日本武尊(倭建命)の嘆きとロマンス


まずは成海神社で行われている「御船流し」の神事をご覧あれ

成海神社:延喜式の尾張国愛智郡成海神社,名古屋市緑区。創建は朱鳥元年(686年)
草薙神剣が熱田に還座された時に,日本武尊の縁由により鎮座された。熱田神宮と草薙
神剣の数奇な関係は,是非,本HP内の熱田神宮で蚩笑…「酔笑人神事」をご覧ください



神官が板を川に向かって投げ出している

祝詞(日本武尊が鳴海浦から船出をした故事に因む)を奏上した後,神官が桧の板を川に…
板の中央に「大日本洲尾張国愛智郡成海神社」,右下方には「天下泰平」,左下方には「御三
神船」とあり,裏には「国土安穏」・「疾病消除」と書かれている。筆者が子どもだった1960年頃
は護岸工事はされておらず,この写真のように投げ出されることはなく,静かに流されていた。
この板(三枚)は,日本武尊の船に見立てられている。詳細は下段の日本武尊のロマンスに!

泳いで板を手に入れようとする人

10月の第二日曜に齋行される神事なので川の水は冷たいだろうと思われるが…神官が投げ
た板を手に入れようと川(天白川の支流・扇川)の中で待っていた人の手に!この御船板を
船霊として船中に奉斎すれば海上風波の難を逃れられるといわれている。この写真を撮った
時は,3枚の御船板はそれぞれ別の3人が手に入れていた。千年以上続いている神事らしい

扇川堤防に設けられた祭壇

御船流しの神事が齋行される扇川に堤防。昔は川面から堤防の道路までは,数十cmだった
写真中央の白いビル右の茂みは桶狭間の合戦関連の「中島砦跡」。石碑が建てられている

さて,いよいよ日本武尊(倭建命)の嘆きとロマンスです

「嘆き」

日本武尊は,父(景行天皇)の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違
いから,兄を殺してしまう。そのことで日本武尊は父に恐れられ,疎まれ,わずかな従者しか与
えられずに九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。熊襲建兄弟の討伐から帰ると,景行天皇は
重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。日本武尊は,父は自分に死ねと思っているのか…と嘆く。

「宮簀媛(美夜受媛)とのロマンス」

日本武尊が,東方の蛮族の討伐に出陣するとき,ヒタカ(現,名古屋市緑区大高)の尾張国造に
舟軍の援助を求める。このとき,尾張氏の娘,宮簀媛(美夜受媛)に一目惚れをし,結婚の約束を
し,東征の途に。東征からの帰途,ヒタカの尾張氏館を望むナルミ浦に立ち,「奈留美良乎美也礼
波止保志比多加知爾己乃由不志保爾和多良部牟加毛」(鳴海浦を見やれば遠し火高地この夕潮
に渡らへむかも)と歌を詠まれ,ここから船で宮簀媛の待つヒタカに向かった。上の写真で紹介して
いる「御船流し」(みふねながし)の神事はこの故事による。成海神社の創建(686年)から考えると
少なく見積もっても1200年以上続いていることになる(学問的な裏付けはありません筆者の勘…)。

さて,「ロマンス」だが…

二人とも結婚を待ち焦がれていたんだろうなぁ…
現代語訳(?)はご自分で何とかしてくださいな!
古事記(岩波書店など)を読まれれば,分かります

宮簀媛の着物の裾に赤いものが着いているのに気づ
いた日本武尊が詠まれた歌に宮簀媛が詠まれた返歌

日本武尊が詠まれた歌

宮簀媛の詠まれた返歌

ひさかたの 天の香山
利鎌に さ渡る鵠
弱細 手弱腕を
枕かむとは 吾はすれど
さ寝むとは 吾は思へど
汝が著せる 襲の襴に
月立ちにけり
高光る 日の御子
やすみしし 吾が大君
あら玉の 年が来経れば
あら玉の 月は来経往く
うべなうべな 君待ちがたに
吾が著せる 襲の襴に
月立たなむよ

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