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■名古屋茶道の基礎知識■
名古屋の茶道の、「基本的な基礎知識」です。
このサイトは「名古屋圏」を取り扱うものですが、周辺域を含めると煩雑になる為、 ここでは名古屋に限定しています。ご了承下さい。

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名古屋の茶家
神谷家(裏千家)

 名古屋の裏千家を語るに徳川斉荘と玄々斎は欠かせないが、 その遺芳を伝えるのが神谷家である。
 邸内には玄々斎が名古屋城の古材を以って好んだ茶室・孤庵、同じく玄々斎好みの柏蔭斎、 また猿面茶席写しの猿庵等の名席が配されている。

神谷家代々〜友治〜宗e(妻・村瀬玄中の娘「宗伍」)〜宗柏〜宗ちょう
蜂谷家(志野流)

 言わずと知れた、香道志野流の家元。
 茶道志野流の家元も兼ねている。
 但し蜂谷家が茶道と関係するのは明治以降である。

(@志野宗信・松隠軒A宗温・参雨斎B省巴・不寒斎)
以降蜂谷家
C休斎 D一任斎 E桂山 F黙斎 G陽山軒 H葆光斎 I(勝次郎) J豊光 K(式部) L豊充 M常足庵 N閑斎  O好古斎 P桂香庵 Q頑魯庵 R幽光斎 S幽光斎 

志野流公式ホームページ
http://www.shinoryu.com/
松尾家(松尾流)

 名古屋の茶道流派といえば、先ず松尾流をもってよく知られている。
 旧城下の主だった商家は悉く松尾流に帰し、また代々建築と作庭はお家芸と言われるほど優れ、 市内に松尾の好みと言われる茶席・数奇屋は頗る多い。

歴代はここでは省く。検索サイトで調べれば詳しく紹介されている。

松尾流公式ホームページ
http://www.matsuoryu.com/
吉田家(表千家)

 名古屋の表千家といえば吉田家である。
 京都堀内家と同様、独自の免状発行権すら有し、全国津々浦々に門人を有していた。
 また、松尾流と同様、建築と作庭はお家芸であり、その端正な好みの茶席が中京各所に残る。

紹和〜紹敬〜香穂〜紹清〜紹村(堯文)〜舜二


名古屋の職家・作家等
田中訥言(画)

江戸後期の大和絵画家。寛政二年の御所造営の折には障壁画を受持っている。 岡谷家を始めとする名古屋の豪商は訥言最大のパトロンであった。門下に冷泉為恭、渡辺清、浮田一宸ネどがある。

これら復古大和絵の画家は、名古屋の茶会の寄付掛に欠かせない。 京都では四条派が寄付掛の王道だが、名古屋では復古大和絵画家が王道である。
森村∴(画)

明治〜昭和初期の大和絵画家。日比野白圭に師事し大和絵を修めた。 名古屋で寄付掛として復古大和絵の系が喜ばれることは上記の通りであるが、 なかでも特に∴は頻繁に登場する。 これは今に始まったことではなく、それどころか一時代前は今日では想像もつかない、非常な人気であったと聞く。
木村表恵(漆)

漆師。初代は漆匠高橋表光に師事。漆の可能性を広げる様々な技法に挑戦にながらも、 どの作品もお茶に適うことが先ず念頭におかれており、非常に合わせやすく使いやすい。 まさに茶席の名脇役である。
村瀬玄之(漆)

張貫師。張貫とは和紙を胎として漆をぬったものをいい、代々それを専門としているだけでも大変珍しいが、 特に編みこよりを組み合わせることにより、精緻でしかもざんぐりとした如何にも茶に相応しい作風を得意とする。
加藤春二(陶)

窯名:葵窯 尾張徳川家康御用達窯である。黄瀬戸等を得意とする他、代々轆轤の上手さでは定評がある。
加藤芳右衛門(陶)

窯名:八坂窯 昭和7年、岐阜県無形文化財保持者の加藤十右衛門の長男として生まれる。 志野、織部、黄瀬戸の茶陶を中心に制作する。 例え豪快な桃山の写しであっても独自の「はんなり」とした作風が展開され、 特に千家系の道具とは非常によく合い、人気がある。

なお、同じく加藤十右衛門の子として次男・光右衛門(山十窯)、三男・彌右衛門(大萱窯)があり、 加藤三兄弟ならぬ三右衛門として有名。
中村道年(陶)

窯名:八事窯 高橋道八に師事した初代から、現在五代を数える。 初代道年(明治9〜昭和12)は京都の人であったが、高松定一(城山八幡宮の頁参照)の招きにより来名。 現在の八事の地に開窯する。作品は楽焼を始めとして朝鮮系から和物まで幅広い。
2代以降、特に楽焼が主体となり、現在、道年といえば光悦風の楽焼として定着している。 八事窯の命名は表千家即中斎であるが、名古屋の茶会では流儀を問わず、まことに重宝されている。

中村道年公式HP
米禽(陶)

横井米禽(べいきん)。本業(古美術商)の傍ら作陶にいそしみ、研究・研鑽を重ね、大正13年には東雲焼(窯)を譲り受けて作陶に励んだ。 朝鮮系のものから伊賀などの和物に安南まで幅広く手がけ、なりよりどれも実にお茶に適っているので茶席で取り合わせるに重宝し、現在でも人気が高い。 昭和16年没。56歳。
長谷川一望斎(金工)

金もの師。初代青龍斎克明より一望斎春江・一望斎春泉・一望斎春洸と続く。 茶道具は勿論のこと、現代的な諸作品まで幅広く手がける。
加藤忠三朗(釜)

 釜師。初代は尾張国東春日井郡守山村の人で鋳物師を業とし、 慶長6年、藩主に招かれ清洲に移り更に慶長16年、清洲越に伴い名古屋城下へ移住する。 以後、代々尾張徳川家のお抱え釜師として活躍し、現在の12代に至る。 名古屋の釜師として最も代表的な家である。
 HP内に詳しく紹介されているので、是非参考にして頂きたい。

加藤忠三朗家公式ホームページ


名古屋茶道史概説
 「名古屋」ができる以前の尾張では、織田家を中心として茶の湯が行われ、 清州城内に古田織部によって(織田有楽とも)天下三名席の一つ「猿面茶室」が 造られていたことはことに知られている(その後名古屋城内に移築され、第二次大戦で焼失)。

 本格的な名古屋の茶道の発展は、慶長年間の名古屋城築城にともなって、 「名古屋」という町が創設された時から始まる。

 そこでは、
・藩としての武家間での茶
・富裕な商人達の間での町方の茶
 この大きく二つの発展があった。

 尾張藩の茶道は一つの流派によって独占されていたわけではない。
 しかし基本的に終始、有楽流が主流であった。
 有楽流とは無論、織田信長の弟・有楽斎から始まる武家茶の流儀で、 尾張藩茶頭を代表する平尾家(主に代々数也を名乗る)・粕谷家ともに有楽流である。
 ただ、尾張藩の藩主から藩士まで、 こぞって有楽流の茶に打ち込んでいた・・・というわけでは決してない。 所詮は嗜み程度のことであり、剣術は柳生新陰流が主であったように、 茶の湯は有楽流が主であったということである。

 そんな尾張藩に、熱い茶道旋風が吹き荒れる時がやってきた。
 江戸後期、稀代の茶道マニア・徳川斉荘(なりたか)の登場である。
 幕府の力わざでまんまと十二代藩主となった彼は、足利義政の再来のごとく、 知止斎と号して藩政そっちのけで風流の道に打ち込み、 養家の田安徳川家時代に親しんだ裏千家玄々斎を尾州家でも取り立てて、 それに玄々斎の実兄で尾張藩家老の渡辺又日庵規綱も加えて茶の湯三昧に耽ったのである。
 斉荘が御深井焼(おふけやき)に代表される尾張藩の御庭焼を再興したことはよく知られているが、 それだけではない。
 質素で田舎じみていた名古屋の茶風そのものが、 斉荘以後、菓子から道具まで、目に見えて華美になったという。
 しかし斉荘は三十六歳の短命で世を去った。続く十三代慶臧(よしつぐ)も短命。
 そして十四代慶勝によって再び有楽流が尾張家の御流儀として再興されたが、既に世は呑気にお茶を点てているような情勢ではなく、ほどなくして幕府が瓦解。
 明治以後、基盤を失った尾張藩の武家の茶道は殆ど廃絶した。
 現在は平尾数也・平澤九朗・正木惣三郎等の尾張藩士の作陶品などが時折茶会に使用される程度であるが、尾張藩有楽流の点法は奇跡的に伝承し、尾州有楽流という流派となって存続している。
 無論、渡辺規綱又日庵や徳川斉荘のものは裏千家系の茶会で頻繁に登場するので、是非覚えておかねばならない。

 藩内での茶道が有楽流を主とし、 江戸末期を除いて特筆されるような展開を見せなかったのに比べて、 町方での茶道は江戸中期頃から多様な展開を見せている。

 そもそも名古屋の商家は、清州から名古屋の創設と共に移ってきた(これを清州越という)家が「清州越の名家」として老舗としての幅を利かせ、 また、初代藩主義直に従って駿府から移ってきた「駿河越」の家がそれに次いだ。
 今でも「〜家は清須越の旧家で・・・」というのは良く聞く言い回しである
 尾張徳川家はいうまでもなく御三家の一であるが、 名古屋の豪商にも御三家ならぬ「三家衆」なる格別の家があり、 「伊藤家」「関戸家」「内田家」の三家がそれである。
 伊藤家はいうまでもなく現在も名古屋人にこよなく愛されている松坂屋(旧・いとう呉服店)のオーナー。
 関戸家は「関戸本古今和歌集」「関戸本和漢朗詠集」等で知られる通り、 日本屈指の古筆コレクションを誇った家。 特に関戸家は茶道具の蒐集も膨大であり、 名古屋の茶会では会記に箔をつけるに「関戸家伝来」の文字が欠かせない。
 他にも、現・岡谷鋼機の笹屋岡谷家、現・丸栄の十一屋小出家、 現在も堀川沿いに往時の店舗・邸宅が残る川伊藤家(堀「川」沿いの伊藤家)、 など二十家が尾張家御用達の豪商として知られ、今に続いている

 名古屋の町方での茶道の発展はこれらの豪商が基盤となっているわけであるが、その流儀はやはり千家流が主である。
 特に河村曲全は覚々斎から真台子の皆伝を受ける程であり、 また高田太郎庵は覚々斎手造の黒楽「鈍太郎」を数多の門人の中から 籤で引当て大きな話題となっていおり、今も太郎庵好と伝えられる茶席が残る。
 こうした中、表千家の出張教授として覚々斎の高弟・松尾宗二楽只斎が派遣され、 以後松尾家代々が名古屋に出張教授し、七代好古斎の代には居を名古屋に移して松尾流として発展した。 「名古屋の旧家(豪商)は松尾流」とはよく言われるところである。
 また、こうした名古屋城下ではなく、名古屋周辺部の尾張・三河・美濃に勢力をもった流儀として、千家の連枝である久田家(ここでは両替町久田家)が特記される。
 明治維新後、尾張藩の武家茶道はもちろんのこと全国的に茶の湯が著しく衰微していた頃、 この名古屋圏だけは例外であり、逆に藩の禁令が消えて茶道熱が高まった観さえあった。
 ただし、そうした明治から大正までの名古屋圏の茶道について、 高橋箒庵は
「同地に勢力のある久田流や松尾流の宗匠の指導をうけ・・・、 これらの流祖の筆跡を重んじ、久田宗全作の楽焼茶碗などをこの上もない名品として有難たがり・・・、 すべて地方的低級の田舎茶に過ぎなかった」
 と酷評している。

 名古屋がこの「田舎茶」から脱する大きな機会の一つに、 関東大震災による近代数寄者の巨星・益田鈍翁の名古屋入りが挙げられるだろう。 鈍翁に触発されるように若手の数寄者が集まって連日茶事を催し、名古屋の茶道界をリードした。 いわゆる「敬和会」である。
 これら数寄者達とは別に、茶匠たちの活躍も見逃せない。表千家に連なる松尾家・吉田家の代々は言うに及ばず、裏千家の村瀬玄中、久田流の下村西行庵、遠州流の横井瓢翁などはその代表だろう。 特にこの時代の茶匠は、数奇屋の作事にも秀で、戦災で多くが消失したとはいえ、その遺構は今なお名古屋市内外の至る所に残っている。

 ただし戦後になると森川如春庵を最後に財界系の大物数寄者の時代も終わりを迎え、彼らに師事されて茶室・茶庭の普請までするような茶匠も姿を消した。
 現在ではいわずもがな、裏千家・表千家社中のご婦人がたが、ここ名古屋でもほとんどを占めている。


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