ジギタリス 「助けて・・・」  声が響いた。  とってもぼわぁ〜っとした輪郭のない声。  朝露を集め、緑鮮やかな葉から水面に落ちた一滴の雫は水面に波紋を描き、どこまでも どこまでも広がっていくように思えた。しかし、波紋は私の足下でふっと拡散してしまう。 顔を上げると広がっていったはずの波紋たちもどこかに消えてしまっていた。  周りを滑る私の視線に一つの何かが絡みついた。  中心。  そう、一滴の雫が落ちた場所に何かがいる。  ここからじゃ、よく見えないよ。  私は中心に向かって駆け出す。一歩踏み出すたびに青い輝線が足下を舞い、新たな波紋 を描き出していく。波紋と波紋は交差するごとに、新しい輝線が爆ぜる。何故か、とても 周りがスローモーションで映っている。  でも、近づくにつれて輪郭のない声は少しずつ輪郭を取り戻してきている。  男の人の声・・・?  確信は持てなかったけれど、そう思えた。  視線の先に声の主が映る。  小さい。  思ったよりずっと小さい。  だって、キミは・・・・・・・・・・  § 「・・希・ん・・・・乃優・さん!!」  遠くから聞こえる呼び声。  名前を呼んでいるみたい。  誰の名前だろう?  の・・・  ゆ・・・・・  き・・・・・・・  のゆき・・・・・乃優希・・・・・  あれ? それって、私のなま・ぅえ〜〜〜ッ!  突然、浮遊している感覚が消え失せた身体は下方に引っ張られ、受身をとる前に顔をし たたか打ち付けてしまう。  あ痛たたたたたた・・・・・。  あれ・・・・・?  目を開けると、辺りは見覚えのある一室。そして、目の前には見覚えのある女のヒトが 一人。 「あれ? 山吹先生。どうして、こんなところに?」 「・・・おはよう、乃優希さん。さぞ幸せな夢を見ていらしたのねぇ? 先生、是非その お話を聞いてみたいわ。放課後、職員室でゆっくりお話を伺うわ、いいわね?」  冷ややかな笑みを浮かべられて、私の背中に何か重いものが憑いたような気がした。  みぅぅぅぅ。  §  結局、職員室でのお説教から解放されたのは放課後から優に2時間を回ってからで。 「みぅぅぅぅ。疲れたぁ。」  背中に憑いた重いものを取り払うように、私は緊張していた肩から力を抜いた。それで も重いものは憑いたままだったので、首の運動を織り交ぜ、大きな背伸びをして、ようや く憑物を取り払う。 「今日は私が食事当番なのにぃ・・・ふみぃぃん。」  機嫌が悪いときに作る料理は美味しくないんだよぉ〜。先生の馬鹿ぁ〜。  私は軽くなった肩をくるくる回しながら、足早に脱履場へ向かう。途中、何人かの部活 動をしている友達に挨拶しながら。でも、よく考えたらみんなも酷いよね〜。別に起こし てくれてもいいと思うんだけどなぁ。・・・でも、起こったことをクヨクヨしてもしょう がないよね。今日は部活も無いし、すぐに帰れるってことだけでもラッキーなんだって、 良い方に考えなきゃ。  脱履場から革靴に履き替えて外へ出る。 「ぅ・・わぁぁぁぁぁ・・・・・」  西の空はちょうど夕暮れ時で、目の前は一面朱に染まっていた。  とても、とても、とーっても綺麗な夕焼け。こんなに綺麗な夕焼けを見たのは初めてか も知れない。私は嫌なこともすっかり忘れて夕陽を眺めながら、いつもより少しだけ遅い 帰路に着いた。  §          私の名前は、高峰 乃優希(たかね のゆき)。藤稜学園(とうりょうがくえん)2年 のとっても普通の女の子。所属部活動は新体操部で、練習日は月、水、木、金、土曜日。 毎週火曜日は第二体育館を同好会が利用することになっているから、私たち第二体育館を 練習場とする新体操部は毎週火曜日が定休日なんだ。え・・? 成績はどうなのかって? う〜ん、私のネックはこの背の低さなんだよね〜。スレンダーなこのボディは向いている と思うんだけど・・・・・って、今、物は言いようとか、洗濯板とか言った人いない!?  コホン。まぁ、それはさておき、学園から家までは私鉄で15分、徒歩で10分ってと こかな。登下校時間としては丁度いいぐらいだと思う。都心から少しだけ離れたこの地区 は人もまばらで、大体席に座れるしね。ぼーっと外を眺めていたり、雑誌を読んでいたり して、この時間はあっという間。  駅から出ると夕焼けは夕闇に変わり、街頭が辺りを照らし始める。この辺りは、小さな 住宅街なんだ。中心にある日高公園はこの町のシンボルで休日はちょっとした賑わいを見 せている。その公園に続く公道は広く、商店街にもなっている。商店街を抜けると公園を 包むように、5,6階建てのマンションがいくつも建っている。その中の一つの一室が私 の家。今は、お父さんと私の二人暮し。お父さんは放送局で働いていて、多忙な日々を送 っている。食事は当番制で交互に作っている。もちろん、忙しくて出来合の物を頼んでし まうこともあるんだけど、ね。  だけど、今日はあの夕焼けを見てちょっとやる気になってしまった私は、商店街のスー パーでじゃがいも、たまねぎ、ひき肉、etc...を買い込み、意気揚揚として家に向 かった。と、商店街から住宅街へ移り変わる交差点の街頭の元に一つの不思議な物体が横 たわっているのを見つけた。 「あれは?」  私は不思議に急いでその元へ駆け寄る。不思議な物体はどうやら動物みたいだった。私 の両手の平に乗るぐらいの大きさ。色は淡い橙色と白。ハムスターのようにもみえるけど 垂れ下がった耳は全身と同じぐらいの長さを持っている。 「ウサギさん?」  私は屈みこんで、その不思議な動物に声を掛けて見る。でも、その子はうつ伏せになっ たままピクリとも動かない。車に轢かれたりしたのなら、それなりの外傷があるはずなの に、その子にはぱっと見で外傷は見当たらなかった。私は恐る恐る、その長い耳を撫でて 見る。瞬間、全身がビクンと跳ねてその子は仰向けにひっくり返った。 「!!」  そして、次の瞬間、今度は私が悲鳴を上げそうになっていた。その子の腹部には爪痕の ような大きな傷が刻まれ、そこから脈々と朱いものが流れ出していたの! 私は悲鳴を押 し止めて、すぐにその子を両手で抱え上げると、一目散に家に連れて帰った。  ドアを開けてリビングに鞄と買い物袋を放り投げて、救急箱片手に自室へ篭る。本棚の 中から、記憶を辿り、動物の救急の仕方を書き記してある本を引っ張り出して、その通り に止血をして包帯を巻いてあげる。終わった頃には、私の手の中ですっかり動きを止めて しまっていた。痛みで失神してしまったみたい。まだ微かに鼓動はあったけれど、体温を 失ってきているような感じだった。私はベッドにこの不思議な動物さんを横たえ、毛布を 被せてあげる。私に出来ることは全てやったと思う。ここからは、この子自身の生命力に 懸けることしか出来ない。私は自分に言い聞かせて、静かに部屋を後にした。  §  その後、私はなるべく悪いことを考えないように、夕食作りに専念することにした。隣 にいても何も出来ないと思ったし、何より弱弱しく鳴かれる声を聞くことが嫌だったから。  今日の夕食の予定は、本当は手間の掛かるコロッケを作ろうと思っていたけど、あの子 が食べられるものって考えると・・・やっぱり、こういうときは温かいものがいいよね。 ・・・決めた!  私は冷蔵庫にあるものを確認する。  にんじん・・ある。卵・・・もあるし・・・ホワイトソース用の小麦粉・・・バターに ・・・・ん! 大丈夫だね。よぉし! 頑張るぞッ!!  私は無心で、料理に集中する。 「みんなに喜んで欲しい、そして、みんなを元気にしてあげたいって強く思うの。それが、 お料理を美味しくする秘訣・・・お料理はね、乃優希の愛情を貰うともっともっと美味し くなるなるのよ。」  そして、無意識のうちに、私は母の口癖を復唱していることに気付いて、舌を出した。 「あ〜ぁ。どうして、こんな時にあの人のことなんか思い出しちゃうんだろう・・・」  母は、私が10歳のときに家を出ていった。お父さんと私を捨てて、違う男と何処かに 行っちゃったんだ。今でも、私は母を憎んでいると思う。小さい頃、私に料理の作り方を 教える度に、愛情、愛情って口ずさんだ母は、お父さんの為に料理を作っていたはずなの に。愛情を込めて。でも、母は違う男といなくなっちゃった。おかしいと思う。どうして、 愛情を込めた人を捨てることが出来るんだろう。私には解らなかった。母の言葉の意味も 本当かどうかも・・・それは、信じれないからなのだと思う。  私はひき肉に塩コショウを振り、片栗粉と白身を合わせて丸めて鍋の中に沈めた。それ から小麦粉とバターを炒めてホワイトソースを作る。  さて・・と。もう、お解りですね〜今日のメニューは肉団子入りシチューで〜す。えっ へん。もうちょっと、出来るまで時間がかかるけどね〜。  私はチラリと時計を見る。午後8時。  お父さんは今日も遅いみたい・・・みぅぅぅぅ。早く帰ってきたら、あの子のこと診て 欲しかったのに、残念。私のお料理で、あの子が元気になると・・いいな・・・・・。  カチャ。  §  私はうっすらと目を開けた。 「あれ・・・私・・・」  違和感。私はベッドで眠っていた。しかも、掛け布団がきちんと肩まで掛かっている。 「あれ・・・?」  ベッドから上半身を起こし、窓に振り返る。カーテンの隙間からは暖かな日差しが差し 込んでいて、ツバメさんやスズメさんの鳴き声が響いていた。 「あれ?」  記憶が曖昧になっていた。 「私って、いつ寝たんだろう? それに・・・なんだか・・とても寒い・・・ような気が したのに・・・・・風邪・・だったのかな?」  私の声が部屋の中で小さく消える。私はベットから降りて、リビングへ歩いた。  と・・・ 「あれ? なんで私の机に救急箱が置いてあるの?」  私の視線が、机の救急箱を見つけた。不思議に思いながらも私は救急箱を手に取る。  お父さんが出しっぱなしにするなんて、思えないけど?  リビングに返しておかないと・・・ね。  ドアを開ける。  ダイニングテーブルには見慣れたお父さんのメモ。 <乃優希へ 昨日はどうしたんだい? 夕食も中途半端になっていたけれど、もし体調が 優れないようなら、今日は学校を休みなさい。いつもお前には迷惑をかけてすま ないと思っているが、お父さんは今日、大切な会議があるので仕事を休めない。 もし、何かあったら携帯に電話を入れるように。 PS:途中だったシチューは作っておきました。コンロの上に置いておくので、 温めなおして食べなさい。無理はするなよ。 父より。>  シチュー・・・? 私が作っていたの?  コンロの上にはそれらしいお鍋が置かれている。ダイニングテーブル上のデジタル時計 は、水曜日・午前9時15分に切り替わる。もう、一時限目が始まっている。私は、一応 学校にお休みの連絡を入れてダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。  昨日・・・火曜日・・・私は・・・・・。  混沌とした記憶。思いだそうとすると、砂嵐が吹き荒れるように記憶が霞んでしまう。 私は一つ一つ思い出すように、声に出し、メモに書き記しながら、記憶を辿った。 「火曜日。昨日は、学校に行ったんだよね? それで、いつも通り授業を受けて・・・ん、 そういえば、授業中に居眠りしちゃって、放課後にお説教されたんだっけ。」 「・・・う〜ん、それから・・・そう! 夕焼けが綺麗だったんだ。で、部活動は定休日 だから、そのまま帰って・・・食事・・・あぁ、そうか。私が食事当番だから、スーパー に買い物に行ったはずだよね。え〜っと・・何を買ったんだっけ? あ、レシート見れば 解るよね。」  私は鞄を取りに自室に戻る。でも、自室に鞄はなかった。 「あれっ? 私、鞄、何処に置いたっけ?」  ダイニング、キッチンを探しても見つからない。仕方なく、救急箱を戻す序にリビング を見ると、そこに無造作に置かれていた。  変なの。こんなところに置いた記憶なんて無いのに・・・。  私は理不尽さを隠せないまま、救急箱を元の棚に戻し、鞄の財布から昨日のレシートを 取り出した。 「えぇっと・・・じゃがいも、たまねぎ、ひき肉、エトセトラ・・っと。・・で、なんで シチューなのにひき肉なんだろう? 肩肉でいいと思うんだけど。それに、シチューって 冬食べるのが美味しいのに、なんで今ごろ? まるで、温かくするための料理みたい。」  でも、一通り思い出してみても、核心の家に入ってからの記憶には届かない。思い出そ うとすると、何度も脳裏を砂嵐が通りぬけて、頭痛が激しくなる。 「みぅぅぅぅ。しょうがない。お目覚めのしチュー・・なんちゃって。えへへへ。って、 冗談なんか言ってないで、食べて気分転換しよ。」  そのまま、弱火でお鍋をコトコト温めること、10分少々。お鍋付近のシチューがコポ コポってなってきたら大丈夫。あ、もちろん、お玉でかき混ぜないとダメだからねっ☆  充分に温まったシチューをお皿に移したところで、私は気付いた。 「あれ? そういえば、お肉の代わりに肉団子が入ってるね・・・なんで、こんな面倒な お料理作ろうって思ったのかな? それとも、急に献立を変更・・?・・それなら、どう ・・・・・・・・・・あ、あれっ?」  違和感。まただよ。今考えていたことが頭の中から消えてなくなっちゃった。私は手元 のメモを見る。”肩肉?”って走り書きが最後だった。レシートを手に取り、肩肉を探す。 見当たらない。代わりに見当たったのはひき肉で・・・。 「あ〜〜っ! もう、解んないよッ!!」  私は、大きくため息を吐いてから、目の前のシチューに勇猛果敢に取り組んだ。  美味し。  §  そうして、しばらく記憶を辿っていた時、インターホンが鳴った。 「は〜い。」  玄関横に取り付けてある応答器までトットットと走る。昨日風邪を引いたとは思えない ほど、身体は軽やかだった。 「宅急便で〜す。」 「あ、は〜い。」  カチャ。  §  音に振り返ると私の部屋の扉が少し開いていた。  もしかして、あの子が元気になったのかも!  私は一度コンロから火を止めて、ダイニングに振りかえる。でも、振りかえったダイニ ングも、その奥の私の部屋も静寂に包まれているだけ。もしかしたら、留め金がきちんと 掛かっていなかっただけかも知れない。私は少しだけため息をついて、自分の部屋のドア に近付いた。その時! 「騒ぐな。」  突然、私は後ろからくぐもった声を投げかけられて、喉元に何かを突き付けられてしま う。  何がどうなったの・・・?  ただ、私は動けなくなっていた。声に従うつもりはなかったけど、恐怖が私の身体を縛 り付けてしまっていた。知らない声の主が私の後ろにいる。そして、喉元に突き付けられ た何か。視界には「乃優希の部屋」と書いてあるプレートとドアしか映らない。  何がどうなったの・・・?  もう一度、同じ問いを繰り返しても答えは解らない。言い知れぬ恐怖だけが募っていく。 肢が震え、視線が泳ぐ。もう一度、声が響く。 「動くな。抵抗するなら、コロス。」  抑揚のないくぐもった男の声に私の恐怖心は一層煽られる。もう、震えを止めることも 出来ない。  どうして? どうして、知らない人がいるの? どうしてッ?!  声に出来ない悲鳴が脳裏で交差する。その時、脳裏に閃いたことがあった。  そうだ・・! 私、帰ってきたとき、鍵を閉めてないっ!! あの子を抱えてたから!  脳裏にフラッシュバックのように私の記憶が蘇る。その私は確かにドアのカギに手を触 れていなかった。じゃ、後ろの声の主は・・・!!  その答えはすぐに出た。男の腕が私のスカートの中に伸びていって・・・私は刹那的に 息を吸いこんでいた。でも、男は私の行動なんかお見通しみたいに、ゆらりと喉元に当て たものを視線の先にちらつかせる。  研ぎ澄まされた包丁だった。刃はこれでもかというほど磨かれていて、そこには私の恐 怖に引き攣った顔が写っていた。 「言ったよな。抵抗するならコロスって・・・」  くぐもった声は少なからず怒気を含んでいるように思えた。包丁が一度私の鼻先を掠め るように動く。 「ゆっくり、複数回に分けて、今吸いこんだ息を吐け・・・二度目はない。」  恐怖に支配された私はいうことを聞くことしか出来ない。私は瞳を閉じて、言われた通 りに3回に分けて息を吐き出した。すると、男の指が活動を再開する。制服のスカートを たくし上げ、ショーツの上から秘部を擦る、ゴツゴツとした男の指。私の心はおぞましい 感情に支配され、悲鳴を上げることさえ出来なくなっていた。全身には鳥肌が立ち、震え はピークに達し身体を支えるのがやっとで、男の徐々に荒くなっていく鼻息に気持ち悪さ もピーク直前に達していた。  いやだ・・・怖い・・・誰か・・・助けて・・・いや・・・いや・・・・・  男が嗤ったように思えた。  いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・・  § 「!?」  全身が粟立っていた。 「あ、ここにサインお願いします。え・・っ!! 大丈夫ですか? 顔色真っ青ですよ?」  私の顔を見上げた瞬間に、運送会社のお兄さんは驚いたように声を上げた。 「え・・っ・・あっ・・・だ、大丈夫ですっ! すみません、ちょっと今日は風邪で学校 休んじゃったから・・・寝てれば直ります。じゃ、サインこれでいいですか?」  震える手をなんとか押し止めながら、私自身解る悲痛な笑顔で運送会社のお兄さんを見 送り、そして、扉を閉める。  カチャ・・ン。  私は荷物を落とすように下ろし、扉の鍵を掛けた。震えは更に酷くなり、しばらくここ を動けそうにもなかった。荷物の上にへたり込んで、床を見つめる。グルグルと頭が掻き 回されるようで、気持ち悪くて吐きそうだった。そして、それ以上に、燃え上がるような 熱さが全身を襲い、私は涙を流すことしか出来なかった。 「・・・思い出しちゃった・・よぉ・・・」  苦しいよ・・・  悔しいよぉ・・・ 「ぅっ・・わぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっっっっっッッッッ!!!!!!」  そして、張り詰めた糸が切れて・・・私は、激情のまま床を、壁を、自分の腕に痣が残 るほど叩きつけていた。やり場の無い後悔と憎悪は私自身の無力さを標的にして、自虐的 な行為に走らせることしか出来なかった。  §  玄関の壁に身体を預けてどれぐらいの時間が流れたのか。全身が重くて、ベッドに戻る ことさえ苦痛だった。  投げ出された全身はだらしなくて、汚れていて・・・・こんな身体はいらなかった。  ・・・汚イ・・・汚レテル・・・ダメ・・・洗ウ・・・綺麗ニシナクチャ・・・  脳裏に響く言霊に従うように、私はユラリと立ち上がる。  バスルームに入り、洗面台から石鹸、ボディーソープ、シャンプー、トリートメント、 リンス・・・ありとあらゆる洗剤を取り出し、シャワーを捻る。水温は殺菌のために熱湯 を指定し、浴びる。  ・・・熱イ・・・痛イ・・・ダメ・・・逃ゲタラ・・・バイ菌ガシナナイ・・・  タオルに石鹸とボディソープを擦り付ける。  顔、首、うなじ、肩、脇、胸、腕、肘、胴、腰、背中、手の平、手の甲、指、足の裏、 足の甲、踝、脛、膝、腿、内股・・・・・全身にタオルを擦り付ける。何度も、何度も。  ・・・落チナイ・・・染ミ込ンデル・・・コレジャ・・・一生・・・取レナイ・・・  全身が赤く腫れ上がって、ようやく私の手は止まった。でも、虚ろな視線がカミソリを 捉えたとき、私の手は自然に伸びていた。  ・・・染ミ込ンデルナラ・・・ソノ分ノ・・・皮ヲ・・・剥ガセバイイ・・・  何の躊躇いもなくカミソリ刃が私の手首に当てられる。  ・・・ソウ・・・ソノママ・・・上ヘ・・・  プツリと小さな音を立てて、手首から一筋の赤い雫がカミソリ刃を伝って床へと落ちる。  そして・・・ 「キュキューッ!」  力が入る直前だった。手首に橙色と白の物体が飛びついてきて、私はカミソリを落とし てしまう。そう、昨日拾った不思議な動物の仕業だった。私が寝ている間にすっかり元気 になったみたいで、その子は私の手の上に座りこっちを見つめた。  クリクリした純粋無垢な瞳で。 「・・・ダメ・・じゃない、悪戯・・しちゃ・・・・・」  枯れたと思ってた涙がまた溢れてくる。 「キュウゥゥ」  反省したように小さくなってから、その子はテテテテ・・・と肩まで上ってきて私の頬 に伝う涙を舐めた。それは、まるで私を慰めてくれているようで・・・私は止めようとし た涙を止めることが出来なかった。 「バカァッ! 君が・・君があんなところに転がってなきゃ・・・私は・・・私はッ!」  目の前が霞む。やり場のない思いが止まらない。溢れてくる。私はその子を激情に任せ て振り落とした。そして、流れるまま、石鹸や桶を投げつける、滅茶苦茶に。何個かが、 その子に命中した。けれど、その子は私の目の前まで舞い戻ってきて何度も何度も鳴いた。 「・・・どうしてッ・・・どうして、こんなことになっちゃったの!」 「キュウウ・・キュウゥッ」  答えはなかった。だけど、私はそのまま泣き崩れて・・・意識を失った。  §  何度この違和感を感じ得たことだろう。次に私が目覚めた場所は自室のベッドの上だっ た。 「あ、あれッ?」  私は掛けられていたシーツを跳ね除け起き上がる。  なんで? 私、さっきまでバスルームで・・・。  バスタオルに巻かれたままの格好が、遠くなった記憶を後押しする。 「どうして・・・?」 「・・・・これ以上隠し通すことは出来ないか・・・・」  静寂な空間に響いた一滴のような声。透き通った青年男性の声だった。 「だ、誰!?」  少なくとも、私の知人でこんな綺麗な男性の声を聞いた覚えはない。私は、身体を強張 らせて、シーツを引き寄せた。 「わたしは・・・君に詫びなければならない。」  そして、その声と一緒ベッドの下から現れたのは、あの不思議な動物さんだった。それ は奇妙な光景で、滑稽にも見えたし、神秘的にも見えた。私は言葉を忘れて、ただただ、 ベッドの上に座りなおすことしか出来なかった。 「多分、君は今夢を見ているのではないかと思っていることだろう。しかし、これは紛れ もない現実だ。」  『彼』はそう前置きして、私にお話をしてくれた。  『彼』の名前はフォックス。そして、元々この世界の住人ではないということ。彼の住 んでいる世界は、この世界で魔法と呼ばれる不可思議な能力で繁栄している『グリーン・ ウィーヴァー』という世界で、彼はその能力の悪用を取り締まる、簡単に言ってしまえば この国の警察官みたいなものという風に説明した。そして、この世界に逃げ込んだ罪人 (ギルティ)を追ってここまできたんだけれど、罪人に不意を突かれ、反対に大怪我をし て意識を失ってしまう。そう。今ではすっかり消えかかっていたけれど、あの痛々しかっ た傷は、罪人に負わされた傷だということ。 「わたしは、運良く君に命を救われた。あと、30分手当てが遅れていたら、この命は無 かっただろう・・・本当に礼を言うよ。ありがとう。」  動物の姿格好でもフォックスさんの表情はとてもよく解った。ちゃんとお辞儀までして くれるので、私もなんとなくお辞儀を返してしまった。そのフォックスさんの表情がとた んに険しくなり、言葉も言い淀んだ様子に私は言いたいことを理解する。 「・・・大丈夫です。続けてください。」 「・・・解った。」  フォックスさんはコクリと頷いて、話を再開する。 「わたしが目覚めたのは君の心の悲鳴を感じたからだ。」 「心の・・・悲鳴?」 「そう。我々の魔法によって君の精神が精神感応、つまりテレパシーとしてわたしに伝わ ったんだ。助けて・・・と。わたしがドアを開けたとき・・・君は・・・犯される・・・ 直前で・・・わたしが姿を見せたことで、君に仇なす者は慌てて逃げていったよ。」 「・・・え!?」 「大丈夫。君は汚れてなんかいない。綺麗なままだ。」  私は彼のその言葉が嘘じゃないかと思った。でも、フォックスさんは真剣に私を見詰め てくれてくれていて、その言葉が嘘偽りでないことに気付く。私は歓喜の叫びを手で覆う。 「・・・すまない。早く真実を伝えておけば、君がこんなに苦しむことはなかっただろう。 だが、本当に詫びなければならないのは、ここからなんだ・・・。」 「どういうこと?」  フォックスさんの真剣な表情に私の表情も真剣になっていく。  本当に詫びなければいけないことって何? 「君の一部の記憶を消したのは解るね。あれは、わたしがやったことだ。異世界間のコン タクトは『グリーン・ウィーヴァー』では禁止されており、我々の記憶は抹消しなければ ならない。わたしも、本来ならこのまま君の前から姿を消すべきだった。しかし、君には 真実を告げなければならなかった。なぜなら、君の心はわたしと共有した記憶がなければ 死んでしまうほど傷ついていたからだ。」  それは、きっとあの自虐的な私のことを言ってるのだと思った。私はあのとき心の何処 かで死を望んでいた。フォックスさんがカミソリを払ってくれなかったら、本当に生きて なかったかもしれない。 「しかし、それはわたしの自己満足に過ぎないのかも知れない。わたしは今から君を殺さ なければいけないのだから・・・・・」  息を飲む。フォックスさんの視線は少しも変わらずに、ずっと私を見詰めている。その 表情に、嘘偽りは感じられなかった。私は言葉を失って、ただ沈黙することしか出来ない。  § 「・・・私は・・どうすればいいの?」  答えなんかなかった。記憶を曖昧にされて傷ついた心に乱される毎日も、明日のお日様 を見れないのもイヤだった。どっちか選ぶなんて出来ない。どっちの未来もイヤだよッ! そんな、私を見兼ねてかフォックスさんが最後の選択肢を提示する。 「君の記憶も命も失わない方法が、一つだけある。しかし、これは君にとって、もっとも 辛い選択かも知れない。」 「・・・それは?」  私は藁にも縋る気持ちでフォックスさんを見詰める。 「君が、わたしと共に罪人を捕らえるためにパートナーとして力を貸してくれることだ。 だが、わたしのあの傷を思い出してくれれば過酷なのは解ってくれると思う。もちろん、 わたしの出来うる限りの力で、君を護ることを誓う。しかし、それでも命の保証は出来な い。それでも、君が平穏な生活を取り戻す為に残された道はこれしかないんだ。」 「私が・・・?」 「・・・そうだ。今から君にわたしの魔法の力を分け与える。君はその力でわたしと共に 戦うことを余儀なくされる。それでもいいのなら・・目を閉じてくれ。それも否なら逃げ 出してくれて構わない。ただ、次に出会った時、君の命はないと肝に銘じてくれ。もし、 記憶を失っても構わないというのなら・・ベッドに横になってくれ。すぐに終わる。」  そこまで言いきると、フォックスさんは長い息を吐いて、再度私を見詰めた。 「・・・最後に一つだけ言わせてくれ。運命は諦めない限り切り開ける。君がどんな選択 をしても、決して諦めるな。諦めない限り、運命の舵は君が握っていることをどんなとき でも忘れるな。・・・命の恩人にせめて贈れるわたしの言葉だ。・・・・・許せ・・・」  その小さな首を横に振って、フォックスさんは口を噤んだ。  でも、もう私の答えは決まっていたよ。  だって、あんな思いをするのもイヤだったし、もちろん死にたくもないしね。  それに・・・・フォックスさんに罪を・・被せたくなかったもん。  私は一つ大きく深呼吸して・・・そして、目を閉じた。 「後悔しないか・・・?」  優しい声に私はプルプルと首を大きく横に振って、 「怖いケド・・・頑張って見る・・・」 「ゲームじゃないんだ・・・死ぬかもしれない。」  私が笑ったのを見て、声は鋭さを増した。  でも、私は笑った。 「大丈夫。こんなに、私のコト心配してくれるヒトが護ってくれるんだもん。死なないよ、 きっと・・・大丈夫!」  みぅぅぅぅ〜これって超恥ずかしいセリフな気がするぅ。やだやだッ、私、今、どんな 顔で言っちゃったのかな? ふみぃぃん、私ったら動物さん相手に馬鹿みたいだよぉ・・ ・・・!!・・んッんんッ!!  瞬間、唇に押し当てられる温もり。  !!??  全身が緊張する。  私はこの感触を知らなかった。  甘いような・・・・酸っぱいような・・・・温かくて・・・・柔らかくて・・・・・・  ぅきゃッ・・やッ・・・なんだか怖い・・・・口の中で・・動いてッる・・ふぁッ・・  はンッ・・・・あぅっ・・ヘン・・・なんか・・ヘンだよぅッ・・・・・怖い・・ッ・  ・・・はずなのに・・・・私・・・ドキドキしてる・・・・ヘンだよッ・・・私・・・  フォックス・・さん・・・・私・・私ッ・・・ダメェッ・・ふぁぁああああああッッ!  力が入らなくなって、私はベッドに身を投げ出した。でも、私の背中はいつの間にか誰 かの腕に支えられていて・・・・・・・・・・・・・・・・・あれ? 腕・・って???  目を開けた私の、本当に目の前には、 「これから、よろしく頼む。高峰 乃優希くん。」  微笑んだ綺麗な男の人が、私を支えて立っていた。その綺麗な人から紡ぎ出された声は さっきまで聞いていた声にそっくりで、 「え・・っと? フォックス・・さんですか?」  私は明らかに気の抜けた声で目の前の男性を呼びかける。そんな声でも彼は気さくに笑 ってくれていて、 「この姿では初めまして、になるのかな?」 「・・あぅ・・あッ・・の・・・・初めましてッ! よ、よろしくお願いします・・・」  なんだか恥ずかしくなって、真っ赤になって、小さくなって、無我夢中で、私の挨拶は 最悪だったような気がする。  §  私はバスルームでパジャマに着替えてから、フォックスさんに魔法世界の色々なことを 教わった。他愛のないお話ばっかりだったけど、フォックスさんの紡ぎ出す世界は信じら れないことばかりで、私は夢中になって聞き入っていた。ううん、きっと違う・・・・・ 私は、お話よりも・・・・・。 「ん? どうしたんだ? 熱でもあるんじゃないか、顔が赤いぞ?」  フォックスさんにそう指摘されるまで、私は自分のことも解らないような上の空だった。 両手を頬についてみると本当に真っ赤であることに気付く。私は慌てて否定したけれど、 フォックスさんは強引に私のおでこに手を当てて自分の額と温度差を計ってみせた。 「少し熱っぽいな。身体がまだ魔力に慣れていないのが原因かも知れない。すまない、君 の身体に対する思慮が欠けていた。今日はゆっくり休んでくれ。」 「えッ? で、でもッ!」 「休むのもパートナーとしての役目だよ。それに、君には身体を大切にしてもらわなけれ ば、誓いが無駄になってしまう。」  〜もちろん、わたしの出来うる限りの力で、君を護ることを誓う。〜  フォックスさんの誓いが私の脳裏で反芻した。その真剣な瞳が私を見詰めている。 「ご、ごめんなさい、解りました。でも、フォックスさんは何処でお休みになられるんで すか?」  お父さんにこんなこと話せないし、だけど、大の大人一人を隠せる場所なんてないし。  でも、フォックスさんは軽く笑って、 「もしよければ、君のベッドの下を借りれないかな? 動物の格好をしていれば、結構広 くて快適だよ。掃除も行き届いてるしね。」  そう言うと、あの不思議な動物の姿に戻り、私のベッドの下へ潜り込んでいく。私はぐ るりと逆さまになってベッドの下を覗きこむ。 「寒くないですか?」 「毛皮があるからね、平気だよ。」 「・・・解りました・・・ケド、もし寒かったら、無理しないで言ってくださいね。」 「ありがとう。さぁ、乃優希くんも、もうお休みなさい。」  私は「はい。」と小さく返事をして布団の中に潜り込んだ。  色々なことがあった24時間。そう、昨日の夕暮れからようやく24時間が過ぎ去ろう としていた。フォックスさんを助けてから、ようやく一日。その間に私は笑ったり、泣い たり、いったいどれぐらい心を揺り動かされて、色々なことに巻きこまれたんだろう。そ して、これからどんなことに巻き込まれていくんだろう?  漠然とした不安が心の片隅に広がっていた。でも、それ以上に私は期待していることに 気付いて私は舌を出した。  死ぬかもしれないのに?  そもそも、死ぬなんて考えたことなかった。あのときもあんまり深く考えてなかったの かも知れない。ただ、痛いや苦しいの最上級が「死ぬ」ってことだけだったかも知れない。 フォックスさんのあの表情からすると、きっと、魔法でも人を生きかえらせることは出来 ないと思う。死ねば二度とお父さんにもクラスの皆にも逢えなくなるし、美味しいものも 食べられないし、綺麗な夕焼けを見ることも出来ない・・・はずだよね? 死後の世界が あるっていうんなら話は別だけど・・・・・・・あ〜ん、考えても考えてもきりがないよ。 ・・・もう、いい。結局私は死にたくなくて、頑張ってフォックスさんのお手伝いをする だけなんだからっ! 寝よ、寝よっと。  頭を真っ白にして私は枕に顔を埋めた。睡魔はあっという間に訪れて、私は安息の闇へ 身を委ねた。  §  でも、長い一日はまだ終わりを告げそうにもないみたい。 「乃・希くん! 乃優希くん!!」 「ぅにゅ?」  薄目を開けて、声の出所に振り返る。耳元には動物形態のフォックスさんが真剣な表情 で立っていた。眠ってからそんなに時間は経ってないみたい。 「まさか、こんなに早く姿を現すとは思っても見なかった。」 「ぅにぃ?」  ゆっくりと身体を起こす私を、フォックスさんが急かす。 「ヤツが近くまで来ているんだ。」 「!! それって・・・」  言葉に詰まる私の言葉を汲んでくれたように、フォックスさんが続けて話す。 「そう。君にも戦って貰わなくてはならない。訓練をしてあげる余裕はない。今から言う 呪文をよく覚えていてくれ。この呪文が君を護ってくれる。  『クェーレ・クゥアイナ・シェールト・シャーイン・ルーケルトメッルーイーン』 」 「長いよぉ!」 「何度も復唱すれば大丈夫。すぐに覚えられる。さぁ、復唱して・・・ 『クェーレ・クゥアイナ・シェールト・シャーイン・ルーケルトメッルーイーン』」 「えぇと、『クェーレ・クゥアイナ・シェールト・シャーイン・』ええとぉ・・・・」 「慌てなくていい。『ルーケルトメッルーイーン』だ。」 「『クェーレ・クゥアイナ・シェールト・シャーイン・ルーケルトメッルーイーン』?」 「そう。大丈夫、合っているよ。落ちついて何度も復唱していれば大丈夫だ。」 「準備はいいかい?」  その言葉に私は無意識に自分の姿を確認する。そして、大声で待ったをかける。 「あッ、ダメ! 待ってッ! 私、まだパジャマのまんまだもん。着替えてくるッ!」 「そういう悠長なことを言っている時間はないんだ。ヤツが無差別に人を襲うこともあ り得る。時は一刻を争う! さぁ、行くよ!」  フォックスさんの姿に光が集ったと思うと、人間形態の姿へと変貌していた。そして、 その手は私の手を握り、ベランダから飛び出していた。 「って! ここ、四階ぃッ・・ぅきゃぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁぁっっっっ!!」  長い悲鳴の終わりと同時に地面が迫っていた。しかし、激突する寸前、急に私の身体は 持ち上げられるように軽くなり、自然に足から着地していた。私はワケが解らなくてフォ ックスさんを見上げる。フォックスさんは静かに瞑想していた。そして、私はようやく今 の力が彼の魔法によるものということに気付く。 「魔法の根本は強く願うこと、想像することなんだ。わたしは今、着地する瞬間に吹き上 げる風を想像したに過ぎない。呪文はそれを助けるためのものなんだ。魔力があれば誰に でも使える、これが魔法の本質なんだ。」  目を開くと同時にフォックスさんはそう言った。 「じゃぁ、さっきの呪文は?」 「あれは、一時的に君の魔力を何倍にも高めるための呪文だ。魔力が高まれば、その分、 魔法の威力も魔法に対する抵抗力もあがる。しかし、長時間使い続ければ君の身体にどん な影響がでてくるかも解らない諸刃の呪文だ。君が魔力を持った輩に窮地に追い込まれた ときのみ使ってくれ。さぁ、行くよ。ヤツは公園の中央付近にいる・・・。」  走り出したフォックスさんに私も続く。言い知れぬ緊張を背負って。  §  日高公園の中心にはそこそこの大きさの池があり、休日は貸しボートも1,2時間待ち ってこともあるくらい賑わう場所。でも、今日は平日。さらに、夕方には車のゲートを閉 じてしまうので日が落ちてからこの場所は閑散とする・・・と思ってた。  でも、私の予想は大幅に外れて数え切れないぐらいのカップルが愛を語り合っていたり なんかしちゃったりして、私にとって目の毒な光景が広がっていた。 「・・・でも、これじゃ、誰が罪人なのか解らないんじゃ?」  私は辺りから目線を逸らしフォックスさんを見やる。フォックスさんは少しの間瞑想し た後、困ったように私に話し掛ける。 「魔力はこの一帯から感じる。ここに居ることは間違いないんだが・・・」 「どうするの?」  この周辺にいるカップルの中の一人が罪人。周りにはぱっと見ただけでも10組以上の カップルがいる。その中の一人が私たちの存在に気付いていて、今まさに狙っているとし たら・・・。まるで、後ろから銃でも突き付けられているような気持ちだった。フォック スさんもそれは同じみたいで、答えをだしあぐねているみたいだった。 「・・ね? とりあえず、出直して明日の朝、ここに来て調べて見よう? 何か手がかり が見つかるかも知れないし・・・」  私は極力回りに聞こえないように、小さな声でフォックスさんに呼びかけ、後ろに振り 返る。フォックスさんも同意してくれたみたいで私の後ろで回れ右をして私に被さる。  え? 被さる?  次の瞬間、私はフォックスさんと一緒に前方に弾き飛ばされる。 「ぃっ・・たぁ〜・・・」  膝を擦り剥いていた。でも、それどころじゃないっていうのは解った。慌てて私は上に 覆い被さっているフォックスさんを見る。そして、私は悲鳴に近い声を上げていた。背中 が焼け爛れていた。多分、私が振り返った瞬間を狙って罪人が攻撃を仕掛けてきたんだ。 それを、フォックスさんが庇って!  私はもう一度振り返り、カップルの群れを睨み付けようとした。でも、そこには誰も居 なくなっていた。  !! おかしいよ! いくら驚いて逃げたとしても、悲鳴も足音も立てずに逃げること なんてありえない・・・じゃ、さっきのは・・・・・。 「幻影(イリュージョン)・・・こんな初歩的な罠(トラップ)に引っ掛かるとはな。」 「誰ッ! 出てきなさいよッ!」  私が声を張り上げると同時に、向かいの木の上から影が現れる。 「人間の女に興味はない。俺の用件はそっちの倒れている男のほうだ。」 「・・・どうするつもりなの?」 「消すだけだ。どいていろ・・・お前の記憶は後で消す。」  間違いない。この人がフォックスさんの追っている罪人なんだ。  罪人が構えを取る。  このままじゃ、フォックスさんが死んじゃう。  私はチラリとフォックスさんを確認する。焼け爛れた背中が痛々しくって、呼吸をして いるのがやっとのように見える。  護らなきゃ・・・・・・  そうだよ、フォックスさんは誓い通り、私を命懸けで護ってくれた。今度は、私が護ら なきゃ・・・でも、私に出来るの?・・・ううん。やるしかない! 最初から諦めていた ら何も始まらない・・・運命の舵は諦めない限り、私自身が握っているんだって、フォッ クスさんは言った。だったら、私は諦めない。  フォックスさんを助けるために、私は、私は・・・・フォックスさんを護る力が欲しい!  その時、脳裏にフォックスさんの教えてくれた呪文が過ぎった。魔力を持った輩に窮地 に追いこまれたときのみ使えって言ってたあの呪文。  今がそのときなんだ!  私は目を閉じて、祈るように呪文を暗唱する。初めて聞いたときはややこしくて覚えれ ないと思ってたけど、瞳を閉じると浮かんでくる。フォックスさんの優しい声が・・・。 「『クェーレ・クゥアイナ・シェールト・シャーイン・ルーケルトメッルーイーン』!!」  パァァァッっと小さな白い光が私の重ねた両手から溢れ出していく。  光が背中から弧を描いて虚空を撫でる。  輝きが広がって舞散ると、そこには壮大で綺麗な翼が広がっていた。  まるで天使にでもなったような気分だった。その翼が私を包み込むと翼から溢れ出した 光は肩から腕へ、胸からお尻までをくるむように駈け抜けると白を基調としたレオタード に変化していた。次に光は素足に綺麗な硝子細工の靴を象り、光が跳ねると同時に硝子の 靴にも小さな羽があしらわれる。その光は弧を描いて手元に届く。光は鮮やかに輝きを増 してくるくると舞い踊る。まるで妖精さんのダンスを見ているみたい。光が胞子のように 拡散すると手首に赤いリボンが結ばれていた。同時に下から巻き上げる風が吹き抜ける。 髪を結っておいた薄紅色のリボンが空高く舞いあがり、私は無意識に天を仰いでいた。リ ボンが天に召された頃、私に向かって一縷の光が差し込んだ。光は胸元に大きな薄紅色の リボンを形作り、腰元に鮮やか、でも決して派手ではないグリーン色のパレオを纏わせた。 そして、最後に私の流れる髪を繊細な深紅のリボンが纏めあげた。  虚空に優雅で伸びやかに、しなやかに広がっていく翼が私に全視界を取り戻させる。  私は天を仰いだ視線を戻しくるりと舞って啖呵を切る。 「赤は情熱の炎、生命の灯火を。白は清純の心、そして優しい光を。優艶なる蓮華の天使 ラーワェル、ここに光臨ッ!」 「な、何!?」  私の姿を見て、罪人はあきらかに動揺していた。私みたいな素人に何が出来るかなんて 解らない。ただ、フォックスさんの言葉を信じて私は強く願った。  風よ! 彼(か)の者を打ち付けよ!  とたんに凄まじい勢いの風が私の横を通り抜けていった。風の波が人の目に見えるほど のそれは辺りの風を巻き込みながら一直線に標的に向かって疾る。 「ッ、ちぃッ!」  風が標的を捉える瞬間、我を取り戻した罪人が横に避けようと動く。  避けられると思うと同時に、私は前方に突き出した腕を大きく横に振り切り、叫んだ。 「曲がれーっ!」 「なッ、グッォォォッォァァァっっっ!」  私の風が確実に罪人の脇腹に叩き付けられる。標的を捉えた風は辺りのものを巻き込み ながら上昇する竜巻へと姿を変える。 「ば、ばかなッ! 荒れ狂う風(ストーミー・ウインド)を湾曲(カーブ)させて、更に 捻転(ツイスト)させただとぉッ、ぐっああああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!」  竜巻は標的を天高く舞い上げ、罪人は長い悲鳴を残して何処かに消えていった。 「や・・ったのかな・・・」 「・・・どうやら・・そのようだ。」  静かになった空を見上げて呟いた私の後ろで小さく呻くような声。振り返った私の後ろ には、なんとか立ち上がろうとするフォックスさんの姿があった。 「あッ、無理しないで下さい!」  私は慌てて肩を差し出したけれど、よく考えたら私の身長でフォックスさんの肩を支え られるわけないじゃない〜ッ! でも、私の肩は意外にもすんなりとフォックスさんの肩 を受け入れていた。  あれっ?  その時、ようやく私は気付いた。視界がなんだか違うことに。私の視線が自分の身体を まじまじと見つめる。  私・・・大きくなってる!? 「・・・気付いたようだね。先刻教えた呪文は・・未来の自分を映し出す鏡の魔法・・・。 今の君は何年か先の未来の君だ。綺麗になるよ、君は・・・・・」  あんまりにも自然に言われたので、私は何も考えられなくなってその場で固まってしま う。そして、もう一度聞き直そうかと考えている間に、フォックスさんは痛みで気絶して しまっていた。  その夜。私は、フォックスさんを看病しながら、頭の中でずっとその言葉の意味を考え て過ごした。・・・ううん。頭の中からその言葉がずぅ〜っと離れなくて、眠れなかった だけなの。