陸抗と羊枯

呉は諸葛格→孫琳と実権が幾度か移ったが最後に最悪の君主を迎える。
孫和の息子孫皓は孫策の風があるといわれ評判が高く、
張布、丁奉によって皇帝として迎えられたが、
期待に反して、豪奢、淫行に走りその様は董卓以上であった。

孫皓 せっかく皇帝なったのであるから、何でもやってやる。

一方、魏はすでに司馬氏に禅譲の形で政権を受け渡し、
晋が建国され司馬炎が統治していた。

司馬炎

呉は最悪の状況のなかでも光っていたのは陸遜の息子陸抗であった。
江陵で呉の将が反乱を起したが、陸抗は見事な統率で、
援軍に来た晋軍を撃退し江陵城を包囲し陥落させた。
晋の対呉軍事最高責任者は羊枯といい彼は陸抗の才能を高く評価していた。
陸抗も羊枯を好敵手と認め彼を警戒し、みだりに軍を進めることをしなかった。
陸抗と羊枯は徳地による政治を心がけ、善政を競い合った。
そのため二人が対峙している国境地域だけは平和であった。
陸抗は政治そっちのけの孫皓を何度も諌めた。

陸抗 二つの勢力が対抗する場合、双方の徳の高さが等しければ、
安定している方が不安定なほうを滅ぼすのです。
いま政治全般が停滞気味で民衆達もまだ安定しておりません。
長江の険も国家防衛の些末事であり安全とはいえません。
朝に夕に憂いて心を痛めている次第です。

陸抗が病死すると羊枯は呉へ出陣するよう願い出た。

羊枯 陸抗が亡くなった今、もう呉を怖れることは無い!!
今、呉を攻めれば必ず平定することができるでしょう。

このときは許可が得られなかったが、
陸抗亡き今、呉の滅亡は時間の問題であり
羊枯の後を継いだ王シュンは羊枯の提案した侵攻方で 呉に攻め入り
「破竹の勢い」で進軍した。

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