漢代長城・玉門関・河倉城


漢代長城

写真などで紹介されいる万里の長城はほとんどが明代に築かれたもの。玉門関の西方5kmにある漢代に作られた長城は砂と石と葦で築かれたもので,高さは150p位しかない。
「敵」が騎馬族であったため,馬が飛び越えられない高さがあれば防衛上問題がなかったため。
狼煙台も残っている。烽火の燃料には狼の糞が混ぜられている。狼の脂が混ざることで,風の影響を受けず,煙がまっすぐ上昇するのだそうだ。烽火を狼煙とも書くのも納得。
ここでのろしをあげると約1800q離れた長安の都(現在の西安)まで一日で敵の襲撃などを伝えることが出来たという。

玉門関

異民族が対峙した西域攻防の最前線。名称は和田(ホータン)で取れた玉を西域に運ぶ道ということから名づけられた。武帝のとき河西回廊を保護するために築造された。
南の陽関とともに西方に通ずる重要な関門で,ここから西に延びる長さ50km,幅7mの古道では,かつてシルクロードを往来した人々の足跡がかすかに見受けられるという。
後にこの関は移動し,隋・唐時代には安西の東にあった。唐の初め,玄奘が西域に旅したときに通過した関は,安西に移設された玉門関である。
当時,敦煌からここまで水路があり,北門が水路用,西門が陸路用であったが洪水で高台の関所を残して流されてしまった。

河倉城

玉門関に駐屯する兵士のための食糧庫。何十万の人馬の食料だから相当な量と想像出来る。叉食料の調達もこの砂漠の中で大変にちがいない。軍団の移動拠点ごとに食料貯
蔵庫があったのだから,砂漠の中の戦争は計画性の優劣が勝敗を決めていたのだろう。三国志の食糧貯蔵庫を焼き討ちにして,軍団の移動を食い止めた「官渡の戦い」を思いだ
した。西暦2000年に修復補強作業で手が加えられている。

漢代長城 漢代長城

左の方に見えるのは「烽火台」

間近で見ると,「葦」が使われているのがよく分かる

漢代長城遠景 玉門関

漢代長城遠景。この時代の長城の高さがよく分かる

玉門関遠景。疎らに草が生えている

玉門関 玉門関

玉門関に近づくと,やはり大きい!また,「葦」が使われているのが分かる。右の写真は「玉門関」左の(多分)長城が築かれていたところ

涼州詞の石碑

涼 州 詞 (王 之 渙)

黄 河 遠 上 白 雲 間

一 片 孤 城 萬 仞 山

羌 笛 何 須 怨 楊 柳

春 風 不 渡 玉 門 關

左の石碑に彫られているのは上記,王之渙の「涼州詞」だが下の李白の「關山の月」も有名

            明 月 出 天 山
            蒼 茫 雲 海 間
            長 風 幾 萬 里
            吹 度 玉 門 關
            胡 窺 青 海 灣
            由 來 征 戰 地
            不 見 有 人 還
            戍 客 望 邊 邑
            思 歸 多 苦 顏
            高 樓 當 此 夜
            歎 息 未 應 [門+月]

王之渙の「涼州詞」と李白の「關山の月」。玉門関の辺境の地で羌族との戦いに明け暮れる兵士の悲しみを詠ったもの。ガイドの梁さんに中国語で詠んでもらった

湿地帯 河倉城

「玉門関」左には湿地帯が広がっていた

河倉城

靴跡 管理小屋

右上の写真で,人がいる辺り。まさかの靴跡…ガイドに聞いてみたら,今年の7月に,例年になく雨が降ったとのこと。右の写真の後方は河倉城。手前は管理人が生活している小屋。
小屋の屋根の右にある矩形のものは太陽電池。日本製で,結構,重宝しているとのこと。


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