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公瑾(周瑜)は事を名さんという大きな気概を持ち、 胆力、才略は人に勝り、 かくて孟徳(曹操)打ち破り、荊州の地を切り開いた。 その気宇の大きさにはなかなかに及び難いが、 あなたが今、それを継いでおられる。 |
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いえいえ、とんでもない。 私など、周瑜様には到底及びません。 |
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公瑾が子敬(魯粛)を東方に招き私の所へ連れてきてくれた。 私は子敬と語り合ったのだが話題はすぐ天下の計に及んだ。 孟徳(曹操)が、かつて劉宗の軍勢を手中に収め呉に向かうと言いふらしたとき、 私は部将達を集めてどのように対処するか尋ねたが、 子布(張昭)達は そろって孟徳を迎えるべきだといった。 が魯粛は即座にそれに反対し私に公瑾を呼び戻し彼に軍勢をゆだねて孟徳 を迎え撃たせるのが良いといった。 |
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はい。実に印象的な出来事でした。 あの時の魯粛様の働きが無ければ呉は危うかったのです。 |
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しかも彼が定める計略には張儀や蘇秦(春秋戦国時代の名将)の廻らした策謀 をはるかに越える配慮が込められていた。 後に玄徳(劉備)に荊州を貸すように私に勧めたが、この一つの失策は 他の彼の立派な点を損ずるほどのものではない。 私は彼の落ち度を忘れ優れた点のみを尊重し彼をケ禹(後漢創世の名臣) に比してきたのだ。 |
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魯粛様は戦場でも常に書を離さない。非常に博学な方でした。 それを継ぐのが呂将軍ですね。 |
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子明(呂蒙)については若いころはどんな困難も厭わぬ 果敢で大胆な人物に過ぎぬと思っていたが、 大人になってから学問を身につけ、飛び抜けて優れた企図計略 を立てるなど公瑾に次ぐ人物だと評価できよう。 ただその申し述べる意見に壮大さと鋭敏さが欠けるという点で 公瑾に及ばなかったに過ぎない。 積極的に関羽を捕らえようと謀った点では子敬に勝るものであった。 |
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呂将軍の計略は的確でしばしば私も感服させられました。 |
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子敬は私への返書でこう言った。 「帝王たるべき者が立つ時、必ずその先駈けとして群雄を追い払う者がおります。 それが関羽なのですから彼をはばかる必要はありません。」 と。これは子敬が自分自身では対処できぬのに人に向かって空威張りをしたに過ぎない。 私はこれもお大目にみて責める事をしなかった。 しかし彼の軍隊の指揮ぶりは軍営から脱走する者もなく軍令はきちんとしていて、 領内には自分の勤めをなおざりにする者が無かった。 彼のやり方もなかなかにすばらしかったのだ。 |