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大慈庵の外観。奥に広間・立礼席のある主屋が連なる。「大慈庵」の扁額は地元の書家の手になるもの。
躙口と矩折・南面は貴人口が設けられ、縁も廻されている。
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大慈庵内部。台目床と点前座が並んだ三畳台目の席。
台目床と点前座が並ぶ形式の三畳台目は使いやすいのだが、正客の位置から点前座が全く見えないのが難点。
しかしこの席では床柱の袖壁に大きく下地窓があけられているために、正客と亭主が妨げられることがない。
実際に使う時の状況が、非常によく考えられている席だと思う。
なお、網代天井の一段上がった小壁には空調口が設けられており、
少し騒がしいが現在茶室にはなくてはならない工夫であろう。
また掛込天井には突上窓が設けられているが、上の外観写真を見ればわかる通り、実際には突き上げられておらず、
電気照明が仕組まれている。これも現代茶室ならではの工夫と言える。
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主屋、玄関正面に設けられた六畳の寄付。ご覧の通り非常に瀟洒で洗練され、
真新しい料亭のような雰囲気である。常に四季折々の室礼がなされているようで、
取材時は新年を寿ぐ花と調度で飾られていた。
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主屋、十畳の主室「松の間」と同じく十畳の次の間「さつきの間」。
床脇の片側が琵琶台になっているのは表千家の代表的広間「松風楼」の意匠、
そしてもう片側には地板のみ入れられて大きく下地窓があけられており、これは裏千家の代表的
広間「咄々斎」の意匠である。
表裏両千家の代表的茶席の好みが、巧みに取り入れられているわけである。
それでいて全体的には、大胆でシンプルな構成になっており、申し分ない。
また、欄間には源氏香図がさりげなく透かされるなど、
さりげない奥ゆかしさと気品が添えられている。
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玄関脇の立礼席。
ここでほぼ毎日呈茶がされている。
日本庭園が一望され、気持ちがよい。
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左写真:栄松軒外観。
左下写真:栄松軒内部。この栄松軒は三好町福田の酒井家にある栄松軒を忠実に再現した、
三畳台目二畳(つまり広さとしては四畳半)中板入りの席である。
栄松軒は酒井家十二代利泰の時、明治39年〜40年に碌々斎好みの茶席・北野神社(北野天満宮)
千歳軒に倣って建てられたという。(『数寄屋聚成』北尾春道著では中川宗甫の好みとある)
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参考:北野天満宮「千歳軒」内部
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右上の写真が栄松軒の本歌とされる千歳軒であるが、三畳半中板入りで、床も宇治橋の橋杭だったという床柱が
印象的な原叟床。栄松軒とは基本的な構成は同一であるが、雰囲気は大きく異なる。
しかし注目されるのは両席に共通する「道安囲い」のような、点前座と中板の境を太鼓張襖で仕切る手法である。
茶室の構成は全く異なるが、このように中板を入れて更にその境を太鼓張襖で仕切るというのは三重県津市一身田の
専修寺内にある安楽庵で見られる。安楽庵は秀吉の伏見城内に造営された有楽と道安の合作と伝えられ、
元禄享保以前に現在地に移築されているというから、この形式を残す茶席としては最古であろう。
但し千歳軒、或いは栄松軒を建てる際に遥か勢州の安楽庵が参考にされたとは考えにくい。
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とはいえ酒井家文書中には、明治40年10月26日・11月13日の「道安居士三百年忌 茶会目録」が伝わっている。
明治40年とはまさにこの栄松軒の竣工の年、栄松軒が道安を偲んで建てられたものであることは疑いがない。
道安囲といえば表千家祖堂のような仕切り壁をつけて火灯口を開けるのが一般的であるのに、
道安を偲ぼうとしながらも、あえて千歳軒の形式を踏襲したのは何か意味があったのだろうか。
因みに、「千歳軒に倣った」といっても、千歳軒は明治36年に建てられたものであり、
明治39年着工の栄松軒とはほぼ同時期のものである。何かしら道安好みを示す茶室の古図があって、
それに基づいて「千歳軒」と「栄松軒」という二つの姉妹茶室が企画されたとしたら大変面白い。
現時点では詳細は不明であるが、少庵系統の千家茶道からは忘れ去られがちな道安に対し、
三河の地で三百年忌が営まれ、その為に茶室が建てられるなど、並々ならぬ顕彰の動きがあったとは、
注目されて然るべきであろう。
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栄松軒・水屋
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参考:栄松軒本歌のある酒井家
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※参考
酒井家は江戸時代より三河国加茂郡福田村で主に眼科医を営んだ旧家である。
もともとは武家で尾州徳川家に二千石を以って仕えたが、三代利知の時に改易となり、
医家としては四代以後であるという。殊に名高いのが幕末の十代利亮で、尾州家出入の医師として活躍する他、
和歌を千種有功、香道を蜂谷正親、茶道を久田宗員に学び、またこうした酒井家の多趣多芸は後代にまで及んでいる。
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