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板の中央に「大日本洲尾張国愛智郡成海神社」,右下方には「天下泰平」,左下方には「御三 神船」とあり,裏には「国土安穏」・「疾病消除」と書かれている。筆者が子どもだった1960年頃 は護岸工事はされておらず,この写真のように投げ出されることはなく,静かに流されていた。 この板(三枚)は,日本武尊の船に見立てられている。詳細は下段の日本武尊のロマンスに! |
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た板を手に入れようと川(天白川の支流・扇川)の中で待っていた人の手に!この御船板を 船霊として船中に奉斎すれば海上風波の難を逃れられるといわれている。この写真を撮った 時は,3枚の御船板はそれぞれ別の3人が手に入れていた。千年以上続いている神事らしい |
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御船流しの神事が齋行される扇川に堤防。昔は川面から堤防の道路までは,数十cmだった |
さて,いよいよ日本武尊(倭建命)の嘆きとロマンスです |
「嘆き」 |
日本武尊は,父(景行天皇)の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違 |
「宮簀媛(美夜受媛)とのロマンス」 |
舟軍の援助を求める。このとき,尾張氏の娘,宮簀媛(美夜受媛)に一目惚れをし,結婚の約束を し,東征の途に。東征からの帰途,ヒタカの尾張氏館を望むナルミ浦に立ち,「奈留美良乎美也礼 波止保志比多加知爾己乃由不志保爾和多良部牟加毛」(鳴海浦を見やれば遠し火高地この夕潮 に渡らへむかも)と歌を詠まれ,ここから船で宮簀媛の待つヒタカに向かった。上の写真で紹介して いる「御船流し」(みふねながし)の神事はこの故事による。成海神社の創建(686年)から考えると 少なく見積もっても1200年以上続いていることになる(学問的な裏付けはありません筆者の勘…)。 |
いた日本武尊が詠まれた歌に宮簀媛が詠まれた返歌 | |
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利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる 襲の襴に 月立ちにけり | やすみしし 吾が大君 あら玉の 年が来経れば あら玉の 月は来経往く うべなうべな 君待ちがたに 吾が著せる 襲の襴に 月立たなむよ |