熱を帯びた身体に心地よい。乱れた浴衣から覗くふくよかな胸を押し合わせると思わず小さな吐息が零れた。  上気した頬が艶かしく映えると、互いの行為はさらにエスカレートしていく。  汗で濡れた全身を塗り合わせ、啄むキスから舌を絡ませた濃密なものへと変えていく。はだけた浴衣から現れた薄紫色の下着は、汗と異なる蜜も混じり、まるで紫陽花《あじさい》の蕾が雨露を受けて開きかけているようであった。  互いの手を脚の付け根に導くと鼓動は一層激しさを増して、涙を啜るときのような呼吸と薔薇色に染まった全身が二人をうっとりとした幻灯の世界へ誘っていく。  しかし、彼女が最愛の姉を独占しようとしたその時。  ほっそりと涙で潤む視界を思いもよらぬ一つの影が覆い、洋奈の意識はそこで途絶えた。  *  愛らしい少年は、誰かに呼ばれたような気がした。  それは、失われた記憶の中に眠る声なのかも知れない。懐かしさと愛しさと、それ以上に深い憎しみが心の底から溢れてくるようだった。  ちくりと何かが胸を刺す。  小さな痛みは、徐々に熱を帯び、鼓動を早めていく。  どんよりとした欲望は抗うこと違わず、一海は無意識のうちに虚空を抱きしめていた。  再び少年に呼びかける声が聞こえる。  今度ははっきりと。  男の声だ。 「うっふっふ。ようやく届いた。一海、今宵、君は生まれ変わるんだ。さぁ、決して目を逸らさず最後まで見ていなさい」  諭すような台詞だが、一海にとってその声は不快な音階を奏でる。よく透るテノールも言葉に含まれた想いも、彼のこころ精神を酷く揺さぶってくる。失われたはずの記憶が「従うな」と告げているように思えた。  付き纏う声が寒気を呼び、全身もそれを肯定している。  しかし、水中で聞く音叉のように、声はどこへ逃げても間近で聞こえてくるようで、振り切ることなど到底適わなかった。  脆くも少年の瞼は開かれる。  そこには、小さな背中一杯にたおやかな黒髪が広がっていた。 (ぅ……ぁ)  刹那、一海の脳をノイズ混じりの映像が駆け抜けていく。それは、音の途切れた不確かな記憶。  いつかの雪山。  天使のような笑顔を覗かせる少女と滑ったなだらかな稜線。  光の届かない杉林。  恐怖に涙しながら、うつ伏せに組み伏せられる少女。  そして。  踏み荒らされた雪の上。  鮮血が飛び散り、ストックを手に佇むのは──誰? 「いやぁぁぁ〜〜〜〜ぅぁあ〜〜っっっ!」  記憶の断片であろう映像を遮ったのは、少女の尾を引く咽び泣きだった。  優しすぎる少年にとってこれまではおろか、今後も耳にすることは、まずあり得ない痛々しい絶叫。  本来ならば美しいソプラノだろう声は、苦痛に歪み少年の心を締めつけた。 「あー。申し訳ない、初めてでしたか。まぁ、これも誰もが経験するオトナへのステップというものですから。先に済ませておけば、むしろ長く楽しめますよ」  一海は、まさかと思った。  口がひとりでに動く。それも彼が思い描くどんな言葉にも当てはまらない残酷で自分の欲望を満たすだけの悪意の鏡。 (どうして? ボク、そんなこと言いたくないのに!) 「さぁ、力を抜きなさい。望んで苦痛を味わうこともないでしょう?」  またしても黒い欲望が滾《たぎ》る。大気に馴染みやすい高く美しく、そして醜い声。  同時に動かされるのは腰。 「ぅあぁぁっ……ぃ!ああぁぁ」  腕の中の少女が息も絶え絶えに悲鳴を紡ぎだす。その姿は直視するには、痛々しすぎる非道な行いを受けた様であった。  少年は堪えきれずにきつく目を瞑ろうとする。耳を塞ごうとする。  しかし、少年の意志はまるで聞き入れられず少女の肢体を蹂躙していくのをただ見ていることしか出来ない。 (やめてぇ! やめてよぉ!!)  自分の身体を少女から離れさせようと、幼児が駄々をこねるときのようにむやみに身体を動かそうとも試みた。だが、指先一つとして少年の意思に従うものはない。むしろ、自分の身体を取り戻そうとする行為は切り離されていた感覚を研ぎ澄ますもので、少年の触覚が鋭敏に反応を示し出す。 (ぅわ……やだよぉ、こんなの)  少し味わっただけで、頭が痺れていきそうになる感覚に少年は涙ながらの悲鳴を上げる。 「我慢しなくていいのですよ。ここでは多少の声など外に漏れる心配はないのですから」 「やっ……だ、めぇっ!」 「おやおや、こんなにしておきながら、ダメじゃあないでしょう? 君のこんな姿を天国のお姉ちゃんはどんな風に見ているのだろうねぇ、洋奈クン」  ドクンと心臓が高鳴ったような気がした。  続いてこめかみを締めつけるような痛み。心臓が膨れ上がっていくような苦しみを味わう少年。  声を殺しながら笑う自分自身を、一海は信じられなくて何度も首を横に振ろうとした。しかし、少年の思い通りに身体は動かない。 「ほぅら……ほらぁ……お豆ちゃん、こんにちはぁ!」 「やッ、ダメっ、ダメェっ!! ひッ!ぁああああ〜〜〜〜〜っっ!」  そして、操られた指先に少女は明らかな嬌声を上げ、上半身を逸らし果てる。  荒い呼吸をしながら卓球台へ倒れこんだ少女の横顔がはっきりと見える。それは、紛れもなく一海に傷つけられた友達の疲弊した姿だった。  そして、衣類を整え証拠を片付けた少年は、見計らったように一人呟く。 「さて、と。どうだい姉妹揃って犯した気分は? 一海」  それまで一方的に少年の身体を使っていた意識が、心の中でへたり込んでいた少年に問いかける。 (わかんないよっ! いったい君は誰? どうしてボクの身体を動かせるの?) 「おやおや、酷い謂れだ。三年間も無視し続けていたのは一体誰だい?」  優しすぎる一海が、精一杯に感じた痛みと惨めさを込めた罵倒の言葉。しかし、一海の身体を使役していた彼は堪えた様子もなく、それどころか、まるで一海自身に非があるような台詞を吐く。  意味が分からず、一海はただ彼を睨むことしかできなかった。  答えのない一海に、彼はやれやれとため息を吐いてみせる。 「答えは一海、君だ。君は私を認めようとしないばかりか、いつも心の奥に封じ込めては、困ったときだけ私を呼んだ。不愉快だったよ。自分一人では何一つ出来ないくせに、自分にとって都合の悪いものを認めずに利用する、そういうところがね」 (そんな! ボクが君を利用したなんて) 「覚えてない、とでもいうつもりかい?」  彼の声には明らかに怒気が含まれていた。  そして、用具入れから卓球のラケットを手に取ると己の左腕に叩きつけた。 (!)  左腕が真っ赤に腫れ上がっていく。  しかし、気付くと一海にその痛みが伝わってくることはなかった。 「分かるかい。君は、いつもそうだ。危険が迫ると自分の中へ逃げ込む。私を盾にしてね。しかし、今になってみればそれも感謝しなければならないね」  怒りと憎しみと。そして、薄ら寒い笑顔。  不確かな危険を感じ取り、恐る恐る少年は彼に問いかける。 (どういう……コト?) 「もう君は必要ない。この身体が朽ちるまで私が、大和一海になるのですよ」 (そんな!) 「そんな? いまさら何を嘆く? 今、一海は彼女を犯したのですよ。友達である御潟洋奈を、無理矢理ね。そして、覚えていようがいまいが、その親友の杉並千尋を辱めてやったのも紛れもない大和一海、本人なのです」 (そ……んな? ウソ)  突きつけられた事実に優し過ぎるはずの少年は愕然とした。  今まで皆が幸せになれるように頑張ってきたはずの一海自身が友達を不幸に叩き落とした張本人だと──皆の笑顔は、偽りなのだというのだ。 (そんな……そんなはずないよっ! だって、杉並さんは、ボクを好きだって言ってくれた!) 「うっふっふ、ステージでの告白のことを言っているのなら、とんだ笑い者だよ、君は。アレは一海に対してではない。私に対して言った言葉なのだから」  明らかな嘲笑を含んだ声で、絶対的な勝利宣言を聞く一海。 (どう……して?) 「忘れられないんだろう、初めてがね。君が彼女に出会って間もなく私が頂きましたから」  少年にはもう繰り出せる言葉はなかった。  心に湧き上がってくるのは後悔と懺悔と、自分自身に対するこれまで感じたこともない激しい怒り。 (死にたい)  むしろ、身体が自由ならば今すぐにでも少年は命を絶っていたことだろう。  せめて傷つけられた者への慰みになるように。  しかし、少年の悲壮な覚悟をあざ笑うかの如く彼は言う。 「けれど、私を恨むのは筋違いというものです。私は君の渇望を開放して差し上げただけ。私に快楽を教えたのは他でもない私たちの父親、柚彌なのですよ」  言葉が終わるや否や一海の脳へ鮮明な記憶が駆け抜けていく。  思い出はみるみる間に失われていた記憶の琴線に触れ、バラバラに散らばっていたピースが次々に復元されていく。  因果な運命にも、少年の過去が取り戻されてゆく。それは、恩恵とともに背反の記憶さえも思いだすということ。  記憶の中の父親。  愛らしい一人息子を溺愛するが故に道を踏み外した父親。  未成熟な美しさを辱めることに快楽を見出してしまった最低で哀れな父親。  一人の少女。  か弱き者を守る優しくて強くて憧れの少女。  空色のリボンで着飾った長い黒髪からは、いつも仄かに甘い花の香りが漂っていた少女。  二人が出会ったとき運命の歯車は大きく狂い始めた。  三月も終わりに近付いたというのに、その日季節外れの寒波が突如、吹雪を呼んだ。そんな天候に三人は行き場を失い廃屋で身を寄せ合うことになる。だが、そこで父親は、幼い色香に惑わされてしまった。逃げ出した少女を少しだけ収まった雪中で抱こうとする父親を無我夢中で引き離した少年の手には血塗れのストック。白く赤い世界は少年を震えさせ、縋るものを探させるのに十分な未知の世界だった。  いつも守ってくれた少女を頼るのは至極当然な結果。  だが、いくら人のできた少女とはいえ、人が死して恐怖を覚えないはずもない。  少女は少年を拒絶し、少年は少女を無理矢理、抱いた。  少年の別人格、優しくなればなるほど大きくなる残酷な念の集合体が、形を成した瞬間だった。  そして、少年は少女を脅迫し、真実を闇に葬った。  父親殺しという真実を。  しかし、それだけで物語は終わらない。  少女は自分の罪を誰にも打ち明けること適わず、苦悩し、憔悴していった。  包み込むような優しさと過ちを見過ごせぬ正義感が互いに交錯し、半年もの間悩み続け、そして答えを出した。  電話越しに聞いた少女の最期の言葉。 「カズくん、辛くても死んじゃダメだよ」  今ではその想いを知る由もない。  だが、それは偽りでも情けでも、一海に微笑み続けた少女との永遠の決別であることは、確かだった。 (ぅあああああぁぁぁぁぁぁぁ)  一海は声にならない絶叫に涙を乗せ、叫ぶ。  運命はときにどこまでも残酷で、力なくうなだ項垂れた少年にもう希望の光は灯らなかった。  まるで、当時をリフレインする哀れな姿を満足そうに眺めるのは、父親の名を騙《かた》っていた負の別人格。当時は記憶と共に封印された彼も今では立場が逆転している。  封印されるのは主人格の、本来の優し過ぎる一海。  彼は、喜びを堪えきれず高らかに嗤い、再び妹に手を出そうと動く。  もう、一海は動けない。  何もできることがない。  友達を助けることも、自ら命を絶つことも、何一つとして。  少年は感覚を放棄した。 (ボクは……ボクじゃない)  そして。  最後に残った聴覚が微かに捉えたのは、 「カズ、許せよっ!」  懐かしい声だったような気がした。  第三章 素を護るため殻を殺ぎ落とす者 chime0  杏《あんず》のように聡明かつ可憐で、秋桜《コスモス》のような強さを持ち合わせていたお姉ちゃん。  いじめや仲間外れを見過ごさない勇気と困っている人を助ける優しさ。  私にとってお姉ちゃんは憧れの対象だった。  そんなお姉ちゃんだから、お友達から旅行へ招待されたときも当時の私にとっては誇らしい事実でしかなかった。  けれど。  旅行中の事故で、お友達のお父さんを亡くしたとき、お姉ちゃんは笑えなくなってしまった。  妹の私には分かる。  お姉ちゃんは胸中に秘められた何かにずっと悩んでいた。  いつかその苦悩はお姉ちゃんの精神を蝕み、そして。  耐え切れなくなったお姉ちゃんは自らの命を……絶った。  いつも身に付けていた半身、空色のリボンを残して。 chime1  脈打つような痛みに洋奈は目を覚ます。痛みはまるで腹の底から響いてくるようで上半身を起こしたあとも彼女を苛《さいな》み続けた。 「あッ! 起きて平気?」  少女の側面から掛けられた声は、聞き慣れたアルトボイス。千尋だ。  縁側で浴衣を干していた彼女はすぐに親友の背中を支えるために駆け寄ってくる。普段着に着替えた千尋は赤いパーカーを羽織っており、その下に黒いタートルネックトレーナーと同色でミニのプリーツスカートという出立ちであった。 「う……ん。それよりここは?」 「私たちの部屋だよ。花菖蒲の間」 「そんな! 私、どうしてっ!?」  記憶が巡ると少女は身震いし、とても座っていられる状態でなくなってしまう。すぐにそれを悟った千尋は背中を支えて親友を布団に寝かしつけた。横に座して彼女は深呼吸一つして告げる。 「昨日は……って正確に言うと今日の未明だけど、こっちが驚いたわよ。目が覚めたらヒロも一海くんもいないんだもの。慌てて苳島くんを叩き起こして探したんだから」 「ゴメン」 「ううん、ヒロが謝る必要はない! 私がもう少し早く気付いていれば」  物事をはっきりということを好む千尋でさえ、口篭もってしまう事実。  当然だ。洋奈は一生の傷をつい数時間前に負ってしまったのだから。  本来ならば、お互いが大切な人と生きていく上で経験する、避けられない事象。だが、それも覚悟の上ならば耐えられない痛みではないだろう。むしろ、痛みが二人の絆をより強くする。  それが、無理矢理引き裂かれたのだ。  肉体的な苦痛と精神的な苦痛に蝕まれ社会復帰できなくなった女性もいるほど、洋奈に与えられた傷は深く酷いものである。 「ちーちゃん……ゴメン。少し、一人にしてくれる?」 「うん。分かった」  天井を見上げる洋奈に神妙な顔で頷きながら腰を上げようとする千尋だったが、ふいにその足を止め体勢を戻した。そして、眠る少女が気にする間もなく前髪を掻き分け額にキスする親友。  突然の事に戸惑って、目の下まで布団を被る少女に瞳を逸らさず彼女は言う。 「怖くても、悲しくても、絶対変なこと考えちゃダメだから! 私たち親友なんだから! だから、だから絶対ッ……一人で抱え込まないで。私たちは一人じゃないんだから。約束だよ」  まるで、自分の身の上に降りかかった災厄かの如く険しい表情で千尋は親友を見つめる。洋奈としてもそんな表情を見るのはこれが初めてだ。  しばらく二人はそのまま見つめ合う。 「ありがと。ほら、ちーちゃんは滑ってきなよ。洋奈は留守番してるから」  掛け布団から漏れる声に答えは含まれていなかった。それでも千尋は親友を信じ、望み通りに部屋を後にする。震える歩みのまま、背中にまとわりつく悲壮を振り切るように医務室として設けられた一室へ向かう。  菫《すみれ》の間と名付けられた洋間の敷居をくぐると、白いパーカーにジーンズ姿の校医が彼女を迎えた。那後中の名物おばさんは、ここでも生徒たちを見守ってくれている。 「おや、どうしたんだい」  今日未明にドアを叩き、ほとんど理由も告げずに一海と北斗を押し付けてしまったというのに土井は、一つとして嫌な顔せず、今も普段通りの挨拶をしてくれる。  皆にとって、とても有り難いことだった。 「一海くんたちはどうしてますか? その、ヒロが調子悪いみたいなんで、今日はどうしようかって相談しに来たんですけど」  しかし、その言葉を聞くと校医は難しそうに顔をしかめる。 「そうかい。でも、こっちも……いや、とにかく会ってもらったほうが分かりやすいか」  何か迷った様子の土井が、手招きで隔絶された奥の部屋へ少女を導いたその先には。  * 「だぁー! あ〜〜〜ぃ」 「痛《つ》ぅ! カズ〜、頼むから髪、引っ張らんでぇな」  四つん這いになった北斗の上に馬乗りした一海は、最高の玩具を思うが侭に遊び尽くしている。その姿は普段の一海と相違ない。しかし、その精神は柚彌と名乗った負の別人格でも、愛らしく優し過ぎる主人格でもなかった。  以前から一海の二面性を知っていた千尋にとっても、その光景は絶句するのに充分だった。 「起きてからずっとこの調子さ。アタシもこういうケースは初めて見るけど、なんらかのショックによる幼児退行だろうね」  放心する少女に校医は続ける。 「先刻からそこのに心当たりがないか聞いてるんだけど、黙っちまってね。アンタは知ってるのかい?」  北斗は、二人の会話に気付き、目で友に合図する。  三人の盟約があると。  しかし、千尋には一海の奇行をとても説明することなどできない。そして、事態の進行を許してしまった三人の判断に戸惑いもある。  少なくとも今の一海を元に戻すには、医学や心理学に通じた大人の力が必要なのではないか。  友との約束や度を越した事態、自分や友に起きた様々な事象が少女の脳裏を交錯する。  そして。 「苳島くん、私たち……本当に正しかったのかな?」  単純《シンプル》で核心を突く問いが友へと向けられる。  友は彼女を戒めるかのように名前をきつく呼んだ。しかし、溢れだした言葉は途中で止まることを知らない。 「だって、結局、私たちって一海くんに何かして上げられた? 何もできなかったんだよ。何もできなかったから、ヒロは!」  気持ちは北斗にも痛いほど伝わる。だからこそ、激情に任せて告白しようとする彼女を止めようとしたのだ。しかし、そんな折、背中にまたがっていた親友を落っことしてしまい、一海は少しの間きょとんとした後、大泣きしてしまう。慌ててあやし出した少年に千尋の言葉を止める術はなかった。  否。心のどこかで北斗もそれを望んでいたのかも知れない。  自分達ではどうにもならない、この事態を変えることのできる力を欲するべく。  少女は語る。  一海との二度目の出会いから。千尋の勘違いから一海を壁に押さえつけ、そこで現れた狡猾な一海。千尋のファーストキスを奪い、彼女を抱こうとした事件の張本人。  親友の機転になんとかその場は助けられ、三人は盟約を結んだ。一海の正体を突き止めようと。  緋須那祭の前日に、彼女は一海に告白した。そして、現れた柚彌と名乗る狡猾な一海にいいように弄ばれてしまったことも。  そのことを、初めて知った北斗の表情をやるせなさが過ぎていく。  少女の激情が落ち着いた後も、その事実は悔恨と罪垢《ざいく》で彼女を責め続けた。  しかし、整理されたとはいえない乱雑な言葉でも、その言葉に嘘偽りのない真摯さは感じられた。  土井は鼻で笑うことなく、少女の話を一度聞いただけで理解してしまった。 「そうかい。アンタたち、随分大変な目に巻き込まれてたんだね」  なにより、一海が知らせたあのときを思い出し「そういうことだったのか」と己の気配りの足りなさを悔やむ校医は、少女の髪を撫で落ち着かせてやった。 「先生。カズは治るんやろか?」  寝巻代わりのジャージ姿で北斗は全てを吐きだして疲れてしまった友の代わりに問う。しかし、答えは厳しい表情で紡がれる。 「難しいね。その柚彌っていうのはこの子の中に眠るもう一つの人格なのさ」  校医はそう前置きしてから、簡単な心理学の授業を始めた。  それによると、人間というのは気質・性格・人格という三つの精神骨格から成り立っているという。  気質とは、生まれながらにして持っている遺伝的なもので変えることはできない根底的なもの。  性格とは、およそ第二次成長まで作られる本人の目標とする生き方や考え方ともいえるもので、これは、幼少の頃の環境によって大きく変化する。  そして、最後の人格とは、もっとも表面に現れるもの。例えば先生と話すときと友達と話すときでは言葉遣いや考え方が違うようなもの。多からず少なからず、誰しも持っている処世術のことだという。  これらは気質を中心に性格が包み、その上に人格というように構成されており、上に重なるものほど移ろい易い。しかし、一海の場合は人格の一部が確固とした意識を持っている。恐らく本来の性格が優し過ぎる故に、自身から生まれる負を認めることができず、あらゆる負の感情を一つの人格へ纏めてしまったのかも知れない。そして、肥大化した負の人格は本来の意識を乗っ取るほどの力をつけてしまったのではないか。  また、人格の入れ替わるタイミング拍子が「強いインパクト衝撃を受けたとき」ということから、防衛本能に近い何らかと負の人格には密接な関係があるのではないかとも土井は語った。 「それじゃあ、一海くんはずっとこのまま?」  何時変わるとも知れない人格を抱えて過ごしていかなければならないのかと、千尋は目の前が真っ暗になるような気がした。 「難しいと言ったろう。方法がないわけじゃないよ」  少女の縋るような目に校医は、ベッドに座ることを勧め、己も椅子に腰掛ける。 「この子に教えてやるのさ。人を憎むこと、人を騙すこと、人を卑しめること、人を傷つけること、汚いこと全部ね。それがどんな人間も持っていることを教えてやるのさ。そして、自身のそいつらときちんと向き合えれば、あるいは……」  難しい上に治るという確証はない。  もし、一海を捕らえている要因が、負を認めることが出来ないということだけでなく、他にもあるとすれば、さらに複雑に事が運ぶことも考えられる。だが、それ以外に方法がないのなら千尋にとって是非もなかった。  彼女自身に快楽を刻み、それだけでは飽き足らず親友にまで手を掛けた少年。  問いただしたくなる怒りもある。やり場のない憎しみもある。  しかし、それ以上に少年がどうしようもなく憐れで愛しいと思ったのは横で聞いていた北斗も同じだ。 「とはいえ、これが治らないとどうしようもないね」  指し示された一海は「あ〜ぅ」と不思議そうに見やるだけ。いくら、一海を元に戻そうにもこのままではまともな会話さえできない。 「これを治す方法はないんですか?」 「う〜ん。なんらかの精神的ショックに対する退避なんだろうけど、原因が分からないからね。同様の精神的なショックを与えるのが一番手っ取り早いんだろうけど。まぁ、結局は、甘えたい感情の具現化だからね。納得するまで甘えさせてやれば、元に戻るだろうさ」  それにどれほど時間がかかるのか。途方もないアドバイスを受けて千尋はさらに消沈する。  そのとき、菫の部屋に入ってくる一つの影。  少女が気を紛らわそうとそちらに振り返る最中。 「先生ぇ、ごめんなさい。腕……切っちゃった」  左手首を押さえて現れたのは泣き腫らした顔の洋奈だった。  *  時が凍った。  壁に凭れ掛かりながら青ざめた顔を辛うじて上げた洋奈は、その視界に今、もっとも見たくないものを見てしまった。  言わずと知れた一海の笑顔。親友の腕の中で無邪気な微笑を見せる姿は、今の洋奈にはせせら笑っているかのような映像《ビジョン》を見せつけるだけ。  編まれていない後ろ髪が逆立つかの如く波打つ。気配なく踏み出された一歩が彼女の長い黒髪を舞い上がらせたのだ。  少年まであと大股で一歩の距離まで迫ると、少女のか細い指先が小刀のように鋭く一海に向かって振り上げられた。  その間、約二秒弱。  ようやく思考が回復したばかりの一同に彼女を止める術はない。  北斗は、一海を抱えたまま動けず、観念したように目を瞑った。  刹那、乾いた音が二度響く。  腕越しに一海が小さく痙攣したのが分かる。そして、震えはしゃくり泣きへ替わり、それが終わると堰を切ったように溢れ出す喚き声。  少年は、恐る恐る目を開く。しかし、彼が予想したそこにある光景と現実は違った。  何故なら一海と北斗の前に立ち塞がったまま動かないのは、涙を流しながら大切な人を睨《ね》めつける千尋だったのだから。 「一海、ゴメン。でも、やっぱり私はあなたを許せない」  三人の頭の中には、盟約を定めたあの日、洋奈から聞いた言葉が甦る。 (このままでいいの? 洋奈は絶対にイヤ) (今日だけ変だったって理由で何もなかったことになっちゃうの?) (洋奈はこの子が謝るまで絶対に許せないもん!)  それは、千尋が望んだ決別の意思の現れだった。これほどまでない怒りと悲しみを秘めた瞳は、一時たりとも泣き喚く少年から目を逸らされることなく、言葉が吐き捨てられる。 「杉並……」 「苳島くんは黙ってて! 一海、あなたにもう一つの人格があることは分かってる。だけど、私の一番大切な親友を傷つけたことだけは許せない! 絶対に」 「ちー……ちゃん」  千尋の後ろで手を振り上げたままの格好だった洋奈が、親友の言葉に静かに上げた手を下ろす。 「手当てするよ。さぁ、こっちへ」  土井は、力の抜けた少女をベッドへ座らせて、上腕部をタオルで縛ると傷の深さを窺う。  骨に損傷はない。おそらく想像以上に出血が多く躊躇《ためら》いが生じたのだろう。タオルを緩め止血ガーゼで圧迫していくと、しばらくして出血は収まる。校医は丁寧に包帯で包《くる》んでやると大きくため息をついて微笑んだ。 「大丈夫、傷は浅かったから跡も残らないだろうよ。よく、頑張ったね。辛かったろうに」  胸の中へ抱き寄せられた少女から枯れたはずの涙がまた溢れ出していく。そんな少女の傍らで、一人の被告を挟んで、一組の検察と弁護人が言葉の応酬を繰り返していた。  泣き喚く一海。止まらぬ怒りを叩きつける千尋。現実を知っても親友を守ろうとする北斗。 「大体、どうして二重人格なんて持ってるのよ。全然、普通じゃない! おかしいよ。それに今だって幼児退行してる。まるで、私たちから逃げてるみたいじゃない!」  もう千尋は涙を止めることなどできず、引き裂かれそうになる心の痛みに任せ、誹謗の声しか上げられない。普段の知的で冷静な彼女からは、想像もできない口汚い罵りの言葉を受けて、親友の代弁者たる北斗も声を荒げる。 「せやかて、カズも望んでこんなんになったんとちゃうやろが!」 「分かってるわよ、そんなこと。だけど、世の中にはどんな理由があっても許せないことがあるんだって、私、今知ったよ。大切なものを傷つけられて理由があったから許してくださいなんて虫が良過ぎる! おかしいよっ!」  流石の代弁者もこの言葉には口を噤まざるを得なかった。  分かっていたのだ。北斗も少女の気持ちとまったく同じであるということに。  そんな二人に一つの声が割って入る。土井だった。 「確かにアンタの言い分も尤もさ。今の世の中は、ちょいと被害者よりも加害者の方が守られてるようにも見えるしね。だけどね、忘れないで欲しいことが一つだけあるんだ。人間は一人として同じ人間はいないんだよ」 「どういう……ことですか?」  思いも寄らない方向から弁護が聞こえて、千尋は声の主へと振り返る。その瞳は、枯らした涙で充血し、痛々しい心を雄弁に語っている。  しかし、土井は怯むことなく言葉を続ける。今、彼女たちを落ち着かせることができるのは、自分しかいないのだから。  洋奈の頭を優しく撫でながら極めて穏やかな口調で話し始める。 「先刻、精神骨格の説明をしたとき言ったろう? 気質は遺伝で根底的なもの。人格は対面する人にとって変わる移ろいやすい処世術。じゃあ性格は?」 「確か、子供のときに生まれる、その人の考え方とか目標みたいなものだって」 「半分は正解だね。けどね、大事な個所が抜けているよ。性格は移ろいにくく、そして、幼少の環境によって変化するって言ったろう。アンタは自分のことを普通だと考えているようだけど、普通なんてものはその人によって違う曖昧で不確かなものさ」  土井は諭すように、そして、お互いがよく考えられるように優しく話し始める。  幼い頃、皆は何を見て育ったのだろう。  幼い頃、皆は誰に何を教わったのだろう。  例えば、千尋と一海の性格が違うのは、どうしてなのだろう、と。  それは、両親の育て方によるかもしれない。甘やかして育てる親もいれば、厳しく育てる親もいるだろう。礼節を重んじる親もいれば、自由奔放に生きさせる親もいるかもしれない。  しかし、それだけだろうか。  兄弟姉妹の存在や、友達もそうではないか。近所のおじさんやおばさんや、本やテレビといった少なからず虚構の世界も、性格を形作る要因になるのではないのかと。  そして、子供というのは得てして大きな環境の変化を選べない。与えられたものを吸収する。そういうものではないかと、土井は自らの話を締めくくった。  土井の包み込むような言葉に安堵したのか、それとも親友の腕にあやされたのか、一海の泣き声は、いつの間にか止まっていた。  残る三人も各々に考えるところがあったようでそのまましばらく無言であった。  そんな中、最初に立ち上がったのは一番の被害者であろう、洋奈であった。  洋奈は、一海の記憶が一昨年前までしかないことや柚彌と名乗った別人格が一海の父親の名前であること。柚彌の人格が一海を乗っ取ろうとしていたこと。一海が父親に性的虐待を受けていたこと。三年前のスキー旅行にて父親を殺め、同行していた空音という少女を犯してしまったこと。  今日未明に知り得た全てを皆に告白した。  信じられないことに、洋奈は意識を高波に浚われた後も、微睡みながら一海の声に耳を傾けていたのだった。  そして、少女は親友に言わなければならない真実を噛みしめた。 「ちーちゃん、ゴメン……私、ずっと黙ってて」 「ずっとって、今日のことじゃない! 大体、ヒロにとっては一生の傷なんだよ。辛くて思い出したくもないはずでしょう? だけど、ヒロは正直に一海くんに起きたことを話してくれた。どうして謝る必要があるのよ」 「違うの。ずっと前に大和くんの呪われた名前の伝説、話したよね。その中で大和くんを守っていた強くて優しい少女の本名は、御潟空音。私のお姉ちゃんだったの」  突然の告白に千尋も、何気なく聞いていた北斗も目を丸くした。 「私は、お姉ちゃんが自殺するなんて信じられなかったの。だって、私にとっては強くて、優しい憧れのお姉ちゃんだったから。だから、大和くんに近付こうとしたのも本当は、大和くんなんてどうでも良かった。知りたかったのはお姉ちゃんがどうして自殺なんかしたのかっていうことだけ。それだけじゃない。ちーちゃんに親友だよって言ったときも、私は、どこかお姉ちゃんとちーちゃんを重ねていたんだ。本当は甘えたかっただけなんだよぉ!」 「ヒロ……もういいよ」  涙声で全てを語り尽くした後、力の抜けた千尋の言葉を聞いた洋奈は、身を震わせた。  酷い女と呆れられたのだと、少女は確信した。  当然だった。  親友と呼んだ少女を自分は、利用していただけなのだ。信頼させておいて、自分は信じていなかったのだ。  怒りに平手打ちがあればまだいい。親友は、平手打ちをする価値もないと自分を見捨てたのだと。  洋奈は、今までの嘘を噛みしめ、これから訪れるだろう心の痛みにぎゅっと力を込めて堪えようとした。  ところが、自分をなじる言葉さえ一向に放たれない。代わりに洋奈の身体は、温かく柔らかいものに包まれていた。それが千尋の身体ということを理解するのに時間が掛かる洋奈。 「大丈夫だよ。私はヒロのコト誤解なんかしてない。ヒロは、お姉さんが大好きだったんでしょ? だから、ちょっと焦っちゃっただけなんだよ、きっと」 「ちーちゃ……ん」 「それに、気付いてなかったと思うけど、ヒロってば素に戻ると自分のことを私《・》って呼ぶんだよ。普段は洋奈なのにね。本気かどうかなんてすぐに分かっちゃうよ」  涙を零しながら見上げる洋奈に千尋は、意地悪っぽくウインクして見せる。 「しっかし、カズって俺らより年上なんやなぁ」 「うん、一つ違いだけど。きっと精神的なショックで休学していたんだと思う」  そんな二人を遠めで眺めていた北斗は、鼻の下を擦りながら、驚きの新事実に話題を振った。  そんな折、北斗の腕を抜けだした一海が急に走りだした。 「あッ! おい!」  咄嗟に手を伸ばす北斗だったが、その手は無念にも空を掴む。  こんな状態で外に出られたら大変なことになる。千尋は、反射的に入口を塞ぐべく、洋奈から身体を離し扉の前に先行した。ところが、一海はその行動自体がまるでフェイントのように扉に向けていた足を90度回転させ、彼女の後ろをすり抜けると同時に、目の前をはためく黒いミニスカートを力一杯捲り上げていた。 「!」  突然の事に千尋の思考は停止してしまい、悲鳴さえ上げることができない。  北斗といえば手を伸ばしたほぼ真正面に彼女の下着を見据えることとなり、重力に引かれて裾が落ち着くまで目線を逸らすこともできない。  ゆっくりと振り返った千尋の顔は、怒りと恥ずかしさで真っ赤に染まっている。 「ライムイエロー……はっ! いや! これは事故やで」  伸ばした手を開き「タンマ」とばかりに彼女の前にちらつかせるが、とき既に遅し。  肉を打つ小気味良い音と共に北斗は床に叩き伏せられた。 「痛ぇー! なんで俺やねん」 「へっへーん。ばーか!」  そして、元凶の少年といえば洋奈に抱きついてその影から千尋に向かって「あっかんべー」と喧嘩を売っている。まるで、北斗たちが知っている一海とは似ても似つかぬわんぱくぶりだ。 「こんの!」  しかし、怒った表情の千尋でも、その心の中は落ち着いていた。  一海は望むべくしてこうなったわけではない。それが分かったことが彼女を優しい心にさせていく。  そして、皆は一呼吸の後、顔を見合わせてから全員一致で歓喜の声を上げる。 「しゃべった!」  当人の一海だけが、何が起こったのか分からず不思議顔で辺りを見渡すのだった。  *  まだ、本来の年齢には戻っていない様子ではあったが、会話が可能である以上、意識や思想の改革もできるはずと土井は息巻いた。 「本当にいいの? ヒロ」 「うん。私が一番大和くんに好かれているみたいだし、それに、きっとお姉ちゃんの面影を感じ取っているからだと思うの」  そして、本来ならば校医が務めるべき臨床心理士役を洋奈は望んで買ってでた。  決して簡単なことではない。  人の精神は人の数だけ存在する。その生き方や考え方を尊重しつつ、別の生き方や考え方を提示していくということは、偏《ひとえ》にお互いの信頼関係で決まるといっても過言ではない。  自身の身体を傷つけてしまうほど、少女は一海のことを憎んでいたはずだ。そんな彼女に任せて良いものか、校医も長く困惑していた。しかし、彼女の瞳に宿った光を見ると、これほど適任な者もいないと感じ取ったのも確かであった。 「それじゃあ、アタシたちはロビーで待ってるから。何か分からないことがあったら電話でロビーにつないでもらいな。できる限りのことはしてあげる」 「御潟……カズを頼むな」 「ヒロ、無理だったら先生に応援を頼むのよ」  土井に連れられるようにして、各々のエールを送り消える友。  洋奈は、見送りを済ませた後、部屋に静かに鍵を掛けベッドに戻った。  そこにはカモシカのパジャマを纏った幼さの抜けきらない少年がちょこんと座っている。  一目では純真無垢な女の子と間違われるような愛らしい姿。襲われることはあっても襲うことなどありえない、おとなしそうな少年。  けれど、彼女は知っていた。  知っていたからこそ準備ができた。  今一度、浴衣の乱れを正した少女は胸元に忍ばせていた空色のリボンを黒髪の頂きへと飾り、彼の真正面へ正座した。  御潟洋奈として一度たりとも見せたことのない姿。  それは、洋奈の敬愛する姉の。  そして、一海の盲愛する少女の。  最初で最後の降臨だった。 「聞いて、カズくん」  構わず押し倒してくる少年の名を呼ぶ。  彼の瞳はもう先ほどまでの子どもの眼ではない。  心を取り戻した一海の本来《・・》の性格。  幼少の頃に培われたのは、  弄ばれた性。  虐げられた憤怒や憎悪。  止めることができなかった悔恨と諦観。  そして、それらと比べると限りなくゼロと等しい小さな小さな愛情。  かつての一海は、空色の少女から与えられたミクロの愛情により、全てを押し込めるには、優し過ぎて脆過ぎる人格を形成したのだ。  根底に蠢く黒い感情を知られまいとして、常時偽りの仮面を被ることで与えられる小さな愛を貪ろうとしていたのだ。  だが、その姿さえも醜いことにいつか気付いてしまう。  自分の性格を否定した一海は、醜い性格全てに父親の仮面を被せた。そう、これは自分ではないのだと暗示をかけるように。  だが、移ろう人格が性格を隠し続けるなど無理なこと。  膨れ上がった性格は全てを飲み込む。  愛も。希望も。優しさも。  そして一海は、一海に還る。  そのことに土井が気付くのは、これから三十分も後のことである。  洋奈には分かっていたのだ。少女の手に握り締められたゴムが何よりの証拠だ。  覚悟はあった。  しかし、彼女には覚悟を賭してでも信られるものがあった。  だから、逃げない。迷わない。 「カズくん」  少女は、されるがまま、かつて無限に注がれた愛を瞳の光へと映し出し、少年の名を幾重にも重ねた。  限りなくゼロに等しい小さな小さな愛情の欠片を頼りに。  悠久とも感じられる時間、今では小さな背中を追い続けながら。  近付いて、転んで。遠ざかって、また走って。  いつか、大切な言葉が溢れ出していた。 「大好きだよ」  終章 嘘を護るため嘘を殺ぎ落とす者 chime1 「気持ちいい〜」  腕を後ろに胸を逸らした洋奈は、降り注ぐ陽光を浴びて心の底から感じた素直な気持ちを口にする。  昨年までとはまるで違う。それは、彼女自身が架した宿命を全うしたことによるものだろう。  少女は、太平洋を南下する客船の甲板に立っていた。  季節は初夏。南から迫る風を切り、波を割って進む蒸気船は、高くなった空へスチームを吐き出しながら進む。  目的地はもうすぐだ。 「あとどれくらい?」  そんな彼女から少し離れた後方より柔らかな、けれどどこか緊張したような声が響く。  少女は、声の元へ振り返る。  そこには見知った少年の姿があった。しかし、その声は、あの甘えたな鼻にかかった声ではない。  否、声だけではない。仕草も言葉遣いも少女のような雰囲気を潜めていた。かすかに面影を残すのは、靡くセミロングの髪をかきあげる姿だけ。体格や容姿はそれほどの変化はないものの、どことなく男の子へと近づきつつある、そんな気がした。 「あと、ほんの少し。でも、着水した場所は、もっと手前だったのかも」 「そっか。じゃぁ、もう初めてもいいかい? とてもじゃないけど、言いたいことが沢山ありすぎて、全部言えそうにないから」 「そう……分かった」  少年は、洋奈の承諾に一つ深呼吸すると、抱えていた花束を虚空へと放った。花束は風に乗って花びらを舞わせながら深い碧の海へ落ち、白い波の奥へと消えていく。  その姿の一部始終を目に焼き付けた一海は、静かに瞼を下ろし祈りを捧げた。 「ソラちゃん、秋の海はさぞ冷たかっただろうに……全て、僕の所為だ。本当にごめんなさい」  少年の声は震えていた。  両の目尻からはとめどなく涙が溢れ続ける。  しかし、たったそれだけの言葉で彼は、自分の想いを抱えきれずに、しゃくりだしてしまう。  父親を殺したときも、一海は、柚彌という負の性格を溢れ出させるにとどまった。だが、小さな真実の愛を教えてくれた少女を失ったとき、幼い少年は記憶を失うほどの、自分を保っていられなくなるほどの強い衝撃に襲われたのだ。  そして、記憶を失った後に形成された優し過ぎる少女のような人格。それは、きっと憧憬とも懺悔ともつかぬ深い感情が、彼の中に空音を生きさせる手段であったのだろう。  どれほど大切な人であったか。  背中越しに眺めていた洋奈にも、その痛みは充分に伝わった。  もしかしたら、一海以上に空音の存在を渇望した者は、後にも先にも、例え世界中を探したとしても、いないのではないかとさえ思えた。  だから、彼女は動いた。しゃくり続ける一海の背中を抱く。 「カズくん、もういいんだよ。お姉ちゃん、きっと許してくれる。ううん、今までだってきっと怒ってないよ。だって、悪いのはカズくんじゃない。お姉ちゃんを殺したのだって、あの葛姫っていう女なんだから」  そう。全ての記憶を取り戻した一海に、もう一つ悲しい運命が待っていた。  今まで少年を育ててきた叔母も幼少の一海へ、柚彌と結託し性的虐待を繰り返していた。 その異常性癖は徐々に一海への独占欲を肥大させていき、ついには空音をフェリーから突き落とすにまで至ったのだ。  だが、そのことを思い出した一海は、もう自分を隠そうとはしなかった。今、叔母は長い服役についた。しかし、それは同時に一海が天涯孤独の身になると同義だ。  少年もこの日が暮れれば、児童自立支援施設へと移る。九州の山道沿いにある小さな舎《まなびや》。当然、皆と会えるのも今日が最後だ。  たった一日だけ与えられた自由な時間。  一海は、皆と一番大切な人への墓参りを望んだ。保護観察官はついていない。逃げだそうと思えば、例え数日でも長く皆と過ごせただろう。しかし、一海は凛としていた。まるで、望むところというように。 「でも、僕がお父さんを殺したのは事実。そして、ソラちゃんを……深く傷つけたのは変えられない真実なんだ」  少年は甲板の鉄柵にしがみつく。涙は収まってきていたが、代わりに深い悔やみと憤りが彼の心を焼く。 「適うなら、この身体を捧げて終わりにしたい」 「ダメぇっ!」  言葉が終わるや否や洋奈の責が飛ぶ。 「それだけは絶対ダメっ! 死んで後悔するのは自分だけじゃないんだよっ!」  洋奈は思い出す、左手首の傷を。今ではすっかり傷跡も消えた、けれど深く心に刻まれた確かな傷を。  憎悪ではない。  そこに残るのは、暖かで少し切ない感情。千尋と結ばれた真の絆だ。 「ヒロのいう通りだよ。カズミが死んだら私たちも絶対後悔する。どうして苦しみを分かち合えなかったのか、どうして止められなかったのかって」 「杉並のいう通りやぞ、カズ。俺たちはどこにいても親友や。これからもずっと、な」  デッキへ上がる階段から千尋と北斗も現れる。  二人の声を背中越しに聞いた一海は、再びしゃくりあげて泣き出してしまう。しかし、それは後悔で流した涙ではなかった。支えてくれる大切な人たちへ思う感謝と、また会える日までと再会を祈る決別の代弁だったのだ。  涙が収まった一海は、穏やかな海原へ、空へ叫んだ。天まで届けとありったけの心と声を絞りだして。 「ソラちゃん。僕、生きるよ。代わりにはなれないけど、僕が僕らしく精一杯に。君が本当は、望んだように!」  空から音が聞こえる。  風が哭《な》いた音ではない。  確かな波紋が彼らの耳へ届く。  ガ、ン、バ、レ  四人は顔を見合わせて、誰ともなく全員が抱き合うのだった。                 FIN. chime0  毎度喉の下で止まる言葉があるんや。  そいつはな、決まってアイツと会《お》うとると腹の底から沸いてくるんや。  だけど、アカンのや。今言うんは反則やから。  アイツらは、あっという間に克服しちまったのにな。  ホンマ、敵わんなぁ。  何にも言えへんのと、嘘でも言えるんと、どっちが楽で、楽しいんやろ?  教えてんか。  |小さな《Little》 |嘘が《Lie》 |好きな者たち《Likers》。