第二話 災厄の日

 一陣の風が吹き抜け、辺りの木々と野草を揺らした。
 どこまでも高く蒼い空から打ち付ける日差しに辟易しながら、Yシャツの襟を緩めて、
俺はまた歩き出す。
「兄さ〜ん、遅いよぉ」
 上方からハーモニカの音色のような声が届き、その声の小ささに随分離されてしまんた
んだなと気付かされた。
「分かってるから、先に行けよ。すぐに追いつくからッ」
 疲労で俯いていた顔を上げつつあらん限りの大声で叫ぶ。そこで、すぐに追いつくなん
て軽く口を吐いた言葉を呪った。長く続く上り坂はこれから急勾配に差し掛かり、先行く
妹──汐音《しおん》──の姿は既に頂上に近い。
 鍔広な麦藁帽を風に飛ばされないようにしっかりと押さえ、真っ白なワンピースをはた
めかせたその様は、今時の若者の格好ではなかったが線の細いアイツにはよく似合ってい
た。その隣でおそらく「だらしないな」などと笑っているのが、普段から学者なんてやっ
ている者の姿に恐ろしく似つかわしくないトレッキングスタイルの親父だ。
「何言ってるの〜兄さん! もう、わたしたちお母さんの目の前だよ〜!」
「だぁッ。分かったっつーの!」
 水一杯に張った閼伽桶《あかおけ》の重量に挫けそうになりながら、石畳の階段を一段
飛ばしで上ってやる。落ち着き始めていた鼓動が再び激しく飛び跳ねだすが構うものか。
もし、心臓発作で倒れたら……なんて、この場では悪い冗談に聞こえるから止めておこう。
 ようやく二人の元へ辿り着いた頃にはほとんど息が上がっていた。リレーのバトンみた
くなんとか桶一式を汐音へ手渡したところで、そのままがっくりと近くの階段にへたり込
む。
「だらしないなぁ。兄さん、体力落ちたの?」
「馬鹿ヤロ……部活の休みの日ぐらい……ゆっくりできると、思ってたのに……朝っぱら
から墓参りに行くって言い出すほうが……おかしい」
 山間の寺に来るまで、徒歩で2時間。それから墓地まで四半刻。疲労の溜まった肉体に
正直コレはキツイのだ。
 大体、現役陸上部員だというのに体力が落ちるってどういうことだよ、とツッコミたい。
「ははは。まぁ、たまには母さんに挨拶しないと、寂しがるといけないだろう」
「お父さんの言う通りだよ、兄さん。それじゃ、お母さん、お水かけるね」
 そういって汐音は麦藁帽子を俺の頭へ預けると、くるりと母さんが眠る場所へ振り返る。
 背に隠れていた藍海松茶《あいみるちゃ》の腰まで届く長髪が風に纏われ虚空へ棚引き、
辺り一面に仄かな花の香《か》を撒いた。陽光を受けてさらに深い黒へと艶を出したその
髪は、同様に日の熱を帯び僅かに桜色へ染まった肌に良く映える。まるで花の妖精が戯れ
ているようだ……ってこれは褒め過ぎかも知れないが。
 汐音は閼伽桶に並々と溢れる清水を柄杓《ひしゃく》で掬い、墓石の縁に沿え流す。相
変わらず一番上の部分は身長が足りずに苦労しているようだ。爪先立った姿は危なっかし
いことこの上ない。
「貸せよ、ほら」
 幾らかマシになってきた呼吸に腰を上げ、その色白で華奢な掌から柄杓を奪い取り水を
注す。すると、花の妖精は急に餌を詰め込んだハムスターのように頬を膨らませてこっち
を睨んだ。
 これも毎度のことだが、俺の胸の高さにも届かない身長《タッパ》は、あいつなりにコ
ンプレックスなようで、毎回墓石相手に背比べしてるってワケ。
「ほらこっちはいいから、花を活け替えろよ」
「……はぁい」
 それでも渋々といった表情も一時だけだ。
 差し替える花へ視線を移したアイツは清廉な美しさに、すぐに虜になってしまう。そん
なコロコロ変わる表情は見ていて飽きることがない。
 ふと、俺の胸をぎゅっと握り締められるような感覚。
 それは、汐音を見詰めていると必ず起こる。彼女が笑ったとき、拗ねたとき、照れたと
き、全てが新鮮に俺の眼に焼き付いて離れなくなる。
 そうだ。俺はこの感覚の正体を知っていた。
 だけど、それを認めてしまうことは、とても自分自身が卑しい人間であるように思えた。
 立場が変われば、きっとこれは祝福される感情に違いない。むしろ、人間の本能ともい
うべきもののはずだ。けれど、今の俺が思うことは非常に罪深いことだと──誰もが間違
いだと言うだろう。
 だから俺は蓋をする。
 俺はいつまでも、永遠の良き兄で居たいのだから。

 §
 
「どういうことだ! 藪医者ぁッ」
「藤堂! 落ち着けってば」
 凄まじい怒気を含んだ声がフロア一帯に木霊し、回りに居合わせた者は何事かと事の中
心を探った。
 そこには初老の医師に向かって、般若の形相で掴みかかろうとする黒髪黒眼の青年と、
その腕にしがみ付き、必死で抑え込もうと鳶色の長髪を振り乱す警備員の姿があった。
「ですから、先ほどから申し上げました通りです。身体的な部位に関しまして、私たちに
手におえる外傷は全て治療しました」
 苦渋に満ちた表情で襟元を正す医師。それは、彼の言葉に嘘偽りがないことをなにより
も雄弁に語っていた。
「だったらどうして……ッ!」
 掴みかかろうとした手を拳に固め、やり切れぬ怒りをビニル樹脂の壁へ叩き付ける光弦
の瞳には、もう眼前の医者の姿など映らない。
 そこに浮かぶのは夕暮れに翳る病室と、その中で聞いた一言だけ。
『ここ何処? 真っ暗だよ……何も見えない』
 これまで大切に護ってきた、
 今ではたった一人になってしまった肉親が、
 その何処までも吸い込まれそうな漆黒の瞳を開いて、
 確かに紡いだ言葉。
「おそらく、精神的な問題なのだと思います。考えにくいのですが、視神経が脳へ正確な
情報を伝達できなくなってしまったのではないかと……」
「そんな……そんなことがあるんですか!?」
「なにぶん、私は外科医なので詳しくは……今後は専門の眼科と精神科のスタッフが引き
継ぎますので、失礼します」
 彼の耳にうっすらと届くのは言い訳がましい医師の声と、未だに信じられないような声
で問い返す友の声。光弦はその意味を考えることなく、その場に崩れ落ちた。やり切れぬ
無力感だけが彼のその身を支配する。
「あ、ちょっと。まだ、話が……って藤堂、しっかりしなよ! アンタまで倒れてどうす
るの!」
「俺は……」
「……とにかく、ロビーで落ち着こう。ほら、立っててば!」
 蹲《うずくま》って動かない光弦の肩を取り、上方へ引っ張りあげる熙俊《あきとし》。
 警備員姿のまま、彼はこの病院まで彼女を運び、付き添ってくれていたらしい。
 身の丈は光弦よりも一回りほど低い為、肩を貸すというより胸を抱えながら、鳶色の髪
の青年は絶望の淵に沈みかける友を一階のロビーまで運んでいく。
「はい。とにかくこれ飲んで落ち着いてよ」
 光弦をロビーのソファに下ろしてから、自販機で買ってきたのだろう。両手に持ってい
たコップの片方を差し出す。
「落ち着けるかよ……」
「でも……」
 心の底から振り絞るような声に、熙俊もそれ以上何も言えず黙ってしまう。仕方なくテ
ーブルへ薦めて向かい側のソファにゆっくりと腰を下ろす。
「何があったんだ?」
 紙コップから立ち昇る湯気が、その一瞬だけ掻き消えたようにも見えた。
 光弦から吐き出された言葉はそれほど負の冷気を帯びていたといっても過言でない。そ
れほど付き合いが長いわけではない熙俊は、初めて友人の剥き出された敵意を目の当たり
にし、噴き出した汗が鳶色の髪と制服へ伝っていくのを感じていた。
「何が……あった?」
 もう一度吐き出された言葉。その声の主は普段の光弦からは想像もできないオーラを発
している。穏やかに耳元に切り揃えられたはずの髪が凶器のように研ぎ澄まされ、細い目
元に輝く黒曜石は怒りと憎悪で赤く……いや、さらに昏《くら》く一点の透かしも無い暗
黒の真珠と化していた。
 彼が病院へ着いた時には、もう汐音の手術は始まっていた。その間に言うタイミングは
あっただろう。無事を祈り縋るような光弦を見て、今言うべきではないと思ったことは確
かだった。だが、それ以上に自分の口から言いたくない事実であったことを認めねばなる
まい。
 己を見詰める瞳に逃がしてくれるゆとりはない。獲物を捕らえる刹那の肉食獣の眼だ。
「僕が……藤堂の家を見回った時にはもう……全て終わった痕《あと》だけが残されてい
たから、詳しい状況は分からない」
 先置きする言葉は、果たして警備員としての事務的なものだったのか、それとも僅かで
も認めたくない真実を先延ばししたかったのか、鳶色の髪の青年自身、気付いていない。
「汐音さんは、自室のベッドに横たわっていた……身に着けていた寝巻きが……乱され、
半裸というより、ほぼ全裸。その所々に暴行を受けたような痣の痕……」
 既に喉の奥は干乾びていた。先ほど口につけたコーヒーの苦さだけが喉に張り付いてい
る。畏怖か哀憐《あいれん》、それとも深い後悔か、熙俊は震えが止まぬ声で最後の一言
を搾り出した。
「汐音さん……強姦《レイプ》されたんだよ」

 §

 事実を知った後、光弦は咆えた。内に溜め込んでいた全ての怒りと、憎しみと、怨みつ
らみを破壊衝動へ転化し、そのやり場は眼前に見える所々プラスティックでカバーされた
木製座卓に充てられた。
 決して細くない装飾された脚を右蹴り一発でへし折り、バランスを崩し倒れ掛かった天
板を前腕の一振りで二つへ分かつ。乗せられていた紙コップが宙を舞い、熙俊の制服を塗
らしたが、そんなことに気を取られる状態ではなかった。
 何事かと患者や医師が駆けつけてくるが、その場にいたのが警備員の制服を着た熙俊だ
ったのが幸いした。彼の上げた掌を見て、観客はその場で静かになる。
 熙俊はその場に座ったままだ。気を荒げる光弦を真正面に見据えて。
「気持ちは……分かるよ。ケド……」
 反論する意思に対してか、それとも単純に聞こえた音に反応したのかは分からない。光
弦は何の躊躇も無く、その上腕を振るった。
 心理的限界を超えて内から外へ振るわれる腕は、まるで人の捉えられる速さではなかっ
た。例えるのなら使い慣れた鞭。初動の動きを僅かに感じた得たとしても、その後の軌道
を掴むことは適わず。だが、鞭であれば皮膚を焼くだけの痛みも、人の腕であればどうな
るか。力の籠められた筋肉は時に鋼をも凌駕する。
 人を殺めることさえ──可能なのだ。
 熙俊の鼻先一寸をバックナックルが通過していた。追って眼を覆いたくなるような突風
が吹き抜ける。そのスピードから察するに、まともに頚骨に貰えば即死だったかも知れな
い。
 スウェーバックというよりバックブリッジ気味にかわした熙俊のアンダーシャツは既に
汗で湿っていた。そのまま首を抱え込むように後ろ手をついてソファから飛び退く。
 流石にそんな応酬を見れば外野《ギャラリー》が騒ぎ出さないはずもない。所々から悲
鳴が上がる。
──このまま長引かせるのは拙《マズ》いね
 元々、光弦は悪くないのだから。
 大切に護ってきた物を踏み躙られたとき人は豹変することがある。勿論、全ての人がそ
うなるわけではないだろうが、「自分自身の存在」という尊厳そのものを奪われようとし
たとき、防衛本能が働くのは自然なことだ。
 光弦にとっては、それが妹の幸せだった。我を忘れてしまうほど、それだけが生き甲斐
だったということ。
「コロス」
 ゆらりゆらりと一歩ずつ近付いてくる幽鬼が一言、ぽつりと呟いた。今、彼は復讐とい
う方法で新たな尊厳を作り出そうとしていた。
──それだけは
「ダメだよ。藤堂!」
 その言葉に弾かれたように凄まじい勢いで拳が繰り出された。相手を正面から破壊しよ
うとする、負の心で固めた凍てついた突き。一撃で全てを終わらせる突き。
 だが、凛と言い放った警備員も伊達ではなかった。鳩尾に携えた掌は、その突きを導く
ように己の芯へと踏み込ませる。
 それこそが彼の狙い。腕を取られ宙を舞っていたのは──幽鬼。そのまま地面へと背中
から叩きつけられる。同時に悲鳴を上げた肺から不自然な空気が吐き出される。
「復讐するには、相手を聴きだすことになるんだよ。それは、汐音さんが本当に望むこと
なの?」
 さらに妹を苦しめていいのか……分かりきった答え。
 光弦は二の腕で瞼を覆った。
 そこに負の感情に囚われた姿はない。あるのは声を押し殺して泣く哀れな青年の姿だけ
だった。

第二話 災厄の日[完]

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