至屑般若心経(しせつはんにゃしんぎょう)
ホームページにしては飾り気がありませんが。文庫本を読むつもりで、読んでくださいませ。
2014年(c)鈴木和夫
1、題名について 2、はじめに 4、色と空の関係 7、至屑般若心経 |
至はいたるです。 屑はくづ・かえりみる・きにかける・ひざまづいてつとめる・いさぎよしとするです。 そこで、くずに至たる、つまり、屑になる。以下同じように、きにかける、・ひざまづいてつとめる・いさぎよくなる。このような意と受け取ってくださいませ。 至屑は「しせつ」と読みます。しせつは私説に通じます。 わたくしの・わたくしだけの・わたくしだけが納得している、そんな考え・説というところです。 わたくしだけの考えだから、すべては、屑となり無になる。そんな、考えだと思ってくださいませ。 |
「母の介護に疲れたわたしが、母と一緒に死ぬ決心をしたときです。
母の手を両手で包むようにして握りました、母の手は固く荒れていました。」
「そのときのことです。わたしが大きくなれたのは母の長い間の大変な苦労のおかげなんだ、と、気付きました。」
「いま、わたしは苦労のお返しをしているのだと分かりました。とたんに、その後の看護が辛くないものになりました。」
長年続けてきた介護生活に疲れて、母親と共に死のうとした女性の言葉です。
耐え難い苦労が耐えられる苦労に変わったときの心の言葉です。
この言葉は、わたしが直接聞いた言葉ではありません。
テレビ番組の中で話された言葉です。
この言葉を一番始めにもってきたのは、この言葉に現われている心の流れが般若心経に書いてある苦を滅する教えそのものだと思ったからであります。
母親が変わったのではありません。女性の心が変わったのであります。
この女性は長い苦しみの果てに、母の手の荒れを感じたのを契機に悟ったのでありましょう。
介護における耐えられない苦しみを、耐えられる苦しみと感じるようになったとしても、まだまだ、苦しみは続きます。しかし、この女性が苦しさに負けることはないと信じます。
般若心経には般若経、およそ、六百巻の教えの真髄が説かれていると言われています。
般若経は、南インドの僧ナーガールジュナ(龍樹、西暦2,3世紀)を祖とする大乗空教の僧たちによって編纂されたと思われます。
題の般若波羅蜜多心経の般若は智慧であります。また、波羅蜜多(波羅蜜)は智慧を獲得するために通らなければならない段階(徳目)であります。
“観自在菩薩”で始まる第一段は般若心経ができた由来と、五蘊と空の関係が書かれています。
“色不異空”で始まる第二段は五蘊の代表の色と空との関係が書かれています。
“是諸法空相”で始まる第三段の前文は色について後文は空についての説明が書かれています。
“菩堤薩た”ではじまる第四段は智慧について、智慧を獲得した人について書かれています。
第五段は最後の言葉に対する讃辞が書かれています。
最後に悩みを滅する智慧を求める人を応援する言葉が書かれています。
結局、般若心経は色を知り、空を知り、空を制御する智慧を完成すれば耐えられないほどの大きな苦を、耐えられるほどの小さな苦にすることができるというお経であります。
般若心経は人の苦しみを少なくする方法を説いている経ですから、人に苦をもたらす心のことが説かれているはずです。
このようなことを基にして、この苦の範囲に限って、般若心経を訳すことにいたしました。
般若心経を訳そうと思いましたのは、色と空の定義が、なかったり、著者それぞれで、しかも、漠然としている上に、色と空は程度の高い哲学的内容を含んでいると説明されていることに疑問があったからであります。
般若心経がまとめられたときは、一般の人でも理解できるようにまとめられたはずだと思いました。
色はいろ・かたちの漢訳です。
空はうつろ・空虚の漢訳です。
仏教日常辞典(太陽出版2005年3月20日) によりますと、色は「形があり、生成変化する物質的な現象・事象をいう」とあります。
空は「すべての物や事柄は、多様な関係性の上に変化し続けているので、実態がないということ」、とあります。
この色と空の説明は現代の説明だと思います。
二千五百年も昔に、釈迦は無明から始まる十二因縁の心の動きを説いています。その中に名色という段階があります。
前出の仏教日常辞典には、「無明によって行業があり、ここに意識を生じる。意識が一度起これば心識(名)と相対する事物(色)との区別を生じ、云々」とあります。
さらに、心識と名の説明はありませんが、心意識の説明があり、「心は精神作用の中心、意は思考作用、識は認識作用の意で、(心に生ずる)すべての現象はこの心意識によるとされる」、とあります。
このように、名は心のことで、後に空と言われるようになったのだと思います。
釈迦より五百年以上後の僧達も心に生ずる形を色、心に形を生じさせる心の働きを空と分けたのではないかと思います。
地球は宇宙の塵が集まって出来たと言われています。そして、ついには、膨張した太陽に飲み込まれて消滅するそうです。古墳から出土した土器も日々老化して、いつか、崩れるでしょう。朝咲いた朝顔は昼を待たずにしおれます。
このことに、疑問はありません。
宇宙の塵も、地球も、土器も、朝顔も色であります。
しかし、般若心経は物理の本ではありません。哲学書でもありません。耐え難い悩みを耐えられる悩みに変える仏教の教えであります。
塵が集まって星になることも、土器が、日々に、脆くなることも、朝顔が午前中に萎れることも、悩みを持つ人にとっては、悩みを減らす教えにはならないと思います。
2004年に般若心経の和訳をしょうと思い立ちました。しかし、空と色の定義が定まらず、少しも、和訳が進みませんでした。
和訳を初めましてから3年ほどたった頃に、色と空の定義について、自分なりに納得できる説明をみつけました。さらに、2008年に脳科学の報道を手がかりにして色と空の定義がまとまりました。
2009年8月1日に空と色受想行識の五蘊との関係が分かりました。午前3時半のことでした。
8月1日は亡き母の誕生日です。なにかの因縁でしょうか。
色と空の定義を見つけるまでを簡単に書きます。
まず、釈迦は、なぜ、苦行をし、なぜ、木の下に座ったのかと、考えました。
悩みをもたらす苦しみを減らすにはどのようにすればよいか、釈迦が修行をはじめたころのインドは体を痛めつけると欲望が身体から抜け出て苦から逃れられるという教えが一般に信じられていました。
釈迦はこの教えに従って苦行をしたのでありましょう。多くの苦行を繰り返した結果苦行の限界を体感したのでありましょう。
釈迦は苦行をしても苦は少なくならないと悟りました。そこで、釈迦は苦行するのを止め、乙女の供養を受け体力を取り戻して菩提樹の下に座ったのでありましょう。
たとえ、釈迦の流れから外れたとしても、同じ仏教者と名のる人々も、また、人を苦しみから救うことを願って般若心経をまとめたに違いないと思いました。
そうですから、般若心経には苦しみを減らす智慧について述べられているはずだと思いました。
般若心経によれば、人を苦しめ、悩ませるものは色であります。その色はなにから生じるのか、般若心経は空であると説いています。
色と空についての仮説 ○ 脳には、信号を受けて、その信号に応じた像を映す場所がある。 この場所に映った像が色である。 ○ 人(動物)には身体の内外の刺激を受けて、身体の内外の刺激が発する信号、つまり、現在の信号と、過去の記憶が発する信号とを総合処理して、像を映す場所に信号を送る働きがある。この働きが空である。 |
色と空の定義 ○ 般若心経に使われている、色も空も苦の因になるものである。 ○ 色は脳に映る像である。 ○ 空は体の内外からの信号と記憶からの信号とを総合処理して信号を出し、脳に色を映す働きである。 |
4、色と空の関係
ここで、わたくし流の苦の因になる色と空の関係の説明をします。
夜毎夜毎に幽霊を見て悩んでいる人がいるとします。
幽霊がいるかいないか、そんなことで悩んでいるのではありません。
幽霊が見えるから悩んでいるのです。
幽霊が目の前にいれば別ですが、目の前にいないのに、幽霊が見えるのは脳の中に幽霊の像が映るから見えるように感じられるだけです。
この脳の中に映った幽霊の像が悩みの因です。
幽霊が現実にあるかないかということに関係はありません、脳の中に幽霊の像が映るから悩みが生じるのであります。
幽霊ばかりではありません、脳の中に映るもので、それによって悩みが生じれば、例え、宝石の像であっても、恋こがれた人の像であっても、わが子を殺した人の像であっても、悩みの因であれば、それは、色であります。
脳の中に、その人を悩ます像が映っていないときは悩みはないのであります。
悩みの因である幽霊はどのようにして見えるのかを考えてみました。
先ず、幽霊が見えそうな雰囲気を感じます。
次に、その感覚が出した信号が脳に伝えられます。
そこで、信号を受けた脳が働きます。脳のいろいろな場所から、幽霊に関係する記憶を導き出します。
幽霊に関係する記憶がなければ、幽霊を見ることはありません。
幽霊に関係するいくつかの記憶を取捨選択して、処理して、幽霊の像を映す信号を、像を映す場所に送ります。
信号を受けた脳の中の像を映す場所には幽霊の像が映ります。
幽霊の像が見える仕組みをこのように考えました。
この仕組みが正しいとすると、悩みの因である幽霊は脳の中に映った幽霊の像であります。
この幽霊の像が悩んでいる人の悩みの因でありますから、幽霊の像が色であります。
幽霊の像が脳に映ったのは感覚からの信号によるものではありません。
脳の中には、記憶している幽霊からの信号と、現状からの信号を取捨選択し合成して、幽霊の像を映す信号を創り出す働きがあると思われます。
創り出された信号は脳の中にある像を映す場所に送られます。
脳の中の像を映す場所は信号を送られて、脳の中に幽霊の像を映し出します。
幽霊を映す信号を創り出した脳の働きが空であります。
脳の中に見たものの像が映ります、考えたものの像が映ります。この像が色であります。
そして、この像を映す脳の働きが空であります。
この像や脳の働きは苦しみや悩みだけに関係しているとは限りません、しかし、般若心経に書かれている色と空は苦しみや悩みの因となる色や空であります。
近所の人々に、悪く思われていると感じて悩んでいるとすれば、悩んでいる人の脳に映っている、近所の人の像やその人が言ったと想像される言葉が色であります。
いるかいないか分らない人や言葉を創り出している脳の働きが空であります。
客観的にはどうなのか、ということは関係ありません。
このように、目の前に存在するものでも、目の前に存在しないものでも、すべて、脳に映る像が悩みの因になれば、脳に映る像は色であり、その像を映す信号を送る脳の働きが空であります。
現在の脳科学では像を映す場所は確認されているようですが、信号を処理する場所は確認されていないようであります。
もちろん、信号を処理する場所の働きも確認されていません。しかし、この働きは心の一部と考えられますから、脳にはこのような働きがあると言ってもよいと思います。
2010年3月22日までは、この段階まで考えていました。言い換えますと、この段階で壁に突き当たって進まなくなっていました。
22日に、撮りためていた録画を見ていてるときに、空は脳のどこの働きなのかという疑問がほとんど解けました。
2012年3月7日のNHKのハイビジョンでの記憶についての放送の録画を見ているときでした。
番組は10種目の記憶力の競技の経過が主題でした。
その中で記憶の達人と普通の人の脳の働きについて比較した結果が紹介されていました。
その内容は以外なものでありました。しかし、わたくしにとっては、それまでに考えてきたことに対して、強い示唆となるものでした。
記憶の達人は記憶をするときに小脳を使っていたのです。
わたくしはそのときまでに、多くの野生動物が記憶を頼りに、水が出る場所を見つけたり、ミネラルを含む土をなめたりすることを知っていました。しかも、大脳がほとんどない動物でも記憶する力があるにちがいないと思っていました。
しかし、知的活動は大脳だけが担当しているものと思い込んでいたのです。
大脳以外の臓器でも知的活動にかかわっている臓器があることが科学で確認されたのです。
空は大脳皮質の一部の働きだけでなく、大脳皮質以外の脳のどこかの働きかも知れないと考えられるのであります。
その有力候補が小脳であるらしいのであります。
空にはその人の欲望が深くかかわっていると考えられます。それに、過去の記憶もかかわっていると思われます。
大げさに言えば、その人が所属する社会や民族の思いや人類の進化の過程も関係しているのではないでしょうか。
それはさておき。
わたくしが考えました色と空は、一般に言われている色と空と異なり、非常識なものであることが分かりました。
そこで、わたくしがまとめました般若心経の和訳を非常識な般若心経と名付けました。
後になって、般若心経の従来の説明から離れた、わたくし流の般若心経を書きました。
しかし、この冊子全体が結局は屑になってしまうのではないか、と言うことで、至屑を付け、至屑般若心経としました。
非常識な般若心経は、まず、この色と空の関係を表した句の漢訳文と書き下し文を書き、例をあげて説明します。
次に、非常識な般若心経の口語訳を書きます。続けて、至屑般若心経を書きます。
5、非常識な般若心経における色と空の関係
非常識な般若心経の色と空を説明しましたので、色と空の関係を調べます。
般若心経で色と空の関係を表している句は、次の3つの句であります。
色は空である、空は色である。
色不異空、空不異色
色即是空、空即是色
第一句の「色は空である、空は色である。」は三蔵玄装訳の般若心経にはありません。
法隆寺に保存されているサンスクリットの写本や多くの写本に見られるそうです。
それによりますと、「色は空である、空は色である。」です。
前出の岩波文庫本には、 中インドのマダカ国の沙門法月が西暦738年に訳した漢訳本、普遍智蔵般若波羅蜜多心経には「色性是空 空性是色」と訳してあるそうです。
「性」は角川書店の新字源によりますと、仏教の用語として「万物の普遍な原因」とあります。
以上のことをまとめて書き下し文にしますと「色の原因はこれ空なり、空の原因はこれ色なり。」となります。やさしく言えば「色の因になるものは空である、空の因になるものは色である。」となります。
第二句や第三句との形とそろえると「色性是空 空性是色」が適当と思います。
色は空である。この句を、例をあげて説明します。
二、三日満足な食事ができなかった人が、道端のお地蔵さんに泥のおにぎりが供えられているのを見ます。
目から泥のおにぎりの信号が入ります、「信号を処理する場所」に泥のおにぎりの信号が入ります。
しかし、たいへんお腹がすいていたため、お米のおにぎりとして、処理されます。
そこで、お米のおにぎりとして「像を映す場所」に信号が送られます。
「像を映す場所」にはお米のおにぎりの像が映ります。
このときの、お米のおにぎりとして、信号を送った脳の働きが空であります。
信号を受けて脳に映ったお米のおにぎりの像が色であります。
実際に供えられていた泥のおにぎりは色ではありません。泥のおにぎりは悩みの因でないからであります。
始めから泥のおにぎりと分かっていれば悩みはありません。ですから、泥のおにぎりは色ではありません。
空は色である。この句の説明をします。
泥のおにぎりを、お米のおにぎりと思った人が食べようとして、よく見たら、泥のおにぎりであることが分かりました。
がっかりしたその人が、好物の寿司を思い浮かべて、いっそう、お腹がすいて悩みを深くしたとします。
記憶の場所から出た寿司の信号が、「信号を処理する場所」を経由して、「像を映す場所」に寿司の像(あるいは、寿司という言葉)を映したのであります。
このときの脳の寿司の像が色であります。脳に寿司の像を映つした「信号を処理する場所」の働きが空であります。
色不異空、空不異色。この第二句の書き下し文は次のようになります。
色は空と異ならない、空は色と異ならない。
異ならないということは、同じということとは違います。
色も空も苦の因ですから、苦に関する限り本質的には異ならない、というとだと思います。
または、色も空も共に心の働きである、だから、異ならないと説いていると思います。
色即是空、空即是色。この第三句の書き下し文は、次のようになります。
色はすなわち空である、空はすなわち色である。
体の内外から刺激を受ければ脳が働きます。脳が働けば脳に像が映されます。
脳に像が映されますと、その刺激によって、脳が働きます、脳が働きますと脳に像が映されます。
色と空は切り放すことができない一対のものであることを言っていると思われます。
苦はこの循環の中に生じます。
しかし、この循環の中で耐え難い苦を耐えられる苦にすることはできると思います。
この循環を断ち切れたら小さな“安らぎ”を得たことになります。
色と空の循環でかわることができるのは空であります。
耐え難い苦を耐えることができる苦に変えられるのは“空をかえる”ことです。
空に影響を与えられるものは心(智慧)であります。
脳の働きに作用して脳の働きを制御する心、この智慧の獲得こそが苦しみを減らす道であります。
智慧(悟り)について、説明します。
悟りを智慧を同じものとして扱っていますが、もちろん、違うものであります。
悟りは結果であります。脳に移る色であります。
智慧は悟りを得るために使われる資料であります。悟りを脳に映す信号を送るために必要な手がかりであります。
悟りは智慧の後押しを受けて得られるものと思います。
ここでいう心とは空に影響を与えるすべての心を示しています。
進化の過程で獲得されたことから、人種として、民族として遺伝子に書き込まれたこと、祖先や親の経験、さらに、その人が生きてきた中で経験してきたことまで、すべてであります。
お地蔵さんに供えられた土のおにぎりを、お米のおにぎりと見ることも、お供え物だから盗ってはいけないと考えることも、腐っているかもしれないからと調べようとすることもできるのであります。
悩みを減らすために、どのように考えたらよいか、いくつもある考え方から探し出すことが必要と思います。正しい智慧によって選び出された結果が悟りであります。
脳の働き(空)を悟りに沿った働きに近づけていく努力が行(ぎょう)であります。
悟りは一つではありません。いくつかの考えの中で、自分にはこの考えが良いと確信した処し方が悟りであります。
この悟りのように行うならば、悩みは減って耐えられる悩みに変わると思います。
一つの悩みに対して、いくつもの悟りがあります。
一つの悟りを行ったとしても、その悟りが誤っていたということがあります。
悟ったように行っても、耐えられないほどの悩みが続くのであれば、別の悟りを求めてください。
悩みが耐えられるものになれば、あなたの悟りはまちがっていないことになります。
智慧と悟りをこのように考えました。
以上で、色と空の関係を表した3つの句の説明を終わります
6、非常識な般若心経の口語訳
まず、三蔵玄装が漢訳をしたときに加えたと考えられる語句の和訳は省略 します。省略した語句は(□□□)で表しました。 また、ない方が分かりやすい語句も(□□□)としました。 この判断の基準は前出の岩波文庫の般若心経によっています。 |
すべてを知る方にご挨拶を申し上げます。
むかし、苦しみを減らす智慧の完成を求めて修行をした人がいた。と、お坊さんたちは考えました。
お坊さんたちは、その人を観自在菩薩と名付けました。
観自在菩薩は修行をしているときに、色と四つの精神作用が送る信号を受けて脳が働き、その働きから生じる信号が脳に像を映す。この脳に映った像が苦の原因であると考えました。
そして、苦の因になっているものは、すべてが脳の働きから来ていると、確信しました。
(度一切苦厄)
シャーリプトラは禅定に入っていられるお釈迦さまに、心安らかに暮らせる智慧について尋ねました。
シャーリプトラに対して観自在菩薩が答えました。
シャーリプトラよ。
脳に映る像の因になるものは脳の働きです。
脳の働きの因になるものは脳に映る像です。
脳に映る像の因になるものは脳の働きと異なりません。
脳の働きの因になるものは脳に映る像と異なりません。
脳に映る像の因になるものは脳の働きです。
脳の働きの因になるものそれは脳に映る像です。
四つの精神作用も脳に映る像と同じです。
シャーリプトラよ。
苦をもたらす、脳に映る像は、脳の働きの信号を受けて映るという特徴があります。
脳に映る像から脳に映る像が生まれることはありません。また、脳に映る像がなくなることはありません。
脳に映る像は汚れていませんし、清らかでもありません。また、増えもしませんし、減ることもありません。
シャーリプトラよ。
脳の働きの中には、脳に映る像はありません。四つの苦の因になる精神作用もありません。
目も、耳も、鼻も、舌も、身体も、意志もありません。
色彩も、声も、香りも、味も、触った感覚もありません。
見える範囲もありません、また、意識の範囲もありません。
悟りを妨げる無知はありません、また、悟りを妨げる無知が尽きてなくなることもありません。
老死はありません。また、老死が尽きることもありません。
苦しみや苦しみの原因や苦しみが少なくなることや苦しみを少なくする方法もありません。
知識もありません、得ることもありません。
得ることがないのを知っているので、道を求める人は完成された智慧によって安住しています。
そのために心に妨げがありません。心に妨げがありませんから、恐れがありません、心が揺れ動くことなく安住しています。そして、消滅して永遠の安らぎに入ります。
過去・現在・未来の三世に安住する目覚めたすべての人々は、完成された智慧によって、完全な正しい悟りを知りました。
それだから、知らねばなりません。完成された智慧から生じる大いなる言葉は、この上はない素晴らしい言葉、比べることができない素晴らしい言葉でありますから、すべての苦しみを苦しくないものにする言葉であります。
この言葉は、偽りがないから真実であります。
その言葉は次のとおりであります。
進め、進め、前に進め、集まって前に正しく進め、彼は悟りを語った。
以上のように、智慧の完成の真髄は獲得された。
非常識な般若心経は原典の直訳に近い構成になっています。色と空を定義を使って説明しましたのでその分省略することができます。
色が色から生じないことや空の説明、あの有名な“無”が続く部分がいらなくなります。
これらを除いて、苦が生じるときと苦を少なくする方法を加えましたのが至屑般若心経です。
7、至屑般若心経
むかしむかし
お釈迦様が亡くなってから500年よりも後のことです。
南インドにナーガールジュナ(那伽樹那、竜樹)という僧がおりました。
ナーガールジュナは釈迦の教えから離れ、以前からあった空という考えを基にして大乗空教という宗派の基礎を創りました。
般若心経はこの大乗空教が編纂した経であると思われます。
大乗空教の僧達は討議を重ねた結果、苦の原因になる色・受・想・行・識の五種類の心の負担は、すべて、空によって生じると確信しました。
お集まりの皆様
美味しい料理が食べたいが食べられない。
好きな人に会いたいが会われない。
人は強く望むことがあるときに、その望みがかなえられないと苦しみが生じることがあります。
病気になったり、怪我をしたり、身体のどこかの働きがよくなかったり、身体のどこかが痛かったりする。
このようなときにも苦しみが生じることがあります。
これらの苦しみの因になるものは像として脳に映ります。この像を色と言います。
色は六つの感覚から直接送られる信号によって現れるのではありません。
人の脳には、身体の内外から受けた信号を処理して、脳の中に、色を映すような信号を出す、そのような働きがあります。
この脳の働きを空と言います。
処理の仕方は、そのときの状況によってかわります。
満腹のとき空腹のとき、楽しいとき悲しいとき、買う前買った後、暑いとき寒いとき、迷っているとき決めた後など。
そして、最後に智慧の決断によって信号が出されます。
この空が脳のどこの働きなのか、現在のところは分かっていません。
空が出した信号によって色が映ります。
色が映りますと、その色が出した信号によって空が生じます。
このように、空は絶えず変化しますから、空から出た信号によって映し出される色も絶えず変化します。
ところで、皆様
色が出す信号で、色が映ることはありません。
空が出す信号だけが脳に色を映します。そうですから、智慧によって空が出す信号をかえ、苦を少なくする信号を出すことができます。
苦を少なくする程度は、その智慧の程度によって決まります。
一つの智慧で苦が小さくならないときは別の智慧を見つけてください。
過ぎ去った楽しかったときに浸ることよりも、これからの生活をどのように生きるかを考えましょう。自分だけの幸せだけでなく、周りの人のことも考えるようにしましょう。
このようにすれば、例え、実現しそうもないことでも考えに客観性が多くなり、冷静さが増すと思われます。
空には身体の内外からの刺激だけで信号を送るような働きはありません。
空は、六つの感覚からの信号だけでなく、現在の状況や現在までの経験の記憶からの信号や民族の経験の記憶からの信号、さらに、人類の経験の記憶を保っている場所からの信号も受けます。おそらく、生命発生からの経験の記憶からの信号も受けると思われます。
そして、これらの信号を、現在までに獲得した智慧で処理して、処理された信号を送って色を映します。
皆様
正しい智慧(悟)を得た人は、もう、今以上の智慧を得ることはないと知っていますから悩むことなく幸せな人生を楽しんでいます。そして、安らかに死んで行きます。
正しい智慧を求めていられる皆様に、次の、言葉をお送りします。
進め、進め、前に進め、集まって前に進め、智慧よ万歳。
このようにして、正しい智慧は獲得されました。
7-1至屑般若心経(詩)
2013年7月10日 鈴木 和夫 訳
むかしむかし お釈迦様が亡くなって 500年ほど後のこと 南インドに一人の僧がいた 僧の名前はナーガールジュナ(那伽樹那、竜樹) ナーガールジュナは大乗空教を開いた 宗派の僧は集まって 苦の消滅を話し合い 苦の因は心に浮かぶ像である 像は心の働きで浮かぶと確信した |
美味しい料理が食べたいと 好きな人と結ばれたいと 求める心が強いとき 望みがかなえられないと 人は苦しみを感じます |
病気になったり 怪我したり どこかの具合がよくないと 身体のどこかが痛いとき 人は苦しみを感じます |
仕事がうまくいかないと 人との交わりがよくないと あるかないか分からない ひとの噂を気にすると 心に悩みがあるときに 人は苦しみを感じます |
これらたくさんの苦しみは 頭の中の脳の中 かたちがあってもなくっても 像として映ります この像を色と言いましょう |
人は皆 脳の奥のその中に 進化の過程で身に着けた 祖先や親が身に着けた 生まれ育って身に着けた 多くの智慧を貯めている |
六つの感覚からの信号は 心に貯められた智慧により 手を加えられ変えられて 脳に色を映します |
身体の内外からの信号を 智慧によって処理をして 色を映す働きがある この働きを空と言う |
空は働き形はありません 空は働き香も味もありません 空は働き働き以外はありません |
空が映した色により 大きな苦が生じたら 色の発する信号を 空が受け取り智慧の力をかりて 新たな信号にして発します 新たな信号が新たな色を映します |
苦の信号が空を生じ 智慧を使って苦を減らす この智慧を悟りと言いましょう 人は悟りによって動きます 良い悟りは苦を小さくし 良くない悟りは小さくしない |
色が出した信号が空を生じます 空は智慧の力をかりて 信号を処理します 処理の仕方はそのときの 状況によってかわります 満腹のとき空腹のとき 楽しいとき悲しいとき |
買う前買った後 暑いとき寒いとき 迷っているとき決めた後 このようにして 空は絶えず変化する 色も絶えず変化する |
色が出す信号で 色が生じることはない 空が出す信号だけが 脳に色を映します 空は智慧の助けを受けて 苦を少なくするように 信号を出して苦を減らす |
正しい智慧(悟)を得た人は 今以上の悟りはないと知っている 悩むことなく幸せな 日々を楽しんで暮らしてる やがて 安らかに死に至る |
正しい智慧を求める皆様に、次の、言葉を送ります 進め、進め、前に進め、集まって前に進め、智慧よ万歳 |
8、終わりにあたって
○ 至屑般若心経にはシャーリプトラが出てきません。
シャーリプトラは釈迦より前に、般若経が成立する時より五百年以上昔に亡くなっています。
さらに、観音様は他の宗教の影響によって、二世紀ごろに、創造された仏てあると考えられますので書きませんでした。
観音様が般若心経に登場することから、般若心経が完成したのは二世紀以後のことのようです、釈迦が亡くなってから七百年も後のことになります。もっとも、観自在菩薩の名が般若心経が編纂されてから後に加えられたのであれば、般若心経はそのとき以前に編纂されたことになります。これを確かめるには観自在菩薩を書いてない般若心経を見つける以外にないでしょう。
○ 五蘊について、
五蘊は色・受・想・行・識の五つであります。
色は前に説明しましたので、受・想・行・識の説明をします
仏教日常辞典によりますと受は感受作用、想は表象作用、行は意志などの心作用、識は認識作用をさす。とあります。
長い狭間を歩いています。「ただ崖をみているだけ」ですと、受であります。
「石がある、花が咲いている。」この段階は想であります。
「地層にずれがあるかないかと捜して歩く。」これは行であります。
「このずれには粘土層がある、ずれたのは何時頃であろうか、このずれが動くとどれほどの量の土がくずれるのであろうか。」このような段階を識と言います。
ぼんやりと見ているだけの、受と、石があるとか花が咲いてる、気付く段階の想。
すすんで地層のずれを捜す行。そして、粘土層があるとか、いつごろ動いたずれてあるか、とか、地震による影響はどの程度であるだろうかとか、分析して検討する識。
2009年8月1日の五蘊の説明を考え付いたときには、川に散らばる石でした。しかし、五蘊の例としては断層の方が良いと思われましたので,上記のようにしました。
○ 悟りについて
この文の中で悟りという言葉を使いましたが、一般に言うところの悟りとは違った意味で使っております。一般に悟りと言いますと修行の最終段階をさしますが。ここで、使った悟りは、修行の始まりの段階をさしています。
釈迦が言いました 「悟りて後に行ぜよ」の悟りであります。
この書を書き上げますまでに、本当に多くの人のおかげをいただきました。般若心経を編纂されたお坊様から今日に至るまで、直接お声をいただきましたことはございませんでしたが、すべての方々にお礼を申し上げます。
また、この書を書き上げますまで頑張ってくれた身体と、身体を伝えてくださったすべての命にもお礼を奉げるものでございます。
二千十五年十一月一日
鈴木 和夫
蛇足
苦はすべて心の持ちようである。
一言で言うとこうなるのではないでしょうか。
心が六つの感覚に覆われていれば、苦は絶えることなく人に訪れると思います。
六つの感覚に覆われない心を獲得したとき安らかな日々の中に暮らしていける。と思います。
おいしい物を食べても、さらに、おいしい物を求めようとしない。珍しい物を手に入れても、別の珍しい物を求めようとしない。辛い思いをしても、辛さを引きずらない。
永遠に続く時間の今の一時を切り取って、その一時のためだけに誠実に生きる。
その一時が永遠に続くそんな人生が持てたらすばらしいと思います。
そんな人生をもたらすのが智慧であります。
2013年6月24日 朝、窓の外は薄く白んでいました。昨夜、般若心経の終りの偈を訳し直していたのが後を引いていたのでしょう、何となく、心経の全体の構成を考えていました。
勧自在菩薩から五蘊皆空までは始めの言葉で、たいした意味はありません。
色不異空から亦復如是までは色と空の関係を書いています。この色と空は後世心経の主題となりますが心経が成立した頃は共に心の働きである。このこと、を明らかにしただけではないかと思います。
是諸空法から以無所得故までは、苦と関係することは空以外にないことを説いています。“無し”が続く長い文は、苦の因になるのは六つの感覚の刺激だけではないことを説いていると思います。
菩提薩埵から故智般若波羅蜜多までは智慧を獲得した人について述べています。この数句が心経の主題だと思います。
智慧を獲得した人がいかに安らかに生活できるかを強調していると思います。
般若波羅蜜多が般若心経の主題であることを現わしていると思います。。
是大神咒から説般若波羅蜜多咒までは最後の偈の讃辞です。
老の苦も病の苦もつまるところ生の苦しみであり、生きる悩みであります。
年をとればとっただけ空に与える影響が多くなっていきます。
老いて「若かったら・・」と悩むことが増えてきます。病気になって「健康だったら・・」と悩みます。ただ生きるだけでも悩みの多い人生に、老いによる悩みや病による悩みが加わります。若いとき、健康なときより悩みは多く、苦は大きくなります。
しかし、「老いたときは老い、病んだときは病む」という言葉があります。
また、「老いを楽しむ、病を楽しむ」などいくつかの言い方があるようです。どれも、老い、病の苦を滅した結果の言葉なのでありましょう。
老いたという思いは色であります、病んだという思いは色であります。
この色からの信号によって生じた空によって映った色が上記の言葉であります。
死はだいぶ事情が違うようです。すすんで死に立ち向かう人、自分から死ぬ人、死ぬように仕向けられる人、殺される人、病や事故で死ぬ人、眠るように死ぬ人。
皆が皆、死に際して悩み苦しむとは思われません。
死が怖いのはなぜなのでしょうか、わたくしには分かりません。
確かなことは、死そのものが怖いのでなく、知らないものに対する恐怖のように思います。死の情報がどこにもないからだと思います。虫にしても獣にしても植物さえも死を恐れるようです。そうですから、死を恐れるのは本能だと思います。
このように死について色は映りません、死の結果としての死体の像は映りますが死は映りません。
映るのは死体の像か死という言葉なのであります。
生についての苦は限りなくあります。この苦はすべて人の心から生じます。苦が生じないように智慧を獲得することが求められます。
9、仏教の語句とわたくし
般若心経から離れますがいくつかの気にかかっている語句や文についてわたくしの解釈を述べたいと思います。
語句や文を書いただけのものもあります。
その一つは、神・仏であります。
2012年3月19日午後11時2分に湯船に入って湯に浸かった時、突然、気が付きました。
釈迦が始めた仏教は無神教である。と、釈迦が始めた仏教は道を求めて修行する人を菩薩と呼び、道を得た人を仏と呼んでいたのですから、仏は人間のはずだと、気が付いたのであります。
過去においても、未来においても、道を得た人は等しく仏であります。大乗仏教に書かれている、四方に在ます仏はほとんどが空想の産物であります。あるいは、土着の人々を取り込むために、土着の神を仏にしたものと思われます。ちょうど、釈迦がヒンヅー教の神であるように。
その一つは、釈迦の二本の矢の例えであります。
わたくしの記憶が正しければ(これほどあやふやなものはないのですが。)
釈迦は言いました。「一本の矢を受けた者はその痛みによって悩む、そして、なぜ、矢を受けてしまったのだろうと思い悩む。人は二本の矢を受けて悩む」と。
その一つは、釈迦の毒矢の例えであります。
釈迦は言いました。「毒矢を受けると、その毒のはどんな作用があるかとか、その毒の成分はなにかとかを問いただすよりも、一番にすべきことは手当をすることだ。」と。
その一つは、天上天下唯我独尊であります。
天上天下はこの世に生きる諸々の生物(人)と考えて良いでしょう。
唯我独尊は我一人だけが尊いと考えると、釈迦の心を伝えている言葉だと納得されます。
まとめますと、「この世に生きるすべての生き物は、唯唯、自分一人だけが大切なのだ。」。
いかがですか、貴方は。どのように受け取りましたか。
「なんと、身勝手な考えだ。」、「自分だけが尊くて、自分以外は尊くない。」なんて、釈迦はそんなことを説くはずがない、と受け取られたら、正解だと思います。
唯我独尊の言葉の中に、自分以外は尊くないなんて、そんなことは、説かれていません。
説かれているのは「自分が尊いと感じて生きるのだ。」ということです。
ですから、「あの人も、この人も、わたしも自分のことを大切だと思っている。」。
「だから。」
「わたし自身を大切にするように、あの人も、この人も大切にする。」
ここには、あの人もなく、この人もなく、わたしもなく、ただ、我があるだけであります。
この唯我独尊は釈迦の言葉ではないでしょう。生まれてすぐの赤子が七歩歩いていったなど嘘に違いないと思います。しかし、嘘だという証拠はありません。ただ、王子であったころと違いすぎています。後世の大乗仏教の誰かが作った話と思われます。
その一つは、釈迦の自灯明法灯明の教えであります。釈迦の最後の教えとされております。
死の直前、最後の教えを願ったアーナンダに釈迦は説きました。
「自らを明かしとし、法を明かしとせよ。」と。
法は釈迦が説いた教えでありますから問題はありません。
問題なのは自らであります。
現在わたくしが理解し言葉にできる自らはまだ得られていません。
その一つは、釈迦の筏の教えであります。
釈迦は言いました。「旅人が旅の途中で大きな川に出会いました。歩いて行くのには深すぎます。泳ぐのには流れが速く川幅が広すぎます。そこで、旅人は筏を作って川を渡りました。
川を渡った旅人は考えました。あんなに苦労して作った筏であるから持っていこうと。」
あなた方はどう思いますか。
しばらくして、釈迦は説きました。「どんなに苦労をして作った筏でも、筏を持って旅を続けられるだろうか、行く先はまだ遥かである。筏を捨てて旅を続けなさい。」と。
原話から離れてしまったようですが。趣旨は合っていると思います。
釈迦は何を筏に例えたかは言っていないようです。ある学者は言っています。「法そのものも筏である。」と。
2014年2月21日 NHKテレビのEテレのこころの時代の録画を見ていました。そのとき、気づきました「筏」はこういうもの、ああいうものというものでなく、過ぎてしまったすべての“もの”だと分かりました。要らないもの要るもの、拘っているものすべてのものであると分かりました。
その一つは、歎異抄に出てきます、親鸞聖人の言葉であります。
「善人なほもつて往生を遂ぐ。況んや、悪人をや。」この一文は歎異抄の書かれたころから論議されているようです。
悪人とはどのような人なのか、を考えました。世間で言われている悪人とは違う人だということは明らかであります。そうであるならば、つまり、外から見ての悪人でなければ内から見ての悪人だということです。
そうです。自分を悪人と思っている人だということです。「善人なほもて・・・」の言葉をわたくしは、次のように読みました。
「自分を善人と思っている人でさえも往生を願い念仏を唱えれば往生をする。まして、弥陀の誓願を信じて、自分を悪人だと思って往生を願って念仏を唱える人であるなら、なおさらのことである。」
その一つは、良寛さんの言葉です。
「言ってはいけないことは、俺がああした、こうした。」
この一言はわたくしを長年縛り続けた一言です。
2014年 2月21日上の筏の例えの追加文を書いていましたときに、気が付きました、この良寛さんの言葉は自分が言ってはいけないこと、ではないかと、気が付きました。
2020年3月10日 久しぶりに校正しました。
参考文献(五十音順)
○現代語訳対照歎異抄(旺文社文庫 1979年11月25日)安良岡康作
○古代の歴史ロマン6 サンスクリット文法入門(国際語学社2004年5月25日発行)中山元著
この本はサンスクリット文字とローマナイズド・サンスクリット文字の般若心経が載っています。
○コロンビア大学白熱授業(日本放送協会 地上教育番組)
○サンスクリット語-日本語単語集(国際語学社 2001年7月6日発行)中山元著
この単語集はローマ字順になっていますので使いやすいですが、なぜかCを頭文字にする語がありません。
○初心者のためのサンスクリット辞典(世界聖典刊行協会 2005年8月31日発行)平岡昇修著
この辞書はサンスクリット語の順になっています。
○般若心経・金剛般若経(岩波文庫 昭和35年9月10日発行)中村元・紀野一義訳
一番多く参考にさせていただきました。
この本は、数種のサンスクリット文を参考にして書かれた和訳と、三蔵玄奘訳の漢訳とその書き下し文が載っています。
さらに、いくつかの言語の般若心経を参考にしたローマナイズド・サンスクリット語の大本と小本の般若心経が載っています。
○仏教日常辞典(太陽出版 2005年3月20日発行)増谷文雄・金岡秀友著
余計なお世話
2013年の7月から8月にかけて、NHKのEテレで、コロンビア大学の大学院でアイエンガー博士の授業の様子を放映していました。
アイエンガー博士の授業は人生において良い選択の大切さを説いていられます。
般若心経では、良い智慧が必要なことは説いていますが、いかにして良い智慧を獲得するかについては説いていません。
アイエンガー博士は、いかにして、良い智慧を選択するかを説いているように思われます。
再放送がありましたら、ぜひご覧になってください。
10、読者の欄
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二千十年十月三十日 著者 鈴木 和夫