白河天皇はゲイだった!!

『院政期社会の研究』(放送大学教授・東大名誉教授 五味文彦著)によると…

1.鳥羽院と藤原家成,後白河院と藤原信頼(正三位・権中納言)の男色関係を軸に保元の乱・平治の乱は起きた。

2.また,後白河院は藤原成親とも関係があり,これが鹿ヶ谷事件(鹿ケ谷の陰謀)に影を落としている。

3.さらに,近衛基通(従一位・摂関・内大臣)は後白河院との男色関係のおかげで、平治の乱に連座することなく
  摂政の地位を保つことができた。



他の文献によると…衆道の日本における最初の記録は,日本書紀の神功皇后の項にあるらしい。

「摂政元年に昼が闇のようになり,これが何日間も続いた。皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ…

神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追い,両人を合葬した「阿豆那比(アヅナヒ)之罪」のなせる業だという。

そのため墓を開き,両者を別々の棺に納めて埋葬すると,直ちに日が照り出した」との記述がある。

この「阿豆那比」こそが日本最古の男色の記述であるとする。

「続日本紀」には,天武天皇の孫である道祖王が,聖武天皇の喪中に侍児と男色を行ったとして廃太子とされた記述

が見える。

参 考

白河天皇

衆 道

日本男色模様

『台記』に見る藤原頼長のセクシュアリティの再検討(序説)

男色文学の世界

舞人との男色


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