猩々の馬鹿や〜い!


相川町の猩々は.....。

相川町には低学年用の小さな猩々があります。小さいのでみんなに馬鹿にされ、
普通の猩々とは違ったかけ声がありました。髭が特徴。
「あのね」は古い呼び名     
昭和40年頃は見た目から「ラッキョ」と呼ばれていた(桃屋のラッキョ)

「あのね」
あのねのおっさん毛が3本電車にひかれてぺっちゃんこ〜!

「ラッキョ」
ら〜きょ ラッキョ!花ラッキョ!瓶に詰めて転がすぞ〜!

猩々 平成9年9月吉日  
発行人 鳴海商工会 猩々の会より
猩々の思い出
柘植 宗年

猩々と言えば山車のない町の子供たちの遊びにはなくてはならない楽しみの一つでした。
なぜ「猩々のバカや〜い、ハゲ、トーロク、爺さ〜ま」と言うのかと私が祖父に聞きました。
祖父はこの暑いのに丹前を着ているから馬鹿で、
禿(ハゲ)は頭の後ろに毛があり前は禿げているから
そして十六は十の内六つの知恵しか無いからだという。
また爺様は子供を追う姿が腰を曲げているからだと教えてくれました。

 また一説に依れば、赤毛船が台風に遭い難破して、船員の一人が助かり、
さまよい歩き食を求め各家を尋ねたが、言葉が通じず唐変木と言われ、
田畑の作物を盗み食いしたり、何を為出すかわからないので相手にする人がいなかった。
 ある時お祭に振舞酒を貰い大酒を飲み真っ赤な顔で毛も赤く大きな体で、
千鳥足に歩く姿が猩々に似ているのでその名がついたとも言われる。
浅間堂の絵馬にも猩々と子供が遊んでいる姿が描かれています。

 また天正時代に赤毛人が側用人として信長公に使えたこともあると聞きました。
鳴海町の猩々は中島が最初で今では数多くの猩々が出来一堂に集まると見事なものです。
私が子供の頃は浅間堂が遊び場で、扇川の川縁までなだらかな土手で紅葉の木が茂り
中程に小道があり最適な遊び場で猩々に追われたものです。
ある時二つの猩々に挟まれて逃げ場を失い川の中へ逃げ込んでしまったら
猩々も川の中程まで追っかけてきました。とっさに水をかけたら「こら何するか!」と猩々が逃げていきました。
猩々は水に弱いなとおもい母親にその事を話したら「張り子だからな」と大笑いしました。

 また親戚の子がわが家へ祭りに呼ばれて帰る途中猩々に出合いびっくりして一目散に
駆けて行ったことを思い出します。
社会情勢も変わり車も多くなり今では定められた場所でお母さん達に見守られながら
一時を楽しんでいるようです。のびのびと遊んだ我々の当時を振り返ると、今の子は可哀相だと思います。

猩 々
伊藤 信金
 子供の頃の猩々の思い出といえば、鳴海の表方鳴海八幡社の秋の例祭である。
小生は生まれも育ちも裏方(丹下)で近所の子ども連中は、表方祭りへ遊びに出かける遠征組で、
当時詳し事は分からず、山車曳き、神興渡御の合間に「猩々のバカヤァ−イ、ハゲ、フルババヤーイ」と
大声でののしり、猩々に追われると恐いので、遠くから見て逃げ回るのに精一杯で見物が多かった。
猩々が大きな体を前屈みで、走り出すと速力を上げて体を振り、ふり反り返るようになって大きな手で容赦なく
叩くので叶わない。逃げ場を失うと小路や家の中へ飛び込ん
で、外の様子を見て出る。猩々二体ではさみ打ちされることもあった。主に旧国道や扇川の改修前の両岸
で、猩々が堂々と練り歩いたり、子どもを追い回す姿が祭りを盛り上げていた。近年、交通・道路事情から
規制され遊び場も限られる。
子ども達も猩々にピストルで玉を打ち、カンシャク玉でビックリ驚かせる応戦の一幕に大人達も苦笑いしなが
ら「昔と違うなぁー」とのご時世である。
 中島町の猩々について、昭和14年12月1日発行の郷土史誌『奈留美』=第6号 土風会発行=に
鈴村秋月氏は、祭礼号の同誌「鳴海八幡社祭礼雑話」の中で、表方山車5台の起因の項で、中島町の囃子車に続いて
「年々祭礼の話題になる中島町の猩々は、天保初年、町在住の医師伊藤泰庵氏は(伊藤雅楽郎氏祖先)
讃岐琴平神社参拝し、帰路京都に立ち寄り猩々の頭を購入し、衣服(裃)は名護屋大丸屋にて作り町内の梵天として
寄付せしものなり」とある。
天保初年は、今から160余年前のことであり、同誌に発表されてから半世紀を過ぎ60年近くにもなる。
また、元緑区役所(鳴海町本町)2階ホールのロビー南西角の上部に「猩々二体」(あたらしと古婆?)がなかよく並んで
立っている勇姿の額装(洋画)が掲げられて、外の階段から上ると真正面に見えたが、
新庁舎へ移転で旧庁舎は解体され姿を消したが、あの絵画は、今何処へ。


祭りと猩々の思い出

大村 武雄 (昭和8年生れ)

幼いときを振り返ると、私達には、やんちゃ坊主の時代が短かった。小学2年生の時戦争が勃発、4、5年生には戦火たけなわ、6年生の時には敗戦。戦後の動乱、終戦後3、4年は食糧事情の悪化、物資不足、正に祭りどころではなかった時代と思う。
祭りを楽しみ、猩々に追いかけられる「ぼわれる」思い出も小学2・3年生の頃、祭りの3日ほど前より町に猩々が出た。そうなると学校の授業どころではない。何時もの帰り道と違う、浅間堂を遠回りして帰る。すぐに友達が集まる。一人では猩々を見に行くのも恐い。
皆といっしょに近くの作川町年行司(今の公民館)外から隙間越しに眺める。猩々が飾ってある。置いてあるだけだが にらみつけて恐い。今思うにその妙な怖さが不思議にも思える。町内の青年の人が猩々をかぶって年行司から出てくる。近くに居た子ども達が一斉に散っていく。友達同志が群がって悪口を浴びせ掛けて逃げる。叩かれまいと逃げ切れるだけの能力に合わせて、それぞれの間隔を保持して遠くから「猩々のばかや〜い」追われる者同志が知らない友達と仲間になって夢中で逃げる。十数人の群れが右往左往に散る。追い詰められても逃げ抜いた同志は得意げに声詰まらせて自慢する。行き詰まりの狭い小路に逃げ込み恐怖で震え上がる子もいる。
祭りの本番ともなると浅間堂に集まる、誰が名付けたか、「一銭のばかやーい!ふるばば、あたらし、尻まくりー!」それぞれの悪口を浴びせる。どこから猩々が出てくるか分からない恐怖、肝っ魂のちぢむ驚き、恐いもの見たさ、大人になった今でも頭に意味知れない恐怖と感激が焼き付いている。
そんなに怖い猩々も、祭りの御輿の行列に加わるとき。裃袴姿の猩々は正に風格あるカミサマ猩々。怖さも、恐ろしさも全くない、深い親しみを感じる祭りの猩々が子供たちに尊敬と軽蔑の違いを教えてくれたと思う。