高校同窓生の作品集

 稲守 伸夫  小林 一雄


稲守 伸夫氏

集団疎開と空襲の思い出 稲守 伸夫 名古屋西高等学校

 私の戦争体験は、国民学校の三年生から国民学校卒業後にかけての時期であるが、ここでは同六年生の時に体験した集団疎開と空襲の思い出について述べることとする。

  岐阜県への疎開

 昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争は、同十七年六月ミッドウェー沖海戦、翌十八年二月ガダルカナル島の撤退、同年五月アッツ島の玉砕、同九月イタリア無条件降伏と戦況が悪化するにともない、やがて大都市への本格的空襲が予想される状況となった。同十二月「都市疎開実施要項」が閣議で決定されたが、十九年六月サイパン島に米軍が上陸し、翌七月熾烈な戦闘の後、日本軍が玉砕するに及んで、同島での飛行場建設によるB29爆撃機の本格的空襲がいよいよ必至の情勢となった。同年六月三十日「学童疎開促進要綱」が閣議決定、七月八日内務大臣官邸において発表され、名古屋市はこれを受けて「名古屋市学童疎開要綱」を決定した。それによると、学童疎開は縁故疎開を原則とするが、縁故疎開によることが難しい学童については集団疎開による(但し、初等科三年生以上六年までの児童に限る)ということであった。

 私は、当時、名古屋市西区の上宿国民学校(上宿校は、現在の城西学区が表・上宿・花の木の三学区からなっていた中の一つの学校で、現在よりは小さな学区であった。)の六年生であった。この学童疎開に際し、私は当初母の姉がいた愛知県南設楽郡海老町(現在の同郡鳳来町海老)へ縁故疎開する予定であったが、六年生の途中で転校するのは中学校進学に不利になるという担任の先生の意見で、集団疎開に変更した。

 疎開先として、岐阜県海津郡高須町(現在の同県海津郡海津町高須)に上宿校は指定され、十九年八月十一日かんかん照りの暑い日に、養老線の石津駅から約五キロを歩いて疎開した。その行進は「校旗」を先頭に、各学年を「小隊」と呼び、小隊はいくつかの「班」から成っており、軍歌などを唱いながら、秩序整然と歩いた。

 宿舎は町内の四つの寺院に分かれ、私達六年生男子は、町内で最も大きい高須別院で寝起きした。一日の日課は、朝の乾布摩擦と体操に始まり、食事は海津高等女学校まで歩いて、三食とも借りていた一棟の校舎の教室でとった。炊事には地元の方々何人かが当たっておられ、宿舎の寺院では寮母さんがお世話をして下さったが、食事は量的には十分とは言い難く、当初一~二か月は、一食に麦の混じったやや大きめの握り飯一個(海苔などは巻いてないからパラパラのご飯)、その後さつまいもや雑穀を混ぜた「つけめし」に変わった。副食物は地元で入手できる野菜類・いも類・れんこん等で肉や魚は全くなかった。これらの食料調達と運搬の手助けに、しばしば六年男子五~六名が狩り出され、リャカーの後押し等をした。

 間食は全くないため、秋になると、寺の境内にある銀杏の木から落ちた「ぎんなんの実」をむいて、落ち葉を集めた炊き火で焼いて食べようとしたりしたが、果汁が肌につくとかぶれて、多くの者が白い薬を顔いっぱいに塗られた。(私もその一人)

 秋はもの淋しい季節で、夕方寺へ帰る途中、三年女子などは父母恋しさに、しくしく泣いて帰り、何とも可哀そうな様であった。同じ六年男子の某君は、ある日突如所在不明となり、あちこち探しても見つからなかったが、翌日親が連れ戻してみえた。疎開学童は金銭を持つことを禁じられていたが、同君は親からこっそり金銭を渡されており、バス・電車を乗りついで「脱走」を試みたのだった。

 このほか困った事では、女子が頭髪を不潔にしていたためであろうが、「しらみ」がわき、蒸しタオルなどで駆除が大変だったことを覚えている。

 冬になって忘れることのできないのは、同年十二月七日の東南海地震のことである。同日午后二時頃、海津高女の自分の教室に居ると、突然グラグラと大地がゆれ、全員慌ててはだしで外へとび出した。高須町では大きな被害はなかったが、詳しい被害の状況は、報道管制のため知らされなかった。翌二十年一月十三日の三河湾地震は夜半に起こされ、その余震で夜しばしば起こされた。

 昭和二十年の正月は家族と離れ離れに迎えたが、一月三日の名古屋空襲のものすごい真っ黒な煙を望見したことは記さないわけにはいかない。この日午后、B29爆撃機約七○機が名古屋を襲い、菊井町・明道町一帯が灰燼に帰した。夕方、東の名古屋の方角で、ものすごい量の煙が立ち昇った光景は、今も瞼にはっきり焼きついている。

 学校で授業はほとんど行われなかった。こうした疎開地の生活も、ただ一つ楽しい事があった。それは月一回の面会日に家族と会える事だった。その日はたくさん食べ物を持って家族が訪れてくれ、親と楽しい語らいをした。

  名古屋の空襲

三月に入り、私達六年生は国民学校卒業のため、名古屋へ帰ることとなり、同月十一日疎開地を後にした。ところが帰ったその夜、名古屋はB29爆撃機約百三十機による大空襲にあった。母や弟達は前期の南設楽郡海老町へ既に疎開(父は昭和十八年三月に他界)していたため、私は中区橘町の親戚の家にいたが、夜十一時半すぎ警戒警報のサイレンが鳴って起こされた。空襲警報発令とほとんど同時に、市内のあちこちに焼夷弾が落下し、火の手が上がった。私は防空壕の中で「○○連区に焼夷弾落下」と叫んで廻る人の声を何度も聞いた。親戚の家とその近所には、幸いにも焼夷弾は落下しなかったが、あちこちに上がった火の手のため、真夜中の二時・三時というのに、ま昼のように明るくなり、名古屋市内数十か所の大火のため空気が熱せられ、対流現象が起こるためであろうが「つむじ風」が吹き荒れ、火の粉や灰や燃えかすが舞い狂い、目もあけていられないような状況であった。ふと見ると、東別院の本堂が巨大な火柱となって天高く燃え上り、あるおばさんが、道端にしゃがんで手を合わせ、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、その巨大な火柱を拝んでおられた。私はじっと立ちつくし、その巨大な火柱が燃え上がる様を見ていたが、その光景は一生忘れることはできないであろう。

 その夜の大空襲で、一緒に疎開先から帰った六年女子の某さんの自宅に焼夷弾が落ち、短時間に焼け落ちたため逃げられず、某さんが貴い命を失われた事は、いたましい出来事だった。そしてその空襲で、級友の何人かの人の家が焼け、上宿校も講堂と校舎の一部を焼失した。

 私はその八日後の三月二十日に、岐阜県立海津中学校の入試を受験する予定であったが、心配した母が迎えに来て、ひとまず母や弟達が疎開していた南設楽郡海老町へ行って二・三日を過ごしたか、その間の三月十九日未明、名古屋市は再度B29爆撃機数十機による空襲をうけ、入試の前日である同日、名古屋付近の交通機関が途絶して受験に行けなくなり、海津中学校しか願書が出してなかったため、同年中学校へ進学する機会を失してしまった。その意味では、私も戦争による被害者であるわけである。

 名古屋は幸いにも原子爆弾を投下されなかったが、「名古屋空襲誌」によると、前後三十八回の空襲をうけ、死者八千百五十二人、負傷者一万九十五人。被災者五十一万九千二百五人の被害をうけたとされている。

  反戦平和の決意

 現在では、広島・長崎に投下された原子爆弾の数百倍の性能を持ち、その上到達距離が長く、命中精度の高い核兵器が開発されており、今後大規模な戦争が起これば、限定核戦争に進む危険があろう。

 このようないまわしい戦争を地上からなくし、世界の恒久平和を実現するため、私達は今こそ反戦平和の決意を新たにしなければならないのである。

 

「戦争と私」-こどもたちへ綴った教職員の戦争体験ーより>

1984年7月15日発行 愛知県高等学校教職員組合名南支部

上記原稿に添えられた奥様の手紙

 謹んで申し上げます。

 皆々様はお元気で何よりとお慶び申し上げます。亡き夫稲守伸夫のことでは大変ご無礼をいたしておりました。

 戦後のまだ間もない逆境の中にあって、十代から苦楽を共にしていただき、また老いてはここ十年余、夫は病を抱えて生き抜いてきましたが、温かくしていただき、妻の私も共々にこのクラス会にはたびたびとお邪魔をさせていただきまして、ありがとうございました。

 最近ふとした機会に、「愚直まっすぐに」という言葉に出会い、絵もついていて、夫のことを言い当てていると思い、笑ってしまいました。

また、夫が二十年以上も前に書いたものを見つけ「集団疎開と空襲の思い出」という一文ですが、もらってください。とても辛かった大切なことが書かれていないことを夫の晩年に聞かされました。残念な一文ではありますが・・・佐世子

 平成十九年九月

明和高校昭和28年卒B組のクラス会の皆々様

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小林 一雄 氏

心に刺さったトゲ 小林 一雄

 いま、私の心には、トゲが刺さっています。そのトゲは、もう七十年以上も刺さったままです。今までに少しずつ大きくなってきました。私が死んでも、そのトゲは無くならないでしょう。そのトゲはどんなふうにささったのか。それはこうです。

 私が国民学校(小学校)の三年生の時、おじ(父の弟)が、マラリアにかかって、“中国戦線”から帰ってきました。その時、日本は中国と戦争をしていました。昭和十二年七月七日に始めた “支那事変”が続いていたのです。おじはこんな話をしてくれました。

 多くの若い日本人が新兵(新しい兵隊)として“中国戦線”に送られていたその年は、戦争を始めてもう四年もたっていました。おじもその一人だったのです。まず、新兵としてこんな事をさせられたのです。それは、“殺人訓練”です。“チャンコロ”は神である天皇陛下・日本の言う事を聞かないのだから、殺されて当たり前、という考えです。

 広場に柱を立て、そこに中国人の捕虜を縛り付け、小銃の先に短剣を付けて、それで捕虜を刺すのです。「わーっ」と声を張り上げて走って行くのですが、すぐ前でふっと顔を見ると、凄い目でにらみつけるのを見て横にそれてしまうのです。刺すまで何度でも上官からやり直しを命ぜられ、ついにその捕虜を刺すことになります。五人ほど刺されると、出血多量で死んでしまいます。その“殺人訓練”を新兵にさせていたのです。また、こんな事もありました。捕虜を十人ほど縛り、その下にぶん捕った手榴弾を爆発させて、みんなを吹きとばしてしまったのです。

 その話を聞いたとき、私が何を感じ思ったかは全く覚えていません。しかし、いま、音楽を聞いていても、小説を読んでいても、そのときの情景がはっきりしてきて、それに重なってしまいます。

 後で分かったのですが、このこと(殺人訓練)は日常的に行われていたのです。またいろいろ調べると、日本の兵隊はマレーシアやシンガポール、太平洋の島々で中国人を初め多くの人々を虐殺したのでした。小さな島のシンガポールでは三十四カ所から遺骨が出てきたそうです。そこには追悼碑がたっていると言う事です。

 このことだけではありません。今年2010年は、「韓国併合」(朝鮮の植民地化)から百年に当たります。植民地とされた朝鮮は、日本の法律は行われず、総督に全権を持たせ陸軍大将か海軍大将を任命し、天皇直属としたのです。また、憲兵が警察行為もしていたのです。朝鮮語の使用は禁止され、名字や名前を日本風にするように強制されたりしたのです。(創氏改名)いってみれば軍事力で支配したのです。独立を要求する1919年の3・1万歳独立運動だけでなく、朝鮮では、いつもどこかで反日の抵抗運動がおこっていました。軍事力を行使しなくてはおさまりがつかなかったのです。

 また、日本の国内では、1923年の関東大震災の時、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込み、東京に向かっている」という流言飛語を信じた“自衛団”や軍隊によって、何千という朝鮮人が殺されました。

 戦争末期には七十万人から百万人の朝鮮から強制的に人々を連行(拉致)して、飛行場建設、特攻基地建設、炭鉱などで労働させたのです。多くの人たちが亡くなり、まだ遺族にお返ししていない遺骨が日本のあちこちにあるのです。今までは韓国政府から言われてから遺骨をお返ししたのです。今まで、そして今も日本の政府は何もしてきませんでした。

 1945年3月10日のアメリカによる東京大空襲のときには、強制連行された人々など約一万人の人々が亡くなっています。

 両国の横網公園には、関東大震災のとき亡くなったり虐殺された朝鮮の人達の追悼の碑があり、九月一日には追悼の会が行われます。またその時多くの人々が虐殺され埋められ、後で遺骨が出た荒川の河川敷では、やはり毎年追悼の会が行われます。近くに追悼碑が建てられています。

 県営の群馬の森には、「記憶・反省そして友好」と書かれた強制連行されて亡くなった人々を追悼する碑が建てられ、四月に毎年追悼会が行われています。

 このように国内各地に、日本で亡くなった朝鮮の人達を追悼する碑の建立や、毎年の追悼会が行われています。 

 いま日本にいる多くの韓国・朝鮮の人々は、日本に強制連行された人々の二世三世の人達が多く、今はもう四・五世の人達です。日本語が母語で、韓国・朝鮮語は後で学んだ言葉です。

永住できる人でも、外国人としての制約がたくさんあります。税金は払うが選挙権はいっさいありません。いつもパスポート持っていなくてはなりません。今はなくなりましたが永住出来る人でも、時前に日本政府の許可を取っておかないと、日本に帰れなくなってしまったのです。

 戦争中(日本の植民地時代)朝鮮蔑視はひどいものでした。人間として扱われなかったのです。ところが、とても残念なのは、いやびっくりするのは、今も朝鮮蔑視があると言う事です。北朝鮮がテポドンを飛ばすと、何の関係もないのにいま述べた在日韓国・朝鮮の人達に「朝鮮に帰れ!」といやがらせをする日本人が居るということです。

このようなひどいことを、日本の兵隊たちも、普通の日本人もおこなってきたのです。

 今、日本の中に問題が山ほどあるとしても、これらのことは誰もが忘れてはいけないことだと思います。また、次の若い人達に伝えていかねばならないことだと思います。小中高大の学校ではほとんど何も教えられていません。どう若い人達に伝えていくか。これらのことをいまどれだけの人が考え思っているのでしょうか。心配です。(2010.8

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