相川町の猩々は.....。
相川町には低学年用の小さな猩々があります。小さいのでみんなに馬鹿にされ、
普通の猩々とは違ったかけ声がありました。髭が特徴。
「あのね」は古い呼び名
昭和40年頃は見た目から「ラッキョ」と呼ばれていた(桃屋のラッキョ)
「あのね」
あのねのおっさん毛が3本電車にひかれてぺっちゃんこ〜!
「ラッキョ」
ら〜きょ ラッキョ!花ラッキョ!瓶に詰めて転がすぞ〜!
猩々 | 平成9年9月吉日 |
発行人 鳴海商工会 猩々の会より |
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「猩々との遊び」 小林多加志(昭和40年生れ) 号外 ※猩々の思い出 冊子には載ってません
猩々といえば浅間堂(通称:せんげんさん)である。昭和40年代のむかしは浅間神社横の公園内と堤防の道路に露天商が建ち並び周辺の子どもたちがたくさん集まった。
本川町の年行司が隣接しているので「ぷーれん」が低学年の子どもと戯れているが高学年が話し合うと栄町の「きゅーぴー」が踏切を渡りやって来る。
おなじ川沿いの作川町の「一銭しゃもじ」や相川町の「二グロ」と「アノネ」も賑わいを察知してなのか浅間さんに猩々が増える。
そして、平部町の「じゅうばこ」やたまに中嶋町の「ふるばば」まで数体の猩々が暴れまわり、挟み撃ちなどを仕掛けてくる。
自分たちも負けじと銀玉鉄砲やパチンコ(ゴム管)などで応戦。当時は土手の堤防を降りて水辺まで追っかけて来る事もあった。
本川橋を北に渡った近くに2階建てのアパートがあり、その階段も昇って来て雪隠詰めにあったのは忘れられない。
銀玉鉄砲は扇川上の屋台や平部の半田屋、本町のバチャクリで買う。弾は小箱に入った銀色の玉 たまに金色の玉が入っていて持ってると自慢してた。
猩々が来るとパンパン撃つので猩々が去ると 子どもたちは玉を拾うのである。それに夢中になると背後から猩々に叩かれることはよくある光景だ。
昭和47年から扇川の護岸工事が進み堤防が改修され昭和50年に浅間橋が架け替えられた。それから数年は浅間さんで追っかけ遊びは続いたが
交通量が増えてきて浅間社での猩々の追っかけは禁止された。神社に飾られる絵馬に当時の猩々遊びが描かれている。
浅間社でできなくなると その後は曽根公園で少数の猩々が集まるようになったそうだが 自分も成長して猩々遊びから卒業した。
平成に入り久しぶりに祭りに関わり子どもの頃とは違う気持ちで猩々の素晴らしさを感じて いまも猩々を愛し追っかけている。