05 原点

「うぇっ……ひっく」
「あれあれっお嬢様。綺麗なお顔をグシャグシャになさって、一体、どうなさったんです
?」
「キューブぅ……えっく」
 幼い私が泣きながら屋敷の扉を開けると、そこにはいつも微笑みを絶やさない執事が出
迎えてくれたわ。紺碧の海よりも、もっと深くて綺麗な紺青色の髪を波立たせ、卵形の大
きな瞳がとてもチャーミングな褐色肌の男の子は、私が生まれ程なくしてやってきたとい
う、たった一人の我が家の執事だったの。
「さぁさぁ、リビングにお嬢様の大好きな甘いお菓子とホットミルクの用意が出来ており
ますから、一緒にティータイムと致しましょう」
 キューブは、私のことなら何でもお見通しな男の子。生まれてからずっと私の面倒を見
てきてくれた彼には、涙を止めることなんて御安い御用。そのたった一言だけで、私の泣
き声を消し去ってしまう。
「旦那様、お嬢様がお帰りになられましたが、ご一緒にお茶はいかがですか?」
「あぁ、そうだな。頂こう。リビングでいいかな? 先に行っていてくれ。こちらも間も
なくきりがつきそうだ」
「畏まりました」
 私の手を引きながら、途中書斎の前でお父さんに声を掛けることも忘れない。まだ14、
5の少年というのに、その行動は生涯務めた老執事のように無駄がなく、悠然と立ち振る
舞われていた。
「どうぞ、お嬢様」
 そうこうしているうちにリビングに佇む大テーブルの前に着いた私は、キューブに引か
れた椅子に腰を下ろす。
「旦那様がいらっしゃる頃には美味しいマフィンが焼きあがりますから、もう少しだけお
待ち下さいね」
 木製のマグカップを置きながら、ウインク一つしてキッチンへと消えていくキューブ。
 そして、幼い私は何するでもなく目の前にあるマグカップの中をじっと見つめてしまう。
マグカップに注がれたホットミルクから燻《くゆ》る湯気は、口の部分でゆらゆらと渦を
巻き、それはまるで逃げ出せない運命の輪の中で足掻いている自分自身を見詰めているよ
うで、私は悔しさと悲しさでいっぱいになってしまった。
「お待たせ。おや、クラリス? また泣いているのかい?」
「泣いて……ないもん」
 リビングに届いた声に私は慌てて瞼を拭い、入口の方へ振り返る。
「そうかい? その割りには、お目々がウサギさんのようになっているよ?」
 通りすがりに私の金髪を撫でる温かくて優しい手。俯いた視線を上げて見る後姿は、ピ
ンと背筋が伸ばされた中背で繊細な身体つき。漆黒色の切り揃えられた短髪に象牙色《ア
イボリー》の礼服を纏う姿は、歴戦の勇者というよりも今が旬の文筆家といった表現のほ
うが正しいかも知れない。
「あぁ、丁度良かった。さぁ、キューブ特製のマフィンが焼き上がりましたよ。どうぞ、
召し上がれ」
 竈《かまど》から取り出された鉄板の上には、キツネ色に焼けたマフィンが甘い芳香を
立ち上らせていて、幼い私の意識を逸らすには十分だった。ぐーぅと不躾にお腹が鳴って、
向かいに座ったお父さんから笑い声が漏れる。
「なんだ、お腹が空き過ぎて泣いていたのかい? クラリスは食いしん坊だな」
「クスクス……まぁまぁ、旦那様。生き物は皆、お腹が減るように出来ているんですから。
はい、じゃぁ、お嬢様には一番大きなこのマフィンを差し上げますね」
「違うもん。泣いてないもん!」
 私は二人に抗議した。けれど、それは抗議なんかじゃなかった。もう私の頭の中は、恥
ずかしくて、悲しくて、もどかしくて──色んな感情と記憶が鬩《せめ》ぎあって、何も
考えられないぐらいぐしゃぐしゃになってしまっていて、吐き出される言葉を選ぶゆとり
なんてなかったもの。
「キューブが悪いんだもん! キューブが居るから苛められるんだもん!」
 今でも、ときどき夢に見るわ。お父さんの強張った表情と、キューブの恐れを含んだ悲
しい……何もかも諦めたような表情。
 分かっていた。幼い私でも部屋中の空気が凍りついたように感じられた瞬間……これ以
上言葉を発してはいけないことぐらい。でも、それでも、私の口は止まらなかった。だっ
て今、口を止めてしまえば、部屋に留まった氷の刃たちは、きっともっと深く、私を傷付
けにくるって本能的に覚《さと》ってしまったから。
「キューブが変なんだもん。大きくならないんだもん。みんな言うんだよ、ずっと同じ格
好してて気持ち悪いって」
「ッ!」
「クラリス! 止めなさい」
 いつもの私なら、お父さんのその一言で止まっていたわ。でも、この日だけはダメだっ
た。我慢の手綱は、もうさっき手放してしまったから。
「どうしてパパが怖いお顔するの? 変なのはキューブだもん。お髭も生えないし、背も
伸びない。ずーっと同《おんな》じ格好なんだよ。みんなは、きっと魔族の子どもだって
──ッ!」
 リビングに響き渡る乾いた音と同時に、私は言葉を失った。
 目の前には、今まで見たことのない厳しい表情で手を翳しているお父さん。そして、左
頬にじんわりと広がっていくのは、熱。
 私は、何が起きたのか理解できなくて、無意識に熱い頬に手を添えて驚いた。
 痛い。
 でも、それは触った頬じゃない。痛いのは胸。それも、もっともっと胸の奥が、じんじ
んと音を立てるぐらいに腫れ上がってしまうよう。喉も乾燥して、空気を取り入れること
さえ苦しくて涙が込み上げてくる。
 でも、私は泣けなかった。それは、目の前で一粒の涙を零した執事の姿を捉えてしまっ
たから。その雫は、私が見る初めてのキューブが流した涙だったから。
 それでも、辛さに歪んだ顔を無理に押し込めて私を見つめるのは、必死に執事の仮面を
取り付けようとする少年の姿で──
「申し訳ありません、お嬢様。お嬢様の苦痛は、私の苦痛。どうか、お気の済むまで不埒
な私に罰をお与え下さい。私は、本来ならこの場所に居ることも憚《はばか》られる魔族
に呪われた者なのですから」
 跪き、全権を私に委ねるキューブ。けれども、私は彼の言葉が気になってしまって、そ
のときだけは怒りも悲しみも忘れて、問い返すことがやっとだった。
「呪われた……者?」
「はい。私は先の大戦で魔族と対峙したときに、呪法という呪いの魔法をかけられてしま
ったのです。それは永遠に年齢《とし》を取らぬかわりに、あるとき突然心臓が動かなく
なるという呪いの魔法でした」
「え……」
 幼い私の思考はその一言で止まってしまったわ。
 あまりにも淡々と事実を告げるキューブは、怖いくらいに冷静で、同時に言葉を続けて
いる姿が、身震いするほど恐ろしかった。
「その魔族はとても残忍なヤツでした。いつ死ぬかも知れない恐怖を与えることで、絶望
に歪んだ顔を見て、とても愉快に笑うようなヤツでした。そして、悔しかったら俺を倒し
てみろと。倒せば自然に呪いは解けるだろうと挑発してきたのです」
「キューブ、もういい」
 今思い出してもこのときだけ、キューブはお父さんの制止にも耳を貸さなかった。幼い
私をしっかりと見つめ、今に続く運命の話を止めようとはしなかったわ。
 それは、仕える者にとって一番大切な、嘘偽りのない信頼を築くためなんだと思う。
「私は無我夢中に戦いを挑みました。けれど、最初からそれはヤツが楽しむ為の余興に過
ぎなかったのです。私は、全く歯が立ちませんでした……」
「それじゃ、キューブは……」
「今日死ぬかも知れませんし、もっと長生きできるかも知れません。全てはヤツの気紛れ
次第で、今日まで生かされているだけなのです」
 結末まで述べてからもう一度私に「どうか、私に罰を」と力無く微笑むキューブ。
 いつも微笑んで私を迎えてくれる執事は、とても小さく感じた。
 いつ動かなくなるかも知れない身体で、でもそれを悟られないように人一倍仕事に励み、
毎日を恐怖と戦っている執事の強さに、堪えていた涙が零れた。
「キューブの……バカ。どうしてッ……どうしてホントのこと教えてくれなかったの」
「返す言葉もございません……」
 本当に悪いのは何も知らぬまま罵ってしまった私の方なのに、それでもキューブは文句
一つ言わず私の前で跪いたまま動かない。
「じゃあ、早くその魔族を倒さなきゃ」
 そこでキューブは静かに首を振ります。
「アイツはとても強大です。生半可な力では到底倒すことはできないでしょう。それに、
自暴自棄になっていたこんな私を、旦那様はこの屋敷の執事として温かく迎えて下さった
のです。私は、一生を懸けてその恩に報いたい。ただそれだけです」
 彼は一瞬の大切さを知っていた。だからこそ、私やお父さんの為になるように毎日を精
一杯に生きているんだ、と。
 そして、私はようやく気付いたの。
 私がどれほど愛されて育っていたのか。そして、私はどれほどその愛に応えず生きてき
たのか。 
 弱かったのは、私の心だったの。行動する前に怖気づいて、動かなくなってしまう弱い
心。そのことを知らないフリして、できないって何もかもを嘆いていた。全てを世界のせ
いにしていた。
 そうじゃない。
 できないことに挑戦して、失敗して──それでも少しずつできるようになっていくんだ
って。なりたい自分に向かっていくんだって。
 今度は私が愛を返す番。
「キューブ……わたし……わたしが、キューブを守ってあげる。だから……だから、絶対
死んじゃ……ダメ……ダメなんだからぁッ!」
 私はありったけの勇気を振り絞って叫んだわ。
 声は無様に震えていたけど……でもね、そのとき私の見えている世界はずっとずっと広
く輝きだしていったのよ。
 愛する人を守るため、強くなるんだ──


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