01 確執
「これでよし、と」
足に羊皮紙を括り付けられた鳩が今、天高く舞い上がっていく。
冬の真っ只中というのに穏やかな風が凪ぐ良日であった。麻袋色の焦げた肌を持った少
年は、卵形に輝く紫水晶《アメジスト》の瞳を細めて、羽が舞い散る空を見上げる。
雲ひとつない晴天。遠くには蒼い空と白く煙った山のストライプがうっすらと覗く。そ
んな冬らしからぬ気候に、少年執事──キューブ──は、スーツの襟元を正しながら嫌な
予感を覚えて首を振った。そして、窓の桟を握り締めて、目の前に広がる王国を見渡す。
レンガ造りの街並みは、石畳の小道に沿って緩やかと続き、その先で一際大きな街道と
交差する。商店と露店が軒を連ねる街道の中心には、女神を象った噴水が堪えることなく
清水を湧き出させており、若い娘達が憩いの声を上げていた。
「大丈夫。街も城も静かで穏やかな、毎日見ている王国に変わりないじゃないか。何も不
安になることない」
まるで自分自身へ言い聞かせるように小さく呟いた言の葉は、穏やかな空気と共に王国
の冬空へ消えていった。少年はその先にふと故郷を思い出して、一人苦笑いを返す。
「まったく……今日の僕はどうかしている。自ら望んで故郷から逃げ出したっていうのに、
これじゃあホームシックにかかった子供みたいじゃないか」
自嘲気味に笑う少年には、その台詞もよく似合っていた。一見では十代半ばに窺える容
姿も、その落ち着いた雰囲気は大人の余裕を表している。伊達に執事を任されているわけ
ではないようだ。
しかし、流石の彼もこれから起こる不測の事態には目を丸くせざるを得なかった。
「お父さんなんか、大ッ嫌い!」
それは美しい声だった。凛とした強さと、それでいて少女の持つ儚さや弱さを感じる声。
透き通ったソプラノは、大人びた気品を感じさせながらも、紅く熟した林檎のように艶や
かで異性の本能を掻きたてられる。雨水に濡れたカラナシの大樹に、もし精霊が宿るなら
きっとこんな声に違いない。
しかし、そんな美しい声も今日という日だけは勝手が違った。ただの一言……だが、そ
の悲しみに暮れた涙声は、父親を非難する意味合い以上に、深い嘆きを含んだ精一杯の抵
抗のように感じられた。
それが、少年執事には信じられなかったのだ。
なにせ、先刻飛ばした手紙に認めたほど、当家の親子仲は睦まじいはずなのである。と
ころが届いた声に含まれる険は確かなもので、程なくして、白地に薔薇をあしらった稽古
着に身を固めた娘が、街外れへ向かって疾走していく姿が目に映ったのだから。
「これは、一体……」
しばらく、放心したように後姿を眺めることしか出来なかった彼も、時間が経過するご
とに現在の認識が確実になってくる。
「と、とにかく! 旦那様に会ってみないと」
ようやく正常な判断を取り戻した少年は、ふと傘下に広がる街路を見渡して蟀谷《こめ
かみ》を押さえて蹲った。道行く人は物珍しそうに立ち止まり、既に家の周りには垣根が
出来始めている。
「弱りました。これでは在らぬ噂が立ってもおかしくありませんよ」
町民に気付かれないように、窓の影へと身を潜めた執事は、ため息を吐きながら外の喧
騒に耳を欹《そばだ》てた。
町内でも評判の仲良き父娘──その娘が泣きながら父親を罵って飛び出してきたとあれ
ば、よからぬ詮索や吹聴があって当然だろう。既に悪意のあるなしに関わらず、噂は尾鰭
がついて外気に充満していた。
「……なんでも、クラリスちゃんが泣きながら家《うち》を飛び出していったらしいじゃ
ないか」
「そうらしいのよ。噂によるとクラリスちゃんの手にはお父さんの剣が握られていたそう
よ」
「勇者様の剣かい? そりゃぁ値打ちモノだろうねぇ」
「それよりも、ワシは嬢ちゃんの走り去る姿のほうが気になったわい」
「そうそう、息は切れ切れで頬は紅潮。あの勇者様の娘がだよ? 普段の稽古で体力的に
は伸び盛りの彼女があんなに苦しそうにしてるなんて──」
「なに、なにィ? もしかしてェ、仲良しすぎて、親子でヤッちゃったとかァ? キャー
ーッ!」
「阿呆ッ! 仮にも勇者様だぞ。そんなことする分けねえだろうが。俺は──恋なんじゃ
ないかって思ってる」
「ハァ?! あんた勇者様の娘が身分違いの恋に落ちて駆け落ちしようとしてるなんて言
うんじゃないでしょうね。しかも相手は自分で? バッカじゃないの、あんたと結婚する
ぐらいなら、まだこの家に住んでる執事と結婚するってほうがよっぽど真実味《リアリテ
ィ》あるわよ……」
少年執事の予想通り、噂は既に洪水のように溢れ出てとどまることを知らない。なぜ、
人間というものはこんなにも根も葉もない噂が好きなのだろうかと、少年執事は桟の下で
大息することしか出来なかった。
「おいおい、そりゃねえだろう。この家の執事っていやぁ、黒人種《カラー》の奴隷だろ
? しかも、魔族の呪いでずっと成長が止まったままっていうじゃねえか。そんな気味の
悪い奴に大事な娘をさらわれてみろ。勇者様の剣が閃いちまうぜ!」
馬鹿らしい戯言はいつまでも続く。キューブは昼間から呑んだくれている男の笑い声を
背に階段を駆け下りていく。これ以上、在りもしない噂で主君を辱められるのは我慢なら
ない。
廊下を駆け抜け、口論の震源地となった扉を勢いよく開ける。
「旦那様! 付近は当家の悪い噂で持ち切りです! 一体、何があったのか、皆様に一か
ら説明を……って、うわぁっ!!」
居間の扉は開け放たれた衝撃に耐え切れず、粉々に砕け散ったところだった。だが、キ
ューブが驚いたのは、そんな部分的なことではなかった。例えるのなら、ハリボテ小屋で
くしゃみをしたら、四方の壁全てがバタンと音を立てて倒れてしまったようなものだ。
彼が午前定時の掃除を終わらせたときに見事に輝いていた調度品は、跡形もなく床に散
乱し、磨き上げ艶を取り戻したテーブルは、今や床を突き破ってあらぬ方向へ立ち上がり、
砂埃の洗礼を受けていた。全ての窓硝子は吹き飛び、カーテンは信じていた人に裏切られ
たかのように自己の存在を否定する。壁には大きな無数の傷が刻まれ、小突くだけで崩落
の危険を孕んでいた。最も、崩れ落ちるのは絶対に壁だけでは済まされないだろうが。
「ど、どうなっているんですか!? これは……旦那様!?」
「あぁ……あぁ、キューブ。私は今、はっきりと死の淵というものを見てきたよ」
執事の声にようやく反応した当家の主は、口から抜け掛かっていた魂を取り戻し、身体
に降りかかった埃を叩《はた》きながら、深い安堵のため息を吐いて、唯一原形を留めて
いるソファに再び腰を下ろした。
「勇者様が何を冗談を」
床に散乱した破片を集めながら、溜め息混じりに呟く少年の視線の先には、四十前の紳
士が佇む。一見、キューブよりも執事然としたこの者こそ、王国内では知らぬ者なし──
救国の勇者ヨシュア、その人であった。だが、
「キューブ。何度もいうが、私は勇者なんかじゃない」
ヨシュアは少年執事が勇者と呼ぶ度に、殊更呼び方を修正してみせた。
当初はその意味を図りかねて何度となく同じ質問を繰り返した少年も、今では一人前の
執事となり、主の命こそ己の全てだと理解していた。今更詮索などありえない。
「申し訳ありません。旦那様」
「いや、いい。だが、クラリスの魔力は日を重ねるにつれて肥大化し、今では人の限界も
超えてしまったようだ」
他の誰が聞いても、それは親が我が子を誇る呟きに聞こえたろう。しかし、長年連れ添
った執事は、敏感に主人の不安を感じ取っていた。
「まさか……」
「その『まさか』のようだ。魔族化の兆候が落ち着いてからは、私も油断していたが……
やはり、血統とは住む場所を変えたぐらいでは消せないステータスなのかも知れない」
ソファに沈み込んで腕を組んだ勇者の表情は晴れない。それどころか、苦虫を噛み潰し
たときのように、苦渋に歪んでいた。
「そんな……それではイザベル様の願いは、所詮叶わぬ夢だといわれるのですか? お嬢
様は一生、魔族の血が再燃することに怯えながら暮らしていかなければならないのですか
?」
キューブの真摯な問いかけに、ヨシュアは目を伏せ、首を横に振った。
「違うんだよ、キューブ。勿論、クラリスが本当の出生を知れば、深い悲しみがその心を
苛《さいな》むだろう。だが、魔族の血を気にかけている……いや、怯えているといった
ほうが正しいか……それは実のところ、本人ではなく周囲の人間だ」
「──!」
思わず少年執事が吐き出そうとしていた呼吸を飲み込んでしまう程、それは起こりうる
最悪な未来を示唆している。キューブは慌てて首を振り、そんな最悪なシナリオを脳裏か
ら振り落とした。
「だからこれ以上、魔族化を進行させるわけにはいかない。なのに、あの娘《こ》ときた
ら、最近見つかった魔法石鉱脈の調査団に志願したらしい」
「そんな! 自殺行為です! 魔力の奔流に中《あ》てられでもしたら──」
「そういうわけで、私もつい声を荒げてしまってね。この有様というわけだ」
ようやく繋がった事象を確認した執事は、主人に向かってしっかりと頷いてみせた。
「分かりました。お嬢様を連れ戻してきます」
言うか否や屋敷を飛び出していく執事には、既に余計なものは目に入らなかった。観客
《ギャラリー》の幾人かが声を掛けてきたが、下らない噂に構っている暇はない。
万が一にも、城門の外に出られたら、非力な少年執事にはどうすることも出来なくなっ
てしまう。
「お嬢様〜! どうか、早まらないで下さいーッ!!」
街中を駆け抜けていくキューブの悲鳴は、また一ついらぬ噂を生み、その駆けていく姿
を後ろから眺めた勇者は、やれやれと首を横に振るだけだった。
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