第一話 託された鍵

 深い闇が一面を支配していた。
 つい先ほどまで煌煌と輝いていた緑色のモニターも、虫の羽音みたく延々と鳴り響くフ
ァンの音も消えた地下室。
 足元を照らす別電源の非常灯さえ点いては消えを繰り返している。
 その光がふいに大きく瞬き、白亜の箱庭に凭れ掛かった二つの影を映した。一人は白衣
を纏った、恐らく40過ぎの長身痩躯な男。髪は薄く、所々に白髪が混じっていたが、それ
にも増して痩せこけた頬が彼の苦悩を物語っているように思えた。
「いつかこんな日が来ると思っていたが……」
「運命っていうのは往々にして皮肉なモンですよ、博士《はかせ》」
 詰まるような空気に絶えきれず吐き出された声を受け継ぐのは、その隣でハンドガンの
マガジンを入れ替えている精悍な顔つきの男。紫檀色《したんいろ》に染め上げられたサ
ングラスから、その瞳の奥まで伺うことはできなかったが、この非常事態を楽しんでいる
ようにも感じられる。黒いスーツに身を包んだ男はくるくると銃を躍らせた後、博士と呼
んだ男へ手渡した。
「最後の一丁、これは博士に預けます。ヤツラの皮膚は堅いですが、同じ部分に二発叩き
込めば動きを止めることぐらいは可能です」
「しかし、それでは君が!」
「大丈夫ですよ。これでも格闘技は得意ですから」
 慌てて突き返そうとするハンドガンをやんわりと断った彼の腕には既に皮の篭手が巻き
付けられつつある。第一関節と第二関節の間には闇夜の中でも鈍く光る鋲が括り付けられ
たそれは防具というよりも、立ち塞がるものを薙ぎ倒す力の象徴であった。
「電話線は切断されてますし、携帯も傍受されています。丘の上に一軒建っているこの施
設は今正に陸の孤島ってヤツですよ」
「だが、私はこれを中央議会《センター》に届ける義務がある」
 白衣のポケットから研究の成果物が取り出される。一つは透明で小指よりも一回り小さ
な金属板、もう一つは小型の試験管同士で封をしたような形の瓶である。
 複雑な表情で、博士はそれを見詰め続けた。
「私は、ここで死ぬべき人間なのかも知れないが」
「博士!」
「いや、すまない。しかし、私の研究はヒトとルキムを分かつものに違いはない。仮初で
あっても今、我々は共存している。それなのにわざわざ火種を撒くような行為をする。つ
くづく因果な人間だと痛感するよ」
「……博士が悪いわけじゃありません。それを強要するのは、お子さんを人質に取った中
央議会《センター》じゃないですか」
「確かにそう、だな」
 その言葉に白衣の男は久しぶりに息子と娘の顔を思い出していた。

 §

 まもなく訪れる冬の厳しさを伝える風が吹く。
 妹と二人で暮らすにはこの家は広過ぎると何度思ったことか。隙間風が酷いからそう思
うのではなく、空間の虚しさがこの家には多過ぎた。
 夜明け前にふと目を覚ました藤堂《とうどう》光弦《みつる》は、やけに渇く喉を潤す
ため二階の自室から一階のキッチンへと降りていくところだった。
 母親を物心付く前に亡くし、父親の奏氏《そうじ》は光弦が16の頃から山間の研究所に
篭り、家に戻ってくることがなくなった。それでも奏氏は「いつか帰る」といい、光弦た
ちがもっと小さな家へ引っ越そうとすることを拒む。
──あれから3年以上も経ってるってのに。やれやれ。まぁ今日、久々に会いにこいって
たしな。その時にもう一遍話すか……
 そうやってこちらから会いに行かなければ、一向に山から下りる気配もない父親に既に
呆れを通り越して、よく生活できているなと尊敬の念すら抱く。
──まぁ、親父が生きていられるのも片桐のお陰だろうけど
 片桐《かたぎり》狂詩郎《きょうしろう》。琥珀に僅かながら銀糸を織り交ぜた長髪を
後ろ肩で無造作に束ね、いつも黒いスーツに紫檀色のサングラスを纏った、藤堂奏氏博士
の助手兼世話係。
 シンクへ顔を突き出し、秋場で冷たくなった水を喉に流し込む。蛇口を締めた後、光弦
は軽くその鮮やかな黒髪を振って息を整えた。
 父親に会いに行くということは、少なくとも片桐と言葉を交わすことになる。確固とし
た答えはないが、どうしても光弦は彼を好きになれない……もっというなら信用できずに
いた。普段は飄々と生きているようだが、ふとした瞬間恐ろしく鋭利な気配を感じるとき
がある。
 一言で言うならミステリアスな男。
 何気に女性にも人気があり、妹の汐音《しおん》もその中の一人だ。それが悩みに拍車
をかけていると、恋する乙女が気付くはずもない。
 兄としてそれとも男として、いずれか自分でも判断できない大息をついた19の青少年は
顔を上げた先にペンライトのフラッシュを見た。
──珍しいな。こんな夜中に
 光の先のカーテンを開く前に、操り主の予想はついていたが、念のため別の窓から横目
で伺ってみる。そこには予想に違わず、隣の家に住む少女が「やっぱ寝てるかな〜」と赤
茶けたツインテールの髪を揺らしていた。
「夏美《なつみ》、どうしたんだよ。こんな夜中に」
 窓を開け、半身を桟に凭れ掛からせても気付かないので、光弦は近所迷惑にならない程
度の声量で少女の名を呼んだ。その発生源に驚いたのかビクッと身体を震わせてから、赤
髪の少女はペンライトをこちらへと向ける。
「び、ビックリしたぁ……。こんな時間に起きてるなんて」
「それはこっちの台詞だろ。こんな夜中にどうしたんだよ。女の子がこんな時間に歩き回
ったら危険だろ」
 ここ十数年、日本の治安は悪化の一途を辿っている。それも気が狂《ふ》れたような凶
悪な犯罪が増え、地域によってはスラムと呼べる無法地帯まで存在するようになっていた。
いくらこの周辺が中上級階級の区画とはいえ、婦女子が夜中に出歩くのは餌食にして下さ
いと言っているようなものだ。
 しかし、夏美と呼ばれたツインテールの少女は忠告を意に介さないばかりか、
「だから、光弦クン! 何度も言ってるケド、わたしの方がお姉さんなんですからね」
まったく見当違いの回答を返してくる。
「わ、わかった、わかったから夏美サン。それよりも声、声ッ」
 唇に人差し指を当て、ようやく怒りを押さえ込む。
──まったく、こんなんで俺よりも2つも上っていうのが不思議だよ
 身長160cm弱のお姉さんに苦笑を噛み殺しながら手を差し伸べると、ふわりと心地よ
い重さの後、彼女は窓の桟に腰掛けていた。そこで行儀よく上品なブランドのレザースニ
ーカーを脱ぐと、実質上、ここの家主に押し付けて、自分は気ままにリビングのソファー
へダイブするという荒業をやってのけていた。
 しかし、こんなことに慣れっこになってしまった光弦は何も言わない。そもそも言って
変わらないから慣れるのだ。
「で、どうしてこんな時間に?」
 グラスに注いだオレンジジュースを彼女の前に置き、光弦も反対側のソファーに腰を下
ろす。幾度か夜に遊びに来たことはあるが、いくらなんでも今日もそうであれば度が過ぎ
る。時計は丑三つ時を回り、さらに長針が一回転するか否かのところを刻んでいた。
「それが、ちょっと気になって……さっき深夜配送をしている友達から伊吹山の方から何
か爆発するような派手な音が聞こえたっていうメールが入って、それで……」
 伊吹山方面といえば奏氏の研究所の方面である。近所付き合いの仲でも、特に年齢も近
いことから夏美には色々と相談に乗ってもらうことがあった。当然、光弦たちの父が伊吹
山周辺の研究所に居ることも知っている。
「それでわざわざ?」
「うん。まさかと思うし……迷惑だとは思ったケド、ゴメンね」
「いいよ、こっちもちょうど起きてたんだし。一度電話かけてみる」
 少女は恥ずかしそうに小さくなっていたが、わざわざ心配してきてくれたのだ。彼女を
安心させてあげるくらい造作のないことだった。
 光弦はリビングの受話器から研究所へ電話をかけてみた。しかし、二度ほどかけ直して
みたが通話中で繋がらない。試しに携帯にも電話を入れてみたが電波の届かない場所か、
電源が入っていないとコールセンターの録音が響くだけであった。
「繋がらないの?」
 心配そうな表情で夏美が身を乗り出してくる。
「あぁ、そうみたい。けど、別に心配しなくても大丈夫さ。不通の時だって今まで何回か
あったし、一応、今日の昼頃に研究所へ顔出す予定だったから」
 丁度良いさと努めて平静に対応する。確かに気にならないといえば嘘になるが、実際過
去に電話が繋がらないこともあり、さらにあと数時間後にはそこに向かう予定になってい
るのだ。悪戯に慌てて心配してきてくれた隣人を不安がらせる真似はしたくない。
「ホントに、平気?」
 さらに身を乗り出す夏美は真剣そのものだ。だが、光弦はその瞳よりももっと下の……
「夏美、さぁ。俺も男なんだから」
そこまで言って視線を逸らす青年の頬は、少しだけ赤く染まっていた。
「何、何なの? はっきり言って!」
 しかし、彼女に光弦の言いたいことは伝わらない。光弦は盛大なため息を付いてから、
夏美の唇を指先で塞ぎ、一言。
「バスローブの紐、解けてるから……」
 全身を真っ赤に染めた夏美が硬直したことは言うまでもない。

 §

 その後、光弦は彼女を速やかに家に送り届けソファーに横になった。1時間ほど意識な
くうとうとしていただろうか。しかし、深く眠りに就こうとすると夏美の言葉が反芻され
目を覚ます。
──爆発? ありえない。親父は生物学者だ。今回の研究も既存の生物の生態を再考する
とかなんとか言ってただけだし、そんなことが起こるはずない
 冷静な思考がそういう。確かにそれは間違いない。だが、思考とは別の直感が不安な心
のざわめきを呼び起こしていた。それは幾ら理論的な思考を重ねても消えることはない。
「ちっくしょ。行きゃいいんだろ、行きゃぁ」
 歯止めが利かなくなった心に落ち着きを取り戻せないと悟った光弦は、普段着に着替え
るべく二階へと上っていく。途中、中二階へ上がったところで、物置として使われるはず
だった部屋が目に止まる。江戸間三畳の小さな部屋の扉には、可愛らしいクマのプレート
に「お休み中」と書かれている。
 4つはなれた妹、汐音《しおん》の部屋だ。二階には京間で四畳半と六畳の部屋が誰も
使わずに放置されているが、冷え性である彼女は部屋の快適性よりも保温性を取るようだ。
それなのに何故か部屋の扉が少し開いていたので、扉を閉めてから誰にも聞こえないほど
小さく呟く。
「汐音、すまん。俺、先に出るから、後で弁当作ってゆっくりこいよ」
 かくして、一人支度を終えた光弦は夜明け前にも関わらず走り始めている始発列車に乗
り込み、麓の町へ辿りつく。
 ここからは車か徒歩なのだが、時間も場所も悪いだけあり、バスもタクシーもまだ動い
ていない。仕方なく光弦は山道へ向かって歩き始めた。太陽の雄々しき勇姿をどの峰から
も見渡せる頃には着けるだろう。
 延々と続く坂道に嫌気が差してきた頃、ようやく目的の場所が見えてきた。日の入射角
はまだ浅いが、うっすらと下りた霜を溶かすには十分の光が昇っている。場所を見間違え
たということは考えにくい。
 自然に光弦の足はその場所に向かって駆け出していた。違和感が次第に焦燥感へと変わ
っていく。
 息を切らし、辿りついた場所は確かに研究所だった場所だ。
 だが、そこにあるのは崩落した瓦礫の山。
「どうなってんだよ、これ」
 俄かには信じられない事実を目の当たりにして、青年は呆然と呟いた。しかし、彼の手
は自然に瓦礫の山へ伸びていく。
──生き埋め!? まさか冗談じゃない!
 しかし、それよりも一瞬早く理性がそれを否定する。例え生き埋めになっていたとして
も、自分一人の力で掘り返すのは無理だ。下手をすれば二次災害を引き起こしてしまう恐
れもある。
 光弦は瓦礫の山から数歩下がり、携帯電話で警察に連絡を取ることを思いつく。いくら
なんでも、これほどの被害があれば事件として捜査されているはずだ。しかし、
「こんなときに圏外かよ」
 この付近は辛うじて電波が入るはずだったのだが、おかしいと毒づいている暇はない。
──麓までもう一度下りるしかない
 すぐにも彼の足は再度駆け出して……その刹那だった。
「坊ちゃん」
 小さな掠れ声を光弦の耳は確かに捉えた。そして、その掠れ声に聞き覚えがあることも。
「片桐? どこだ!」
 2,3度辺りを振り返るがその姿は見えない。まさか本当に生き埋めになっているのか
と再度瓦礫に歩み寄ろうとしたところ
「上です。山の斜面の方」
後ろから声が響く。慌てて道路側に振りかえり、その斜面の上を凝視する。緑と茶色の茂
みの中に黒い影が見えた。
「わかった。今行く」
 5mほど聳《そびえ》え立つコンクリートで固められた急斜面を登るには無理がある。
光弦はしばらく下ったところに排水溝の坂を見つけ、そこから山へと入り一歩一歩彼の元
へと近付いていく。人が歩くように整備されていない場所なので、慎重に草を掻き分け、
目標物を確認しながら。でなければ迷子になってしまう。
 片桐の元へ辿りついたのは、20分ほど経過した後だったか。ようやく最後の茂みを掻き
分ける。最初に鼻を衝いたのは錆びた鉄の臭い。その後に嗅いだことのない饐《す》えた
ような臭いが漂う。
 そこで光弦が見た世界は地面と言わず、そこらじゅうの草木が赤黒くそまった、まるで
色彩が反転した死の世界のように思えた。
「遅かったな……坊ちゃん」
「!? 片桐、その傷!」
 手当てするとか、そういった類の外傷ではなかった。その凄惨な姿は目を覆いたくなる
ほど酷い。しかし、博士の助手兼世話係の瞳はまだ死んでいない。光弦の狼狽を「いいか
らよく聞け!」と一喝すると、彼はポケットの中から透明で小指よりも小さなカードと、
僅かに銀色に輝くカプセルの飲み薬を大きくしたような小瓶を青年に手渡した。
「ソウルクリスタとソウルシリンダ……博士の、研究品だ」
「親父の……?」
「そうだ。藤堂博士は……ぐッ……人間とルキムを見分ける方法を研究していた。ルキム
はまだ……生きている」
 ルキム。それは今から20年ほど前に、日本へ飛来した地球外生命体の呼称だ。例えるな
ら人型大の昆虫が二足歩行したような姿を持ち、人よりも遥かに高い身体能力を持ってい
るとされる。
 しかし、彼らの恐るべきところはそれだけではない。彼らは人間の記憶を吸い、自らそ
の姿に変態する能力──擬態《メタモルフォーゼ》という──を持っていたのだ。
 事態を重く見た時の政府は、ルキム殲滅作戦を開始。当初は小さな戦闘によって排除さ
れていたが、12年前、表立って共存を望んでいた者も含め、関東全域及び近隣地区を焼き
払ったとされる最後の悲劇、ヘブンズアークと呼ばれる最終掃討作戦が行われ、ルキムは
全て死滅したというのが現政府・中央議会《センター》の公式発表であった。
「ルキムは……博士の研究に……勘付いたらしい」
「じゃぁ、この有様は」
「すまない……博士を守るのが私の役目だったが、博士は……ゴほッぐふっ」
 咳き込むと同時に、大量の血液が吐き出される。だが、光弦がいくら片桐の話しを止め
ようとしても、彼は首を振るだけだ。
「博士は最期に、ソレを……坊ちゃんに託すと……言っていた」
 光弦の手の中で太陽の光に反射する二つの形見。
「ソウルクリスタは魂結晶化……装置。ルキムは……無形の記憶を……吸うことができる
が、それを固形化する装置だと……考えてくれればいい」
 プラスティックのような小さなカードは、よく見ると銀色の配線が中心付近で浮遊して
いるようにも見える。
「ソウルシリンダは固形化した……魂を……保管するための、瓶だ」
 半透明でありながらも淡く銀色の光を放つ小瓶は、中央から二つに折れ分かれるように
なっている。
「結晶化した魂を……飲み込んで叫べ──ソウルエンバディ──と……胸に手を当て……
祈れ──プレイリターン──と。そして……復唱しろ。魂の……結晶化──クリスタルコ
ンジール──」
 言われるままに光弦が「クルスタルコンジール」と呟いたその瞬間だった。
 左掌に燃えるような熱量が迸る。何事かとそこを見れば手渡されたソウルクリスタから
銀色の配線が中空に浮き上がるところだった。
 銀の光はそれぞれが幾何学的模様を描き、電子が滑るように片桐の身体へ到達する。幾
重にも巡らされた光線の中で、助手は満足そうに微笑む。そして光の隙間から、彼は最期
の言葉を振り絞った。
「私は貴方を護る」
 全てを飲み込んだ光が天へと上っていく。そして、光が収まった頃、光弦の左手に紫檀
色のこんぺいとうのような物体が転がっていた。
──これが……魂の結晶
 指で摘んでみると仄かに熱を持っているようにも思えた。それを丁寧にソウルシリンダ
の中へ入れ封をする。銀海の中で紫星が踊るように、それはとても幻想的な光景だった。
 そこで、光弦ははっとなる。魂を結晶化するということは即ち肉体から魂を切り離すこ
とになるのではないのかと。片桐の言うままに行動した青年には、今の今までそこまで気
が回らなかった。
 慌てて片桐を見る。そこで、彼は自分の考えが正しいことに気付く。片桐の血塗れた肉
体は既に事切れていた。

 §

 しばらくは何も考えれない状態だった。父親である奏氏の死、地球外生命体ルキムの暗
躍、そして魂結晶化装置ソウルクリスタを託され、父親の助手であった片桐狂詩郎の魂を
結晶化させた。それは結果的に彼を殺すことになったのではないか。
 様々な思惑が過ぎり、そして消えていく。未だ学生であり成人もしていない一人の青年
が背負うには、その事象の数々は重過ぎた。
 しかし、少なくとも片桐の遺体をこのままにしておくわけにもいかない。重苦しい心を
無理に奮い立たせ、光弦はその場を後にする。
 山間の道を下り、中腹ほどまで来ただろうか。ポケットから鐘の音を皮切りに男女のダ
ブルボーカルが流れ出す。リズミカルで優しい雪音の詩《うた》。何十年以上も前に流行
したデュオユニットらしいが、詳しくは知らない。ただ今は亡き両親のそのまた両親も好
んで聞いていたアーティストらしく、光弦も自然にその音楽を聴くようになっていた。
 それが携帯の着信メロディだと気付くには少し時間がかかった。それだけ、彼の意識は
様々な思いに囚われていたといえる。ようやく気付き通話ボタンを押すと、この所ようや
く聞き慣れてきた声が届いた。
「ようやく繋がった。藤堂、今何処にいるの?」
 同い年の男にしてはかなり高い声。だが、気に障るような甲高さではなく、落ち着いた
女性の優しげな声に似ている。そんなことを言うときっと彼は怒るだろうが、一言でいう
のならお母さんっぽいヤツ──少なくとも光弦はそう感じていた。
 その名は柳《やなぎ》熙俊《あきとし》。最近とある事情で知り合い、親交を深めてい
る友人なのだが、既に彼は学生でなく警備員として立派に社会へ貢献している。背はそれ
ほど高くないが、身体は無駄なく鍛えられており、それなりの武術の心得があるように見
受けられる。もっとも、現在の日本で言えば警備員というかなり危険な職業に就いている
時点で、最低限の護身術を身に付けていなければ、今ここに生きてはいまい。
「今、伊吹山の近く。そっちこそどうしたんだ? こんな時間に」
 聞き慣れた声に光弦は一時でも平穏な現実に戻ってこられたと安堵した。しかし、通常
であれば勤務時間のはずと思い立つ。殊勝な彼が仕事をサボって電話を掛けてくるとは、
どうにも考えにくい。
「今日は禾森《のぎのもり》B区画の見回りに来ていて……それより、大変なことになっ
てる!」
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
 禾森Bといえば光弦の自宅付近にあたる。熙俊には、その出会った当初から治安の悪化
を相談しており、周辺に来たときは「善意」の見回りをして貰っていた。
 だが、普段から落ち着いている彼らしくない。その声には切羽詰った感情が如実に表れ
ていた。だからこそ、光弦は察するべきだった。
 普段落ち着いている人間が動揺する、ことの次第を測れていれば突き付けられた言葉に
今以上の不安を抱え込むこともなかっただろう。
「汐音さんが……汐音さんが病院にッ!」
 青年の眼前を覆うように深紅が周りを塗りつぶしたように思えた。

第一話 託された鍵[完]

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